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▼ 2003.06



2003-06-08

チャック・パラニューク『インヴィジブル・モンスターズ』(早川書房)

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Invisible Monsters (1999)
★★★

この話はどちらかといえば、二ページおきや五ページおきや三ページおきにページ番号が打たれた《ヴォーグ》や《グラマー》あたりのファッション雑誌のカオスの感覚に似ている。香水のサンプル紙が滑り落ちたかと思えば、唐突にページいっぱいに裸の女が出てきて化粧品を売りつけようとする。
前から二十ページめくったところでやっと見つかる目次を探そうと思わないでほしい。簡単に目当てのものが見つかると思わないでほしい。どのみち、ちゃんとしたパターンのあるものなど存在しない。(p.13)

『ファイト・クラブ』『サバイバー』の作者の新作、……かと思ったら、『ファイト・クラブ』以前に書かれて出版社に「わけわからん」と突き返されていた作品を改めて発表したものらしい。

銃撃で顔を破壊されて「見えないモンスター」となった元ファッションモデルがこれまでの経緯と現在の行動の断片を語る物語。カート・ヴォネガットJr.の『スローターハウス5』ばりに時系列の錯綜した話法が展開されて、カルトな雰囲気の漂う作品。すでに危機的な状況に陥っている主人公がこれまでの来歴を語りはじめるという(フィルム・ノワール的な?)構成、さらに消費社会からの脱出を試みる自分探しが暴走するという意味でも、やはり『ファイト・クラブ』の原型という感じがする。主人公のドッペルゲンガー的な人物が登場して重要な役割を果たすのもこれまでの作品と同じ。

『ファイト・クラブ』の難病の会巡りや石鹸作り、『サバイバー』のハウスキーピングなど、これまでの二作品で繰り出されてきたような興味深い細部の描写が今回はそれほど見られないのがちょっと物足りず、「『ファイト・クラブ』の原型」という以上の作品でないように思った。とはいえ、新作が楽しみな作家なのは変わらない。

2003-06-20

東浩紀・大沢真幸『自由を考える』(NHKブックス)

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★★★

東浩紀と大沢真幸の対談本。副題は「9.11以降の現代思想」。

いまの社会状況は、政府が上からの押しつけで民衆の自由を抑えつける(規律訓練型権力)のではなく、「マクドナルドの堅い椅子」や「Amazon.comのお薦め書籍」などのような、目に見えない緩やかな管理の仕方(環境管理型権力)の段階に入っている。そこでは、例えば「権力によって尊い表現の自由が抑圧されている!」式の伝統的な論法は時代遅れで説得力を持たなくなっており、どんな自由が失われるのかを明示・認識するのも難しくなる、というような概略。住基ネットや国民総背番号制への「古典的な」反対論にはたしかにぴんとこない感じを抱いていたので、この本の説明は共感のできるものだった。

ではその先、「環境管理型権力」の社会で我々は実際に何を失うだろうか、という話で、東浩紀は「匿名であることの自由」が失われ、自他の交換可能性、つまり自分が仮に他の誰かだったとしたらどうだろうかと想像することが難しくなるのではないかと論じる(大沢真幸もこれに同意)。これはこれで「公正さ」を判断する際の重要な思考基盤なのだけれど、上の「環境管理型権力」と結びついた問題かというと別にそうでもない気がする。まあ、この本の主旨は明快な解答を提示するというよりも、「環境管理型権力」の社会のもとで何が失われるのかをそれぞれ考えてみようという問題提起にあるようなので、必ずしも的確な結論が出ていなくても良いのだろうけど。

この本で論じられる「自主的なフィルタリング」の究極形として連想したのは、グレッグ・イーガンのSF小説『順列都市』に描かれる設定。『順列都市』では、自分の思考回路をコンピュータにインプットしてあらかじめ情報を取捨選択させておくことで、不要なゴミ情報を排除して「自分にとって有益な情報」だけを受け取るシステムが描かれる。これは現代の感覚で考えても便利そうな話なんだけど、一方で例えば、そこで情報を「不要/有益」と判断する自分の基準は、もしかするとゴミ情報を「不要」と判断することの積み重ねによっても形成されるのではないか、そこを体験しない自分の判断基準は果たして本当に自分のものといえるのか、というような問題が生じるのではないかと思う。『順列都市』自体はその点に深く突っ込みを入れる作品ではないのだけれど、グレッグ・イーガンは多くの作品で、「毎朝目覚めるたびに別人になる人物にとって"自分"とは何なのか?」(「貸金庫」)、「思考回路を操作するテクノロジーを受容した自分は果たして"自分"といえるのか?」(『宇宙消失』)、といった「"自分"とは何か」問題を正面から描いている作家なので、この『順列都市』の設定もそのあたりの問いかけを念頭に置いていないわけではないだろう。

