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▼ 2004.05



2004-05-01

クリストファー・プリースト『奇術師』

古沢嘉通訳/ハヤカワ文庫FT [amazon] [bk1]
The Prestige (1995)
★★★★

奇術の演出を「物語を語る」やりかたと照らし合わせること。SF・ミステリなどのパルプ小説で使い古された類型を現代文学的な多重テキスト構造にはめ込んで語りなおすこと。このどちらかをやっている小説はいくつか読んだことがあるけれど、『奇術師』はこの両方を高い次元で達成していて、しかも両者が有機的に結びついているのが素晴らしい。

ひとつだけ気になった点を書くと、作中テキストを提示する順番は果たしてこれが一番効果的だったんだろうか。僕の場合は前半の記述を後から読み返して、なるほどこんなこと書いてあったのかとはじめて感心することが何度かあった。それだけ精密に書かれているということでもあるのだけれど。

2004-05-02

『キル・ビル Vol. 2』

Kill Bill: Vol. 2 (2004)
監督:クエンティン・タランティーノ
★★

『キル・ビル』後編。まあ、要は痴話喧嘩の話だったわけですが、やはり娯楽映画を前後編に分けて公開するのは無理があると感じた。ユマ・サーマンの「ザ・ブライド」が昏睡状態から醒めるところから途切れずに追っていかないと、たぶん本来は物語の緊張感を保てない。

そのあたりの鑑賞する心構えの難しさを差し引いても、オープニングの教会の場面、後半のビルとの対決場面ともにだれていて、正直言って途中眠くなってしまった。面白かったのはダリル・ハンナの「エル・ドライバー」との格闘場面くらい。この場面は、本来想定していなかった場所で偶発的に戦闘が発生してしまってどうなるか、という感じが出ていて良かった。

タランティーノが得意としていた時間軸のずらし方も今回は芸がない。例えば、ザ・ブライドが棺の中に生き埋めにされる→かつてのカンフー修行が回想される、とくれば誰でも、ここで棺を破れるような特訓をしていたという話なんだろうとわかるので、修行の過程を描くのはほとんど寄り道に見える。

前編を見たときにも感じたけれど、タランティーノの映画には、コミック的で内面のない登場人物を生身の俳優が実写で演じるという面白味があると思う(実際、この作品のユマ・サーマンとかダリル・ハンナがそのままアメコミ絵柄で闘っていてもあまり違和感なさそうだ)。もっと小気味良くまとまっていれば、そのあたりで新境地を拓いた作品として面白かったかもしれないのでちょっと残念。

余計なお世話だけど、タランティーノの周囲には「趣味大爆発だからオッケー」というのじゃなくて、「お前とりあえず2時間にまとめて来い」と言える人物が必要なんじゃないかと思った。タランティーノの作品でそのようなバランス感覚が働いていたのは、最初の『レザボア・ドッグス』だけなんじゃないだろうか。

2004-05-05

貴志祐介『硝子のハンマー』

角川書店 [amazon] [bk1]
★★★

貴志祐介の久しぶりの新作は東京都内のビルを舞台にした「密室殺人」もののミステリ。犯行の可能性を検討するために、建物のセキュリティや監視カメラ、さらには介護用の猿(密室に猿!という組み合わせだけですでに嬉しい)やロボットなどを次々と調査して仮説を立てていく。この過程は幅広い分野の情報が具体的に提示されて面白く、きちんと現代を舞台にして古典的な密室ものをここまで描けるのかと感心する。特に、人に危害を加えられないようにプログラムされている介護用のロボットを殺人に用いることはできるかという話は、ほとんどアイザック・アシモフのロボット・ミステリーみたいで、こんな話をいまどき正面から扱う作品が出てくるとは思わなかった(良い意味で)。

後半の第二部は一転、犯人視点で犯行に至るまでの経緯が描かれる(これはシャーロック・ホームズものの長編作品のような、古臭く見える書法ではある)。こちらも犯行計画を練る過程などひとつひとつ具体的な細部が詰めてあってよく考えてあるものだと思うけれど、『青の炎』と同じように、物語の枠組みが古めかしいメロドラマ(親父がヤクザの食い物にされて……みたいな)なので主人公の犯行動機には同調しにくい。この作者はたぶん犯行プロセスの詳細を描きたいのが先にあって、ドラマは後付けなのでこういう無理が出るのだろう。『クリムゾンの迷宮』のように前提からゲームに徹していれば良いのだろうけど。

