間奏♯







「ん……んん……ん……」

 ……彼女は彼の股間に顔を埋めている。
 口の中いっぱいに含んだ肉茎を、舌を這わせ、唇を窄めて、根元に指を巻きつけ、彼女は愛撫していた。最初は萎えていたものが彼女の中心を穿つに相応しい硬度を得るのに、おおよそ十五分かかっている。頭に載せられて引き離そうとしていた厳つい手は、最硬にまで屹立した辺りからむしろ抑え込むように力がいられていた。
(…………熱い……)
 精一杯の口唇による奉仕の最中、彼女の中にあったのはそれだけだ。身を切るような切なさも、その熱さの前に熔けてしまったかのようだった。いや。この熱が彼女の中の狂おしい想いを満たしていたのか。すでに己の奥底までもにこれの熱さが伝わっている。花弁を濡らし、下着に零れる蜜はそのためであった。
「くっ……」
 微かなうめき声。
 口の中に苦い味が広がっている。先走りのそれだと知った彼女は、口中から肉茎を抜き出し、竿の筋を下から唇を這わせながら舐め上げ、やがて頭部に口付けた。そして、鈴口に舌をねじ込む。
(出して……熱いのを……熱いのをください……!)
 両手でそれを挟みこみ、やわやわと指を動かしながら上下させた。
 彼はその手が動くたびに声を上げる。
「おっ……く」
 ふっと……彼女は何かに気づいたかのように唇を離した。
「……………?」
「……まだ、もう少し……」
 不思議そうな顔をして彼女を見つめる彼にそう呟きながら、彼女はベンチに坐る彼の膝の上に自分の腿を乗せ、胸にしなだれかかる。
 そして。
 すでに愛液に濡れた下着越しに、自身の秘花を彼の肉茎に押し付けた。
「かけて……」
「……………」
 彼が答える前に、彼女は再び動き始めていた。すでにブラジャーを外していた柔らかな乳房を白衣越しに彼の厚い胸板に押し付け、唇を首筋に当て、舌を這わせる。片手でベンチの背を掴んで自身の位置を定め、もう片方の手は彼の男の象徴を弄んでいた。唾液と先走りに濡れたそれを愛液に汚れた下着に擦りつけるように動かし、内腿に当ててその感触を楽しむ。指は当然のように優しく上下させていた。
「はあっ……んん……んっ……」
「うっ……うっ……ユ……」
 突然、彼女は動きを止めた。
 今、彼は確かに誰かの名前を言おうとした。それをどうにか噛み潰した。いや、誰かなどと言う必要はない。彼女はその名前を知っていたから。それは彼が最も愛していて……彼女にとってどうにもならないほどの憎悪の対象だった。

「わたしを、見て……」

 彼女は両手を彼の首に廻し、自分の唇を唇に重ねた。
 彼は彼女の背を抱き寄せ、それに応じた。


 その眼差しは、何処か遠くを見ていた。
 






1.








「どうしたの?」
 隣りを歩くシンジに問われ、アスカは「え?」と声を上げて立ち止まった。
「……元気、ないみたい」
「ごめんなさい」
「? 別に謝らなくても……」
 シンジの言うとおりだ、とアスカも思ってはいる。だが、彼女は罪悪感を感じていた。折角の今日と言う日、久々のデートの際中だというのに、そばにいるシンジのいうことなど考えもせずにずっとよそ事を考えていたのだから。
「仕事、大変なの?」
 気遣うシンジの声は柔らかだった。それに対して「ううん」と首を振ってアスカは応え、軽く溜め息を吐く。
「仕事は、まあ……なんとかね」
 実際、仕事の方は問題はないのだ。かつてと違って自分の能力限界にまで背負い込むような真似をせず、アスカは割りと余裕を見積もったスケジュールをたてていた。近々結婚を控えているという理由もあるし、かつてのNERVについて調査をしているということもある。いつまでも何でも自分で全てをやれるなどとは思ってもいないのだ。
 それなのにシンジは。
「そう? アスカはなんでも自分で抱え込んじゃうから」
「……それはこっちのセリフよ」
 ようやく、彼女は笑顔を見せた。苦笑だったが。
 シンジは、わざとそう言ったのだと解ったから。
「あんたに言われたくないわよ」
 シンジも笑った。
「そっちこそ」
 今、自分は幸せだと、アスカは思った。
 こうして愛する人と共に歩み、生きていけるのだから。
 きっとこの先も。
 ――私は決して、この腕を離さない――
「――アスカ?」
「文句ある!? 男なら喜ぶべき状況よ!」
 ぶらさがるようにシンジの腕にしがみついたアスカを、通りがかる人々は微笑ましそうに眺めていた。
 二十歳を前にしているとは思えないほど彼女の表情は幼く、まるで父に甘える幼子のようだった。