2003-06-21

斎藤美奈子『趣味は読書。』(平凡社)

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★★

斎藤美奈子が『大河の一滴』『五体不満足』などのベストセラー本にいちゃもんをつける企画。

この本は出はじめたころに書店で拾い読みしたところとても印象が悪く、「こりゃ駄目だ」「斎藤美奈子もそろそろ終わりだな」と感じた。今回、改めて読んでみたけれどもその悪い印象は変わらない。

斎藤美奈子の文章については「これって結局××だよね」的な「類型化つっこみ」の人だと書いたことがある。類型化(あるいは図式化)というのは、逆に言えば話をわかりやすい段階に留めて深く考えずに済ますということでもあるわけで、この本ではその粗雑な論法が目立っている。

自分の読んでいる本に関していえば、例えば『永遠の仔』は「これって結局アダルト・チルドレンものだよね」の一言で片付けられているけれど、そんなのは読めば(あるいは読まなくても?)誰にでも言える程度のことだろう。批判をしたいのならその先、どうして「アダルト・チルドレンもの」がまずいのかを(「もう流行りじゃない」という理由以外に)きちんと論じてもらわないと物足りない。結局、アダルト・チルドレンという図式をひとつ「見抜いた」と思ったらそこで安心してしまうのだろうか。リテレール別冊の『ことし読む本いち押しガイド2000』にも、同じようにベストセラー本に文句を言う対談(岡野宏文と豊崎由美)があって『永遠の仔』も論じられているけれど、そこでの岡野宏文の批判のほうが視野が広く、当然指摘されるべきミステリとしての構造的な欠陥にも言及していて筋が通っている。『永遠の仔』は特に好きな作品ではないけれど、どうせならきちんとした論評を読みたい。

他の読んだことのある本、宮部みゆきの『模倣犯』についての論評も凡庸。村上春樹の『海辺のカフカ』についてはたしか『週刊朝日』だったかにも書いていたけれど、要するに「自己模倣」という以上の言葉はなさそうに思える(それにキャンディーズの「微笑みがえし」なんて昔のアイドルの歌を引き合いに出されても知るわけがない)。参考になったのは西尾幹二『国民の歴史』評くらい。

僕が斎藤美奈子の名前を知ったのは雑誌『鳩よ!』に掲載されていたこれも売れ筋の本を論評するコラムで(現在は『読者は踊る』にまとめられている)、当時は毎回連載を楽しみにしていたものだった。それと似たような路線のこの本がこれだけつまらなかったのは、こちらの側の嗜好の変化もあるだろうけど、たぶん文章自体の質も下がっているのではないかと思う。『読者は踊る』のコラムはひとつの論題のもとで何冊かの本を比較検討する趣向なのでそれなりに情報量があったけれど、この本は一冊の本を論評する形式のため情報量は少なめで、そのぶんつっこみのセンスで勝負するようになっている。そこでぼろが出ている感じ。『文壇アイドル論』の文章密度との相当な落差を見ても、この人は周到に文献を読み込んで準備をしないと面白いことを書けない人なんじゃないかと思う。つまり自分のオリジナルの意見でなく、他人の意見を整理する(類型化する?)のが巧い書き手なんだろうなという印象。

もうひとつ気になったのは、その本自体への論評でなく、「こんなのに感動する奴は馬鹿だ」式の読者を揶揄する言葉が多いこと。この手の文章は一見「鋭い論評」に思えるらしいのだけど、読者を論じてもその本自体を論じたことにはならないし、よほど周到に準備されたものでないとただ反発を招きやすいだけの安易な文章にしか見えない(ちなみにWeb掲示板をある程度観察するとわかるのだけど、作品自体でなく読者や観客を揶揄する発言がなされるとそこはたいてい「荒れる」。本当に面白いようにそうなるので、興味のある人は注意してみてほしい)。あえてその論法を借りるなら、結構売れているらしいこの本はたぶん、自分が「ベストセラー本を読むような馬鹿な読者でなくて良かった」ことを確認して(もちろん対象の本は読まずに)安堵できる本なのだろう。その意味でも、これはつまらないというだけでなく、気分の悪い本だと感じる。