新刊情報

amazon.co.jpにジーン・ウルフ『ケルベロス第五の首』(柳下毅一郎訳:国書刊行会)が登場。6月20日発売予定のようです。[追記]その後7月に延びたようです。

2004-05-08

スカーレット・ヨハンソン2本立て

スカーレット・ヨハンソン主演の『真珠の耳飾りの少女』と『ロスト・イン・トランスレーション』が揃って5月8日から拡大公開されたので、さっそく続けて見てきた。

『真珠の耳飾りの少女』

Girl with a Pearl Earring (2003)
監督:ピーター・ウェバー
★★★

フェルメールの有名な絵画は「メイド好き」の産物だった!……という話なのかはさておき、実在の芸術作品の裏話を勝手に創作する話というのはよくある形式で、そのなかでこれは特にひねりのある面白い筋書きとは思えない(とりわけフェルメールの妻をはじめ、周囲の人物が一方的に醜く描かれるばかりなのが物足りない)。ということで、ひたすら絵画の世界を端正な映像で再現することを目指した映画。

ただ個人的には映画館の前方の席に座ったのが悪いのか、室内場面で粒子がちらついて見難いことがあり、期待したほど映像を堪能できなかった(空いていたので途中から後ろの席に移ったら見やすくなったけれど)。それでも、スカーレット・ヨハンソンを使って実物の絵画を模した(あるいは実物以上に美しい)ひとつの画面を構築していくところは見ごたえがあった。

撮影のエドゥアルド・セラの作品は僕の見たうちでは『鳩の翼』が印象的で、キューブリックの『バリー・リンドン』ばりの絵画的で端正な場面が次々と出てきて素晴らしかった(さすがにアカデミー賞の撮影部門で候補に入っている)。こういう文芸・時代ものが得意な人なんだろうか。

ちなみにスカーレット・ヨハンソンは顔の右側にいくつかそばかすの跡のようなものがある(→参考画像1)。この映画の「決め」の場面では(元のフェルメールの絵画がそうなので)左向きの顔を撮られるためそれが目立たないのだけど(→参考画像2)、もし反対側を向く構図が必要だったらまずかったかもしれない。そう考えると、何かその「綺麗な片側しか撮らない」という偏りが、実生活では超生意気なビッチ女優とされるスカーレット・ヨハンソンを無理やり「耳に穴を開けるのをためらう純情な乙女」に仕立て上げることを象徴しているような気がした。まあ映画なので、それが一概にいけないとは思わないけれど。

『ロスト・イン・トランスレーション』

Lost in Translation (2003)
監督:ソフィア・コッポラ
★★★

そのスカーレット・ヨハンソンの下着姿からはじまる『ロスト・イン・トランスレーション』、こちらで演じられるヒロイン像のほうが自然に感じられて面白かった。ヨハンソン演じる若妻の「普段着」の撮り方に女性監督らしい生活感があって、あまり見たことのない感じがする。

最初は「外国人から見た日本」というフィルターに説得力があって、またビル・マーレイの視点からCM撮影現場などでの不毛な「トランスレーション」を描いているところも興味深い。ただし、「京都」「富士山」といった定番どころもしっかり押さえているけれど。結局、何も起こらなくて物語が薄いように見えてしまうのは、日本在住の観客なので観光映画としての面白さを感じられないせいなのかな。

2004-05-09

カンヌ映画祭のコンペティション部門出品作

写真付きの一覧で見やすい。ウォン・カーウァイの『2046』、押井守の『イノセンス』、マイケル・ムーアの『華氏911』などが入っている(こう題名を並べるとSFの映画祭みたいだ)。エミール・クストリッツァの新作"La Vie est un miracle"なんか早く見てみたい。

2004-05-12

連城三紀彦『流れ星と遊んだころ』

双葉社 [amazon] [bk1]
★★★

連城の長篇作品は何か意外な展開に驚くというよりは、よくこんな趣向を徹底して長篇を一冊書けるものだなあと感心してしまうものが多くて、これもそんな感じの作品。過去に似た系統のトリックを使った作品も書いていたけれど、そのときよりも叙述の仕掛けが物語と結びついていて洗練されている。