 
 ……愛する者とのひと時は、とりあえずは彼女の悩みを忘れさせることが出来た。  
 それはしかし、ほんの瞬きの間のことだった。
 その日の夜には、彼女は独り寝の寝所で憂鬱げに天井を眺めていた。
 シンジはいない。
 ここは彼女の住むマンションで、シンジとは高校を卒業の直後から別居している。世間体、というものは関係ない。彼女の仕事に使う資料などの書類や機材は、二人が暮らせる程度の規模のマンションでは狭すぎて置くことができないからだ。単に広いマンションで住むというだけのことなら、今のアスカの給料でも充分に払えることができる。しかし結婚をすれば、より正確に言うならシンジが二十歳の誕生日を迎えれば、彼の口座が解禁される。今まで使うことが制限されたチルドレン時代の給金で家を買おうと、二人で決めていた。それまでの間の短い時間だけのために高いマンションを借りるというのは、少し不経済に思えたのだった。
 ――とは言え、シンジは月の大半をアスカのマンションでいる。食事をして、ベットで二人して睦み合うために。自分の住む部屋は、時折に寝泊まりしたり、私物を置くための場所になってしまっている。
 今日はたまたま、その自室にシンジは帰っていた。
 アスカは独りだった。
「しっかし、リツコがね……」
 ぽつり、と口にする。
 アスカにとって数少ない尊敬できる上司であるところの赤木リツコが、前司令にして婚約者であるシンジの父・碇ゲンドウと愛人関係にあったということを、彼女はつい先日知った。

『それってどう言うことよ!?』
『行ったとおりよ』
『それはつまり……』
『愛人』

「……ファースト……レイって、もしかして……」
 そう呟いてから、アスカは部屋の隅に置かれた花瓶に目をやった。
 貰ったときには蕾だった白い薔薇が、今は半ばほどま 開きかけている。

「――何処がいいのかしらね」

 彼女は溜め息を吐いてから、自らの下着の中に指を這わせた。
「ん……」
 目を閉じ、両手の指先と股間に意識を集中する。
 マスターベーションを初めてしたのは、大学を卒業する前だ。四つ年上のシャルロッテから教わった。ストレス解消だとかなんとか。それだけでは彼女はしようなどとは思わなかっただろうが、最後に付け加えた一言――「大人ならみなしてる」――が、その動機の全てだ。
 左胸の頂きを左手の親指と人差し指と中指で軽くつまみ、それぞれの指の腹でこする。他愛もないそれだけの動きで、彼女の乳頭は完全に隆起し、硬度を持った。
 右の指は下着の中に潜り込み、とうの昔に生え揃ったヘアの間に潜り込む。
「あっ……んん」
 ……昔は、初めてシタ時は、これだけのことをするのにも時間がかかった。勇気がいった、と言ってもいい。具体的に何かの性的なイメージがあった訳ではなく、ただシャルロッテより聞いた“予備知識”通りに指を動かし、胸をこねる。それだけのことをするのも、アスカにとっては全くの未知の領域に属していた。
 ――弱い女はイヤ。
 無意識に、心を病んで捨てられた母のことが脳裏にあったのかもしれない。あるいは父に絡みつく継母の姿が。
 それらに対する嫌悪が、性感の開発に対する忌避も生み出していた。
 だが。 