2003-06-22

舞城王太郎「山ん中の獅見朋成雄」

『群像』2003年7月号に掲載された舞城王太郎の新作(中篇?)「山ん中の獅見朋成雄」を読む。うーん、何だろうこの安いポルノビデオみたいな発想は。構成も何もなくただ思いつきの妄想話を垂れ流しているだけみたいで、まったく乗れなかった。

手法としては擬音の使い方が特徴的。とにかく作中の音をどんどん文字で表現していくので、読者はその文字を脳内で音声に変換してついていかねばならず、結果としてむりやり作品世界に引き込まれるという構造になっていると思う。

個人的に舞城王太郎でこれまで良かった作品は、長篇なら『煙か土か食い物』、短篇なら「熊の場所」で、要するにどちらも最初に発表された作品。

仲俣暁生『ポスト・ムラカミの日本文学』(朝日出版社)

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★★★★

村上龍・村上春樹以降の日本文学史の見取り図を書き記す試み。この本の判型と装丁を見て最初に連想したのが「教科書」ということで、事実この本には、

  • 1970年代後半、従来の日本文学の伝統を背負わず、アメリカ文化の影響を受けた「ポップ文学」の担い手として登場した村上龍と村上春樹。
  • その上の世代の作家で、こちらは日本文学の伝統を受け継いだ中上健次との断絶。
  • 1980年代前半の高橋源一郎と島田雅彦の登場、そして「ポストモダン文学」。
  • バブル経済、郊外化、「渋谷系」、阪神大震災とオウム真理教事件といった社会現象と文学の対応関係。
  • 1990年代前半に登場した「セゾン系」作家、保坂和志と阿部和重。
  • 1990年代後半以降の「J文学」。

といった内容がわかりやすい明快な言葉で、過不足なく(教科書的に)まとめられている。世代的に村上龍や村上春樹の登場した時期を知らず、まだ読んでいない作家も少なくない者にとっては、評論としても読書案内としてもかなり参考になった(保坂和志、吉田修一などには興味が湧いた)。ミステリ/娯楽小説の分野では高見広春『バトル・ロワイアル』以外の作品は取り上げられていないけれど、ある程度共通する視点を適用できそうな気もする。

1990年代以降の作家については、ふたりの村上が到達できなかった地点をそれぞれの作家がいかに乗り越えようとしているか、という視点で語られている場合が多い。これはこの本に関しては統一感があって良いのだけれど、女性作家を意図的に取り上げていない(本文中の言及によると笙野頼子や松浦理英子など)のはたぶんその「ポスト・ムラカミ」視点を適用しにくいからという理由もあるのではないかと思った(実際、唯一好意的に紹介されている赤坂真理には村上龍の名前が持ち出されている)。

個別の指摘で興味深かったところ。

  • 村上龍の小説には心理描写がない。
  • 花村萬月、藤沢周などの「新宿系」作家の書法は村上龍以前のもので、古くさい。
  • 郊外化の進展にともない、アメリカの娯楽小説はSF→ハードボイルド→ホラーの順に展開した。(と、小田光雄『〈郊外〉の誕生と死』で指摘されている)
  • 村上春樹は阪神大震災で「ショックを受けなかった自分」に衝撃を受けたのではないか。

そのうち読んでおこうと思った本のメモ。(実は高橋源一郎はまったく読んでいなかった)

  • 高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』
  • 橋本治『S&Gグレイテスト・ヒッツ+1』
  • 保坂和志『季節の記憶』
  • 高橋源一郎『日本文学盛衰史』
  • 吉田修一『パレード』

著者・仲俣暁生氏のWebサイト「sora tobu kikai」に、巻末の作品リストが公開されている。

2003-06-23

内田樹『映画の構造分析』(晶文社)