例によって、他人を騙し通すことに命を賭ける困った登場人物ばかりが出てくるのも良い。

ただ、浮き沈みの激しい芸能界での一瞬の光芒を「流れ星」と表現してしまうような感覚は、端的に言えば演歌センスなんじゃないだろうか。これをまじめに受け取るべきなのかちょっと悩んでしまうところもあった。

2004-05-13

『ガーデン』

Zahrada (1995)
監督:マルティン・シュリーク
★★★

スロヴァキアの映画監督、マルティン・シュリークの作品。昨年「マルティン・シュリーク 不思議の扉」と題された特集で公開されたうちの一本。

日常に疲れた男が文明から離れて田舎の空き家に住まい、美しい風景と不思議少女に癒される、みたいな話。ちょっとあまりに願望充足めいた筋書きなので乗れなかったのだけど、端々に懐かしい幻想小説の雰囲気があって好きな系統ではあるので、他の作品も見てみようと思う。スロヴァキアの田園風景が絵画的に撮られていて綺麗。

あまり一貫したストーリーがなくてエピソード集のような内容なので、章立ての語りにしているのはうまく逃げたなという感じ。

『キャメロット・ガーデンの少女』

Lawn Dogs (1997)
監督:ジョン・ダイガン
★★★

お伽噺のように作り物めいた郊外住宅地、キャメロット・ガーデン。街の暮らしになじめない少女(ミーシャ・バートン)は近くの森に住む狼、ではなくて純朴な青年(サム・ロックウェル)と仲良くなるが……。

アメリカの郊外住宅地の息苦しさをメルヘンに重ねて描く、ティム・バートンの『シザーハンズ』を思わせる世界。メルヘン調に語られた冒頭、ミーシャ・バートンがいきなりクッキーに蝿を塗り込める場面が印象的で、ある程度バッド・テイストに踏み込むことを辞さない映画なのがわかる。

金髪美少女のミーシャ・バートンが赤い帽子をかぶって森へお使いに行くという「狙いすぎ」な場面からはじまって、いくつか面白い場面があったのだけれど、最後の締めがしょうもなくて白ける。元が『シザーハンズ』なのでサム・ロックウェルが街の住民から誤解されて袋叩きになるのは予定通りなのだけど、その引き金になったエピソードがつまらないし、これだと結局ミーシャ・バートンは青年に何も与えずにただ迷惑をかけただけになるので、説話として座りが良くない。

サム・ロックウェル(『コンフェッション』も良かった)はこれが出世作になったらしい。確かに、現実にはいそうもない役柄なのだけど卑しくならずに存在感を出せている。

2004-05-14

『メイ』

May (2002)
監督:ラッキー・マッキー
★★★

内気な少女が外に出て恋をする……という裏『アメリ』にして、ゴスを極めるとサイコスリラーになりますよ、みたいな話。

主人公メイのぎこちない言動、他人と巧くコミュニケーションを取れない様子がとてもリアルに描かれていて迫力がある(現実のモデルありか?と思わせる)。メイが自動車修理工の青年に惹かれるのは「手が美しいから」という理由で、これはほとんどシオドア・スタージョンの「ビアンカの手」の世界。

その相手の青年はなぜか「サタニック」な装飾の部屋に住んで自主映画も撮るようなホラー映画ファンで(監督自身もこの立場に近いのだろう)、ここからあくまで「ネタ」としてゴシック・ホラーの意匠を消費する青年と、本気で入れ込んでしまう主人公の感覚の差が出てきて面白い。

終盤はグロテスク描写の連続になって、ここまでやると個人的には面白さがわからないのだけど、いわゆる「バカミス」の犯人が取るような行動をまじめに映像化しているという意味では興味深かった。