 つぷっ

 第一関節まで、中指をもぐりこませる。
 濡れた音がする。そして、彼女の花弁の内に溜まっていた愛液が溢れる。
「ああん……」

 ――それらは、全て昔の話だ。

 シンジの愛情を受け、彼女の心は満たされていた。
 昔のNERVの用語でいうのなら「補完された」とでも表現されたかも知れない。
 女であることに、その悦びを求めることに、アスカはなんの躊躇も感じることはない。
 むしろ積極的に受け入れようとする。
「シンジィ……シンジィ……」
 うなされるような声を出し、アスカは脳裏にシンジが己の身をまさぐる姿を思い描いていた。アスカにとってシンジは最初の男であったが、シンジにとってもアスカが最初の女だ。数年間、ずっと二人でともに愛の密戯を研鑚しあってきた。彼女には、シンジが何をどうやって愛撫するのか、その全てのバリエーションが解っている。
 それを物足りないなどと思ったことはない。未だにシンジはアスカの肉体に飽くことのない情熱を抱いており、全身にある感覚の全てを性戯のために磨き上げようとしてさえいる。
 アスカは己の愛撫する手を、シンジのものと一致させていた。
 あるいは、かつてのユニゾン特訓の成果かも知れない。
 目を閉じているアスカの中で、胎内をかき混ぜる指はシンジの指であり、胸に食い込むのもまたそうであった。彼女は今、この場にいないシンジに抱かれている。
「ああっ……」
 両手の指を諸共に秘華に沈みこませ、アスカは腰を突き上げた。

 ……霞みがかった視界の端で、やはり薔薇は相変わらず開きかけのままであった。







2.







「……また君か」
 彼はアスカの足音を聞き、振り返る。
「――どうも」
 アスカは強張った笑みを浮かべ、ゲンドウの視線を受けとめる。
 花園への三度目の訪問は、七日ほどたってからだった。予定が合わなかったということもあるが、リツコとの一件を目撃したということが大きかった。
 女性関係など別に大した問題ではない――というような考え方をアスカはできなかった。
 特にユイの方向から彼の真意を確かめようとしていたのだから、それはなおさらだ。
(碇ユイという、最高の女性を得て、それでもやはり女は欲しいのかしら?)
 アスカも男性の生理については、それなりに知っているつもりだった。
 一般的に男性は、性欲を一定に処理しないと苛ついたりとかするように言われている。無論、それは純粋に医学的な意味においては迷信もいいところで、精巣に溜まった精子は、一定量を超えるとさっさと尿などに混じって流出される。いわゆる「溜まってる」とかいうのは、あくまで精神的なものだ。だから。
(……我慢しようと思えば、我慢できるはずよ)
 もしもユイという女性に心を深く捧げているのだと言うのなら、ほかの女性に対して性欲を抱くなんて……抱いても、実際に情交を重ねるなどしようとは思わないはずだ、と。
 人間は誰しもが寂しがりやで、やさしくしてくれる人に飢えている……ということを理解してはいながらも、アスカはそう思わずにはいられない。
 それでも。
「今日は、南極でのことを……」
 微笑んだ。
 それに対する彼は、どこか不機嫌そうな顔で。
「……すまんが、今日は眠い」
 そう言った。
「昨晩はあまり眠れなかった」
 ――のだという。
 何でか、ということについてはアスカは一瞬だがリツコの顔を思い浮かべてしまい、すぐに打ち消した。自分は一体何を考えているのか。自己嫌悪がわきたち、しかしそれをおくびにもださずに「その辺りは配慮させていただきます」と答える。
 愛想笑いなんて、一番嫌な種類の笑い方だったのだが。
「ふむ……」
 彼は前回と同じベンチに腰掛け、アスカにも座るように顎を動かして示した。
 アスカは以前と同じく――やや遠めに、ベンチの端の、さらに幾分か距離をとるように座る。
「早速ですけど、南極で何があったのかについてを」
「……性急だな。しかも、一番話しにくいことだ」
「………………」
「……あの地にアダムがあることは、古い時代から知られていた。裏死海文書――と言われるゼーレのテキストだが、同様のものは世界各地にあったのだ」
「それは――」
 アスカは思わず身を乗り出した。
 それは初めて聞くことだ。嘘なのか本当なのかは解らないが、たとえ嘘だとしても何かの意味があると思った。
「北アフリカのタルテソス王国に伝わるアトランティス文書がその一つだ。内容については十九世紀の末期に明らかになったが――」
 そこで言葉を切り、彼は花園の遠い端に目を向けていた。
「………?」
 アスカもつられたようにそこを見て――
「すまん。少し待っててくれ」
 ゲンドウが立ち上がり、それを持ち帰るのを黙って見ていた。
(意外と軽いのかしら)
 こちらに戻る彼の腕の中には、碇ユイ自作という清掃ロボットがあったのだ。有名なSF映画に出てくるロボットの外装をあてられた『R2−D2』。しかしその機能はまともに働いてはいないらしい。近づくにつれて先日は聞いた覚えのない、いかにも調子の悪そうなモーターの稼動音を出しているのが解る。
「……そろそろ寿命かも知れん」
 席に戻った彼はベンチの自分と彼女の間にそれを置き、苦々しげに呟く。
「昨日は徹夜でメンテをしたのだが……」
「ああ、それなんですか」
 どこか納得したようにアスカが言ったが、ゲンドウはそれに気づかなかったように「ふむ」とハッチを開いて中身を診る。
「やはり、駄目か」
「技術部に持っていったらよろしいのでは?」
 アスカの至極常識的な言葉に、しかし彼は首を振った。
「なるべくなら、私は自分で診てやりたい――それに、もう駄目だな」
 交換用の部品のストックが、すでに底をついてしまっている。今では近い部品をあてがっての代用でどうにかしているのだが――。
「ユイは、丁度十五年頃までのストックしか用意していなかった」
 ぽつりと漏らしたその言葉に、アスカは妙に深みというか、含むところがあるような気がした。いや、十五年頃と言えば、考えるまでもなく使徒襲来の年ではないのか。
(碇ユイは、その予定に合わせていた? ……考えるまでもないか)
 裏死海文書の解読に関してさえも、彼女は最高の権威であったというのだ。使徒襲来の日時も知っていて当然のことだ。
 そしてそのことは、彼女がこの世界にて十五年以降は薔薇の世話をする人間がいなくなる、あるいは必要でなくなると考えていたことの証明ではないのか。
(でも、そうすると――彼女は赤い世界を望んでいたというの? 人の全てがいなくなるあの結末を……)
 だとすれば、シンジが聞いたという言葉も声も、全てが怪しくなる。いや、それらは自分の深読みに過ぎず、このロボットのパーツがその分までしかなかったということには深い意味などないのかも知れない。そもそも機械なんていつ故障するのか解ったものではないのだ。十五年頃までしかストックがなかったというのも、この碇ゲンドウがただそう思い込んでいるだけでは……。