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★★★★

副題は「ハリウッド映画で学べる現代思想」。前書きによると「みんなが見ている映画を分析することを通じて、ラカンやフーコーやバルドの難解な術語をわかりやすく説明する」(p.9)のが目的とのことで、この箇所を読んで「映画には興味あってもラカンとかには興味ないしな……」と嫌な予感がしたのだけれど、特に「現代思想」を意識することなく普通に映画論の本として興味深く読めた。

『エイリアン』論に代表される、物語の流れがわずかに破綻する(ひっかかる)箇所に着目することで、表のストーリーラインとは別個の「反-物語」的な記号を見出すことができる、という分析の視点が面白く、いろいろと応用してみたい誘惑に駆られる。(その意味で、もうちょっと実践編のタイトルの数が多いと良いのだけれど、まあ仕方ないだろうか)

「第3章 アメリカン・ミソジニー」は、ハリウッド映画にはなぜ異様なほど「女性嫌悪」ものが多いのか?という問いを立てて、その起源を西部開拓ものに求める興味深い論考。これはハリウッド映画の話だけではなく、例えばハメット、チャンドラー、ロス・マクドナルドに共通する「女嫌い」の系譜を指摘していた石上三登志の論考(小森収編『ベスト・ミステリ論18』収録)を思い出す。(あと、ハードボイルド探偵は現代に迷い込んだ西部のヒーローだ、と指摘していたのは小鷹信光だったか)

2003-06-25

『ソラリス』

Solaris (2002)
★★

言わずと知れた『ソラリスの陽のもとに』の再映画化。やっぱりロシア美女が出てこないと『ソラリス』の感じがしないんだよね、というのは置いといて、僕はタルコフスキーの『惑星ソラリス』は結構良い印象があって世間で言われるほど「眠い」とも思わないのだけど、これは退屈だった。何か全然、宇宙でも惑星ソラリスでもなくて良い話になってしまっている気がする。

スティーヴン・ソダーバーグが監督・脚本・撮影・編集をこなしている(撮影と編集は変名)ほとんど独り舞台の作品で、自己満足の芸術ごっこ(あるいはタルコフスキーごっこ)を見せられてしまったような感想。ジョージ・クルーニーは付き合いで演じてあげたという感じだろうか。

2003-06-29

『ミニミニ大作戦』

The Italian Job (2003)
★★

1969年の同題作品のリメイクらしい。それぞれ特技を持ったスペシャリストたちがチームを組んで金品の強奪計画を実行するという典型的なケイパー(強奪)もので、そういえば『オーシャンズ11』というのもあったし、最近のハリウッドでは昔のケイパーものを掘り返してリメイクするのが流行しているのだろうか。

冒頭のヴェネツィアを舞台にした強奪作戦はスピーディーな描写で説明も最小限に抑えられており、なかなか格好良かったのだけど、その後は全然面白くならない。

娯楽映画の主人公というのは、意味もなく一般市民を危険にさらすようでは観客の支持を得られないと思うのだけど(もちろん『フレンチ・コネクション』みたいに、意図して「危ない刑事」だとかを描いている場合などは話が別)、この主人公たちの練る作戦といえばLAの交通局をハッキングして信号を操作するなど、たいした必然性もなく大迷惑なもので、目的達成のための効率も良いとは思えない。なので成功したとしても爽快感に乏しい。計画を詰めていく途中で発生するアクシデントも、いかにもアクシデントを発生させるためにイベントを起こしているといった類の作為的なものでぎこちないし、シャリーズ・セロンを軸にした「亡き父親の復讐劇」みたいなメロドラマの挿入は単に映画のテンポを淀ませているようにしか見えない。カーチェイス場面をはじめ、非CG主義の渋いアクション演出という意味では『ボーン・アイデンティティ』のほうが優れていたと思う。

キャスティングを見ても、切れ者の二枚目と思しきリーダー格の役柄になんでマーク・ウォルバーグを持ってこなければならないのか訳が分からないし(リメイク元ではマイケル・ケインの役柄)、その他の出演者もこの人でなければという必然性に乏しい。深く考えずにそこそこ名の知れた俳優を集めてきて、話は古い企画を掘り返して適当に作って、という感じのありがちなやっつけ仕事なのだろうと思われる。

監督のF.ゲイリー・グレイという人はよく見たら、これもはったりだけの底抜けスリラーにしか思えなかった『交渉人』(1998)の監督をしていた人。

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