主人公役のアンジェラ・ベティスは誰かに似ていると思いながら見ていたのだけど、後で考えたらたしか『らせん』で「貞子」の役をやっていた佐伯日菜子じゃないかな。

2004-05-15

『ビッグ・フィッシュ』

Big Fish (2003)
監督:ティム・バートン
★★★★

期待通り良かった。ちょっと言葉で説明しすぎているように思えるところもあったけれど、物語(=映画)をどのように語るかという話が、父と息子の関係を重ねて綺麗にまとまっている。ジョン・アーヴィング原作の映画『ガープの世界』や『ホテル・ニューハンプシャー』に通じる、張り詰めた幸福感があって気持ち良い。(アーヴィング的な主人公の物語に、息子の視点からもうひとつ外枠を加えて……と考えると近い気がする)

アルバート・フィニー演じる老エドワード・ブルームと息子の嫁は、「あいつの話は事実そのままでつまらん」「あなたの話には長い尾ひれがついてるけどね」というような会話を交わす。

「長い尾ひれ」というのは「トール・テイル=法螺話」のことだ。エドワード・ブルームの人生は美しい法螺話に彩られているけれども、息子のウィル(ビリー・クラダップ)だけはそうした誇張のない真実の父を知りたいと望む。その違いを乗り越えて息子が父親の「物語」を受け入れる場面で、アルバート・フィニーが息子を見返す穏やかな眼差しには感涙。エドワード・ブルームが子供の頃、魔女の瞳の中に見たという「自分の死の場面」を宙吊りにしておく趣向も巧くできている。

ちょうど手元に『バートン・オン・バートン』(フィルムアート社)[amazon] [bk1]というティム・バートンの特集本があり、その中の『エド・ウッド』に関するバートン自身の発言がこの映画に通じるものだったので、ここに書き留めておく。

この映画は、一九五二年にエド・ウッドが実際にこんなことをやったなんてことは言ってない。そうじゃないんだ。ある点では、『エド・ウッド』はちょっと主観的で、絶対的なものは何もないってことを白状してる。僕は自分がいいなと思った素材をいくつか採用して、ある種の精神を生き生きと伝えようとしているだけだ。(p.208)

僕はほとんどの伝記映画が嫌いだ。たいていの伝記映画は格式ばっててほんとに退屈だと思う。僕の見たところ、みんなあまりにもうやうやしくアプローチしすぎてて、そこが嘘っぽいんだ。(p.208)

あの人たちは僕が描いてるよりもずっと嫌な連中だったって僕は確信してる。でもあの人たちはご機嫌に描かれるべきだ。彼らは生涯馬鹿にされてきたんだけど、僕は絶対に彼らに関してそんなことはしないからね。彼らのことが好きなんだ。(p.208-209)

『エド・ウッド』は実在の映画監督エド・ウッドを描いた映画だけれど、バートンはそこで「退屈な伝記映画」のように歴史的事実をそのまま再現しようとするのではなく、気に入った素材を取捨選択して(おそらく実際よりも美化して)物語を構成するという手法を採った。それはこの映画『ビッグ・フィッシュ』の立場と似ている。

ところで、今回バートンがキャスティングにあたって参考にしたという『トム・ジョーンズの華麗な冒険』(若きアルバート・フィニーが現在のユアン・マクレガーと似ているらしい)を監督したトニー・リチャードソンは、『ホテル・ニューハンプシャー』映画版の監督でもある。その『ホテル・ニューハンプシャー』には、「人生を深刻にしないことは至難のわざだけれど、偉大な芸術でもある」というような印象深い台詞があった。『ビッグ・フィッシュ』に描かれる主人公エドワード・ブルームはその「偉大な芸術」を実践してきた人物かもしれない。

2004-05-16

中野翠『中野シネマ』

新潮社 [amazon] [bk1]

『小説新潮』連載(1993年〜1996年)の映画エッセイ。基本的にアメリカ映画の新作、特にティム・バートンやコーエン兄弟など、娯楽性と作家性のあいだで巧くバランスを取っている映画を褒める人で、好みに共感できて面白く読んだ。文章の歯切れが良くて曖昧さがないし、イラストも描く人のせいか役者ひとりひとりの表情や演技に注目していて参考になる。(ウディ・アレンは1969年の『泥棒野郎』から頭髪の薄さがほとんど変わっていない、と喝破するところは超クール)