「あいつは、俺に何を望んでいたのかな」

 初めて、アスカはゲンドウが彼女に向けてではなく、誰にむけたのでもない、ただの独り言を呟いたのを聞いた。
 反射的に口を開いたが、何を言おうとしたのか、次の瞬間にそれは永遠の謎となった。
 黒い何かが自分めがけて倒れこんできた。それが一瞬何なのかの判断がアスカにはできなかった。無理もなかった。こんな事態になるなんて想定していなかったからだ。それは、ゲンドウの頭だった。
「――――やっ!」
 思わず手で払いのけながらベンチから立ち上がり、飛び退く。
(や、やっぱり――!)
 何がどうやっぱりなのかは自分でもよく解らなかったのだが、続けて罵倒の言葉を吐き出そうとしたアスカは、かろうじてベンチの上で坐ってはいるものの、ずり落ちそうになっている碇ゲンドウの姿を見て、唖然とした。だらしなく首をベンチの背もたれから後ろに逸らしている。そしてその腕の中にはR2−D2。静かな寝息。
「寝て……る?」
 恐る恐る、とゲンドウに近寄り、その様子が確かに睡眠状態なのだと確認し、彼女は腹の底から気の抜けた溜め息を吐き出した。
「そっか――寝てないって言ってたものね」
 そこに無理押しするように話をさせて、さらにはまた修理……事態を認識すると、何やら自分がどうしてこんな対応をしてしまったのかと、その馬鹿馬鹿しさに随分と呆れてしまった。
(ほんっと、馬鹿みたい……)
 そう思った。
 思ってから、これからどうしようかと考える。
 起こすのは忍びないし、このままに捨て置くというのも――。
(……ほっといたら、ベンチから転げそうね)
 とりあえず、そうならないように体の位置を直すなりしてあげよう。そうと決意するのに五秒、さらに行動に移すまでに二十秒近くを要した。
 そして。
 ゲンドウの両肩を掴――もうとして、ふとサングラスがずれているのに気づいた。
 そこで悪戯心を起こしてしまったのは、いつも泰然として司令席に坐っていたかつての姿が脳裏をよぎったからだった。このサングラスと顔の前に組まれた拳の下に全ての表情を包み隠し、自分たちの戦いを見つめていた……その口の端が微かに動くごとに、緊張に背を震わせさえもしたことがある。
 でも。
(ちゃんとした顔、見たことないのよね……)
 だからだろう。
 ほとんど無意識に、彼女の手は彼の顔へと伸びていた。
 