巻末には小林信彦とのロバート・アルトマンについての対談、芝山幹郎とのプレストン・スタージェスについての対談が付録。プレストン・スタージェスは一度ヨーロッパに渡って、アメリカに戻ってから忘れかけた英語を学びなおした人なので言語感覚が変わっている、という芝山幹郎の指摘が面白かった。

2004-05-17

『過去のない男』

Mies vailla menneisyyta (2002)
監督:アキ・カウリスマキ
★★★

アキ・カウリスマキ監督の映画をそれほど見ているわけではないけれど、見ると画面の色彩に他の映画と明らかに違った鮮やかさがあると感じる(映像技術に疎いので、なんでそうなるのかは説明できないけれど)。『浮き雲』はその端正な色づかいの世界で、ベタな下町人情ものみたいな話をやっていて面白かった。

『過去のない男』もそれと似た路線で、やはり面白く鑑賞できる。ただし、照明のせいなのかそれともこちらの鑑賞した環境が悪いのか、色調が薄っぺらく見える場面もいくつかあったのが気になった。

映画の中で流れる音楽には、実際に劇中で流れている設定のものと、劇中で流れておらず物語の外部から付け足されているものの二通りがある。『過去のない男』で流れる音楽は明らかに前者が多く(八割方そうだったと思う)、つまり音楽が主人公と我々観客の耳に同じように届く頻度が高い。主人公にとって音楽は、失った「過去の自分」と現在の自分をつなぐよすがになりうるのだろう、などと想像しながら劇中の音楽に耳を澄ますことができる。

2004-05-18

『妄想代理人』終了

WOWOWで放送されていた今敏総監督のTVアニメ『妄想代理人』は、今週最終回が放送されて完結。一応最後までつきあったけれど、あまり面白くならなかったですね。

一話ごとに視点人物と語りのスタイルを変える、というコンセプトなのだけど、語り口を奇抜にすることが自己目的化してしまっていることが多くて、「RPG」の回や「主婦の噂話」の回なんかは、序盤でもう話が進まないことがわかるので見る気が失せてしまうくらいだった。語りたい物語がないのにスタイルだけが先行するというのも考えものだと思う。

2004-05-21

滝本誠『美女と殺しとデイヴィッド』

洋泉社 [amazon] [bk1]

滝本誠の映画コラム集。アメリカの病的なフィクションを見つめてきた著者の視点から、タランティーノとジェイムズ・エルロイ、『羊たちの沈黙』から『セブン』まで……など、犯罪ものとサイコ映画のまっさかりだった1990年代の雰囲気を垣間見られて面白い。読んでいて本当に好きそうだと思ったのが、『シザーハンズ』と『セブン』あたり。

かつてはスプラッタ・ホラーが担っていた新人映画監督の登竜門としての位置に、近年は犯罪映画が取って代わって活況を呈している、という指摘が興味深かった。その嚆矢となったのはたぶんコーエン兄弟の『ブラッド・シンプル』(1984年)だろう。コーエン兄弟は『死霊のはらわた』のサム・ライミと交友関係にあり、兄ジョエルは『死霊のはらわた』の製作にも参加しているけれど、自分たちの名義で作ったのは犯罪映画の『ブラッド・シンプル』だった(『ブラッド・シンプル』自体にもゾンビホラーのテイストが認められる)。そう考えるとちょっとした歴史の転換期にあたる作品だったようにも思えてくる。

2004-05-22

『レディ・キラーズ』

The Ladykillers (2004)
監督:イーサン&ジョエル・コーエン
★★★

コーエン兄弟の新作。この作品から監督名のクレジット表記が「Ethan & Joel Coen」の連名になっているのは何か心境の変化なのだろうか。

トム・ハンクス主演のクライム・コメディと聞いていたけれど、南部ミシシッピ州が舞台で『オー・ブラザー!』に続く「南部もの」といった感じもある。(アルトマン監督の『クッキー・フォーチュン』を思い出した)

現金強奪のためにメンバーを集めて計画を遂行する……というケイパーものの形式をコメディとして演出した話。これを言うと後半の展開に言及してしまうことになるのだけれど、犯行がばれたとしたら逃げれば良さそうなので、(題名の通りに)マダムを殺そうとする必要があまりないように見える。クライム・コメディとはいえ、そのくらいの筋は通してもいいんじゃないかと思った。

とはいってもそこはコーエン兄弟で、間抜けな泥棒たちがどたばたしながら計画を進めるところを、間抜けになりすぎない程度にさくさく進めて飽きさせない。(例えば、泥棒の内輪揉めが全然面白くなかった『パニック・ルーム』なんかよりはずっと巧い)

ロジャー・ディーキンスによる南部の風景をとらえた映像が綺麗で、特に霧がかかった画面が見事。たまに『第三の男』みたいな斜め構図を使っていたりもする。

有名スターのトム・ハンクスを看板にして、昔の映画の脚本を手堅く演出して、となればそう大外れはないのだろうけど、このままだとウディ・アレンみたいになっていきそうなので、今後は何か新たな展開を期待したいところ。

2004-05-23

カンヌ映画祭、パルムドールはマイケル・ムーア監督の『華氏911』

直前の騒動で「マイケル・ムーア必死だなw」とか思っていたら、意外とまじめに受けていたようで。中身を見てないから何とも言えないけれど。

史上最年少で男優賞に選ばれた『誰も知らない』の柳楽優弥(14歳)は、中学校の中間テストがあったので先に帰国していたらしい。

ニコルソン・ベイカーの新刊

id:arkeleyさんによると、ニコルソン・ベイカーの新刊が出るらしい。「9歳の少女が〜」ということだと、"The Everlasting Story of Nory"が訳されるのかな。

たしか柴田元幸が「ニコルソン・ベイカーと岸本佐知子は精神的な双子」みたいな発言をしていて、このときほど「精神的な双子」という表現が腑に落ちたことはない。

[追記]藤原編集室のtopics/注目の新刊によると、 『ノリーのおわらない物語』(岸本佐知子訳)、白水社から6月16日刊行予定とのこと。「本やタウン」の書籍新刊情報にも掲載されていた。

ニコルソン・ベイカーの『中二階』[amazon] [bk1]は、『トリストラム・シャンディ』の脱線精神を現代に蘇らせた傑作なので、未読の人がいたらお薦め。『中二階』を紹介した文章では、以下のところが丁寧で面白い。

2004-05-24

『ビートルジュース』

Beetlejuice (1988)
監督:ティム・バートン
★★★

ティム・バートンとウィノナ・ライダーの出世作ということになるのかな。いまさら初見。ちょっと粗いところはあるものの面白い。

主人公(たち)が冒頭からいきなり死んでいる、という仕掛けを伏せて後半まで引き延ばした映画をここ数年でいくつか見た記憶があるけれど、この映画は早々にその設定を明かして、後はどたばたコメディに突入する。薄っぺらい郊外住宅の裏側を異界の視点から覗き見る、「明るい館のゴシック」という感じ。現実世界も「冥界」も、どちらも作り物っぽくできているのが良い。全身でクレイアニメのような動きをするマイケル・キートンにも感心した。

いくらか物足りないのは、視点が屋敷にとどまって『シザーハンズ』のようにある程度外の社会に広がっていかないことと、アレック・ボールドウィンとジーナ・デイビスの演じる夫婦が「普通の人」の書き割りになっていてあまり魅力がないこと。そのあたり「若書き」の作品ではあるだろうと思う。

『マーズ・アタック!』

Mars Attacks! (1996)
監督:ティム・バートン
★★★★

豪華俳優陣とスタッフを揃えて、小学三年生の書いたクズSFを映画化しました、みたいな趣向。これは面白い。ティム・バートンはきっと前作で描いたエド・ウッドの遺志を受け継いでこの映画を作っているに違いない、と考えると泣ける。(映画内でエド・ウッドが敬愛していたオーソン・ウェルズは、『宇宙戦争』で「火星人来襲」の放送をして有名になった人でもあるし)

火星人たちが人と犬の体をつなげたりする悪趣味はまるきり子供の悪戯で、そこにはブラック・ユーモアなんて知的な意味はない。でもそんな、誰もが一度は思い浮かべたことがあるような「子供の夢」をそのまま映像化してしまっているところが魅力でもある。

個人的には、一応群像劇になるのかと思い込んでいたので、たくさん出てきた登場人物がろくに絡み合わないまま終わるのがちょっと拍子抜けだった。まあ、前提が子供の夢想なのにそんな筋書きを期待しても無駄だったんだろうけど。