「あ……………」

 なんとなく、ずっと前からそうだろうなあとは思っていたのだが――
 髭がなく、サングラスのない碇ゲンドウの素顔は、息子であり、彼女の婚約者であるシンジに、よく似ていたのだった。







 3.







(年取ったら、シンジもこんな感じになるのかしら?)
 まず、そう思った。
 さすがに親子だけあって、よく似た寝顔だ。
 それからしばらくして。
「……なんかあたしってば、馬鹿……」
 改めてそう思い、呟きを口にしていた。
 よく考えてみなくても、妻を亡くして十年以上たつ男が、別に他の女を抱いていたって構わないのだ。亡くしたばかりというのならまだしも、すでにそれだけの月日がたち、それに――彼はもう、吹っ切ったのだろうと思った。
(最後に碇ユイと会えたんだものね)
 たとえ目的が半ばほどしか達成できていないにしろ、碇ゲンドウは確かにサードインパクトの際に碇ユイの姿を幻視しているはずだ。国連に提出された彼の調書にも、確かにそう書かれている。どういうことを話したとか、そういう詳細についてはさすがに解らないけど。
 とにかく、自分がゲンドウとリツコの公園での一部始終を見てから、勝手に根拠もなく彼の人格、性向を著しく悪く見ていたのだ。
 そのことは反省しなければならない。
(って、よく思い返してみたら、あれは痴話喧嘩にしたって、別れ話とかだったのよね……)
 結局、『最愛の人以外と関係を持った』ということに、自分が一方的に腹を立てていたということであり、それはつまるところ、惣流アスカ・ラングレーの恋愛感を他人に押し付けていたということだった。
 本当に馬鹿だ。
 彼女は溜め息を吐くと、ベンチに坐りなおし、ゲンドウが目を覚ますのを待った。
 今日は長めに時間をとっている。
 ちょっとぐらいこうして時間を潰していても、別に構わないのだ。
 それに、そんなに長くは待つこともないだろうと見積もっていた。
 さらさらと髪が揺れた。
 ……空調が静かに微風を作り出しているのだ。
 それは薔薇の香の充満した室内の空気をかき混ぜて、何処かへ押し流していく。
 アスカは瞼を伏せ、その流れを感じた。
(変な感じ……)
 自分がこんな風に花園の中でゆったりとした時間を過ごせる日がくるだなんて、想像もしていなかった。戦いの日々が始まる前、まだ自分がドイツにいた頃は、将来と言っても、ただ自分が強く華麗にエヴァを操っているイメージだけしか持っていなかった。日本にきて、戦いが終わった後、シンジと幸せな時間を過ごすようになっても、こんなところに来ようだなんて思わなかった。
「シンジはこういうところ、知らないしね……」
 ついぼやいてから、苦笑した。
 思い出の場所とハウトゥー本を見本にしたようなデートコースをやり尽くした後で、シンジはやっと自分の部屋に招待してくれたのだった。後はずっとデートといえば、その辺をぶらついたりしてからシンジかアスカの部屋でずーっとすごすというのが慣例になってしまった。たまに遠出とかして泊まったりするけど、立場からしてそんなに出かけられないというのが実情だ。
(そうだ……その内、ここにシンジも誘ってみよ……いい加減、顧問とも……義父さまとちゃんと和解しとかないと駄目だものね……)
 なんと言っても、自分達はもうすぐ結婚するのだし――。
「………ん………?」
 どれほど彼女はぼんやりとしていたのか、いつしか横になっていたゲンドウは覚醒し、上体を起こした。
 そしてアスカの方を見てから眼鏡の位置を直そうと手を上げて、自分がそれをしていないと気づく。
(あ……)
 目を覚ます前に戻そうと思っていたのに、すっかり忘れてしまっていた。
 しかしそこはかつてのセカンドチルドレン。ゲンドウが何かを口にする前に、彼女はまったく内心での焦燥を表面化させずに言った。
「――眠られるときに、落ちました」
「ああ……それはすまないことをした」
 本気で申し訳なさそうに言ってから、彼は首を軽く振り、そして。
「――それで、私はどれだけ寝ていたのかね?」
「えーと……三十分、です」
 腕時計を見て、確認する。
 ああいう眠り方をした割には、随分と早く目を覚ましたものだと思った。自分の経験からしたら、徹夜明けで気が抜けて眠ってしまったら、もっとぐっすりと何時間も寝てしまうものだったが……。
(まあ、人によるのかな)
 どうでもいいことである。
 気にするようなことでもない。
 しかし、彼には何か気になるようなことがあるのか、アスカに眼鏡を受け取りながら、しきりに何かを言おうとするそぶりを見せては、途中でやめていた。
 ――はっきりとしない碇ゲンドウ――。
 プレミアがつくぐらいにレアな光景だ。
 アスカは怪訝に眉を曇らせてから、「どうしました?」と聞いてみた。もしかして自分がわざわざ手で取ったということに気づいて、それを問い質そうとしているのかも知れない。そうでないにしろ、そういうことを考えると気持ち悪くて仕方がないのである。はっきりしない男は嫌いということもあるといえば、あるのだが。
「いや、――……私が眠っている間、君はいたのかね?」
 少しだけ逡巡して、彼は問い返した。
 アスカの答えは間髪も入れない。
「ええ」
「そうか……」
「それを聞きたかったんですか?」
「いや……」
 まだ、本命の質問は言っていないようだと、アスカは察した。
 その微かな表情の変化で、彼は彼女の思考を悟ったのかも知れない。
 思い切って。
「……寝ている間、私は何か、変な寝言を言ってなかったかね?」
 はっきり言ってしまえば、その時に彼女は、自分が何を問われたのかもよく解らなかった。理解するのに三秒ほどの時間がかかった。
 そして、思わず笑ってしまったのだった。