異星人を○○で撃退する展開は、任天堂から発売された某ファミコン時代のRPGに似ているけれど(祖母が鍵になるところも同じ)、何か関係があったりはするのだろうか。

2004-05-26

伊坂幸太郎『チルドレン』

講談社 [amazon] [bk1]
★★★★

「俺たちの仕事はそれだよ」
「だから、何なんだ」
「俺たちは奇跡を起こすんだ」(p.193)

『重力ピエロ』は伊坂幸太郎のブレイク作になったのは認めながらも少し乗り切れないところがあったのだけれど、この作品は純粋に愉しく読めた。

型破りで善良なヒーローの巻き起こすエピソードを周囲の人物の視点から語っていくという、『重力ピエロ』で見せたスタイルを連作短篇集の形式にしたもの。全編がほとんど会話で進行して(その意味では映画の脚本を読んでいるようでもある)、その快調なリズムに乗せられて結末まで連れて行かれる。思わず頬がほころんでしまうやりとりもいくつかあった。

連作集全体の構成もよくできていると思う。例えば、後半の「チルドレンII」は人物がかなり偶然に巡り会っている話で、もしこれが冒頭にあったら「そりゃないだろ」と白けていた可能性もあるけれども、後半まで読んできているとそれが気にならない。目は見えないが洞察力のある「永瀬」の存在も、主人公の陣内に振り回される周りの脇役、という人物配置の繰り返しになりそうなところに適度のアクセントをもたらしている。

伊坂幸太郎のこれまでの作品では悪人の造形が平板なことが多く、それは主人公たちの清らかさを擁護するためにわざと書き割りの悪役を登場させているのではないか、という違和感につながるものだった。今回の作品では連作集という形式も手伝って、悪人を直接描写せずに話を進めることで、その種の違和感をほとんど感じさせないようになっている。

2004-05-27

『ミステリマガジン』と『SFマガジン』の最新号

『ミステリマガジン』2004年7月号は「ノワール再考」特集、『SFマガジン』2004年7月号は「異色作家短篇集」特集。どちらも興味のある分野で、拾い読みでは済まなそうだったので購入してみた。

『ミステリマガジン』のノワール特集に寄せられたエッセイでは、他のきちんと歴史的な経緯を踏まえた論考よりも、滝本誠の感覚優先の文章のほうが面白く読めたりする。ノワールというジャンルはなくて「ノワールな気分」があるだけだ、ということのような気もしてしまう。

その滝本誠の文章「ノワール=最悪を楽しむ狂ったユーモア」は、コーエン兄弟の映画『ブラッド・シンプル』と『バーバー』を取り上げているのも興味深いけれど(『バーバー』後半のやる気のない法廷場面はカミュの『異邦人』みたいだと思っていたので、同意見の人がいて嬉しい)、ノワールにはねじくれたユーモアが必要だという主張に共感をおぼえる。まじめに「破滅」とか「暗黒」を描かれてもあまり面白くない。最近の作家でジョン・リドリーを褒めているのも納得。タランティーノらによる「パルプ・フィクション」復権後に出てきた作家のなかで、僕の読んだ範囲ではジョン・リドリーはユーモアのセンスがあって好みだったので。(といいながら新刊の『地獄じゃどいつもタバコを喫う』は積読にしている)

収録短編ではまずジム・トンプスンの「システムの欠陥」に目を通すものの、これは小噺でたいした作品ではなかった。

『SFマガジン』の「異色作家短篇集」座談会(大森望、若島正、中村融)は、いまなぜか盛り上がっている分野ということで勢いがあるなあと思う。

2004-05-30

ジェフリー・ユージェニデス『ミドルセックス』

佐々田雅子訳 / 早川書房 [amazon] [bk1]
Middlesex (2002)
★★★★★

……わたしが内部に秘めていたのは、性差を越えて理解しあう能力、一方の性の単眼だけでなく、双方の性の複眼でものを見る能力だった。(p.363-364)

半陰陽の主人公カリオペ・ステファニデスが語る、個人の視点による20世紀アメリカ史、ギリシャ系移民のファミリー・サーガ、そして思春期の戸惑い。僕がミルハウザーの『エドウィン・マルハウス』のような、伝記形式の変わり種小説を好きだからというのを差し引いても、これは傑作だろう。

主人公による回想録の形式をとった小説なのだけど、語り手は時代をさかのぼって20世紀初頭の祖父母の物語から語り起こして、自分の生まれる前の出来事をまるで見てきたかのように超然と描写しはじめる。本のページ数にして全体の三分の一まで進んでもまだ主人公が生まれていないという、「お前はトリストラム・シャンディか」と突っ込みたくなる構成で、主人公の生まれた後もときおり本人の見たはずのない場面が平気で描写される。叙述の約束をあえて破ることで、一人称の(語ることに個人的な動機を持つ)語り手でありながら、ときに19世紀以前の小説、あるいは叙事詩のような全知の語り手として振る舞うことが可能になっている。(語り手自身は「わたしが少々ホメロス調になっても、お許し願いたい」(p.10)とうそぶいている)

ただし、これらの趣向は単なる技巧ではなくて物語的な必然に沿ったものでもある。例えば主人公が自分に与えられた遺伝的要因のルーツを探るのには一家の歴史をさかのぼっていかねばならないのだし、自分のセクシャリティを把握するためには「少女」時代のエピソードを詳細に思い出さなければならない。語られる過去の物語はつねに、何らかの影響を与えて現在の語り手を成り立たせてきたものでもある。カリオペ・ステファニデスという語り手がたしかに存在し、それならばこういう語りをするに違いないと自然に思えてくる。

さらに考えてみると、小説の作者が自分の生まれる前の時代の出来事、行ったことのない場所、自分以外の他人の内面を描くとしたら、必ずこの小説の語り手のような想像による再構成が入り込むはずだ。この小説ではそのことをすでに物語の中に取り込んでしまっているのだと考えることもできる。

各エピソードの面白さも素晴らしいのだけど、物足りない点があるとすれば、作者ジェフリー・ユージェニデスがかつて映画の脚本を志していた人というだけあって、場面の描写があまりに映画的(完全に映像化して語られているのがわかる)ということくらいだろうか。(もともと、個人史のダイジェスト的な場面を連ねながらアメリカの歴史を縦断するというのは映画の得意技でもあると思う。『市民ケーン』とか『素晴らしき哉、人生!』とか)

語り手のカリオペは1975年、自分の15歳までの出来事を語ったところで筆を措く(それ以降の出来事は「アメリカの生活ではあまりにありふれた悲劇で、この類いまれな記録にはふさわしくない」(p.700-701)と宣言される)。筋書き上はクライマックスも用意されていてある程度納得できるけれども、やはり「自伝」の語り手が現在に至るまでの25年間以上を語るべきことがないから空白にするというのはどこか奇妙に感じられる。作者ジェフリー・ユージェニデスは作中のカリオペの設定と同じ1960年生まれなのだけれど、自分がある程度成熟してから体験した時代のことは書きにくいのか、あるいは思春期に特別な思い入れがあり、それ以降の出来事にはあまり関心がないということなのかもしれない。

スティーヴン・ミルハウザーは第一作『エドウィン・マルハウス』を自身と同じ1943年生まれの人物の「伝記」として語りはじめ、11歳の時点で終わりにする。そこには一応物語上の必然性があるのだけれども、同時に、子供時代は特別に輝かしい時期でありそれ以降の出来事にはあまり関心がない、という作者の強い信念を感じさせるものでもあった。この「15歳で終わる自伝」といえる『ミドルセックス』を読んで、そのことを連想する。

2004-05-31

バートンとシャマラン

ティム・バートン監督の映画をいくつか見返して、いまさらながらM・ナイト・シャマランの映画がバートン作品の後追いになっている(少なくとも共通する題材を扱っている)ことに気がついた。

  • 『ビートルジュース』→『シックス・センス』
  • 『バットマン』『バットマン・リターンス』→『アンブレイカブル』
  • 『マーズ・アタック!』→『サイン』

こんな感じだ。このぶんだと、今年公開予定のM・ナイト・シャマランの新作"The Village"は「シャマラン版『スリーピー・ホロウ』」になるのではないだろうか。

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