 リツコのこととか、そういうことはすっかり吹き飛んでしまっていた。







4.







「――父さんがそんなことを?」
 シンジは驚き、同じベットの上にいる彼女に聞き返す。
「信じられない?」
「うん。……いや、アスカが言っていることがじゃなくて……ああ、けど……父さんがね」
 自分でもどう言っていいのか解らなくなったらしい。
 アスカはその様子を眺めていて、やがて苦笑する。
(本当、親子ね……)
 慌てて言葉を捜しているところなぞ、よく似ている――ような気がする。
 それをもう少し見たかったが、そんなのばかりだと話が進まないので、彼女はそっと腕を伸ばしてシンジの首に巻きつけた。そして自分の剥き出しの乳房へとシンジの顔を押し付ける。
「……アスカ?」
「……息吐き掛けないでよ」
 無茶を言う。
「ごめん……」
「ばーか」
「うん……」
「……その後だけどね……ちょっと!」
「アスカ……」


「……落ち着いたかね?」
「はい――いや、すいません」
 アスカは口元を押さえ、憮然とした面持ちであさってへと顔を向けているゲンドウに目をやる。
(……怒っちゃったわよね……)
 まあ、当たり前だ。
 きっと彼としては気になる事柄だったのだろう。それを笑われたりなんかしたら――。
(あ、でもそれって……ええい、ままよ!)
 こうなったら、どれだけ怒らせても一緒だと思った。
 だから。
「寝言を言ってたって、誰かに言われたたこと、あるんですか?」
 言った。
 返事はなかった。
(図星かい……)
 まあ、寝言を聞くような人間といえば、つまり……。
「……奥さんに言われたとか?」
 なるべく悪戯っぽく。
 軽さを装った声で聞いてみた。
 やはり、返事はなかった。
 だが。
(……別の女に言われたのね……)
 なんか解った。
 なんとなくだが。
 どういう訳だか解ったのだった。
(というより、嘘をついてる時のシンジと、おんなじ雰囲気だし……)
 相手はリツコだろうか? あるいはそれとも――まあ、どうでもいいことだった。そういうようなことにいちいち目くじらをたてるような立場でもなければ、権利もない。いい大人同士がナニをしていようとも問題はない。アスカは自分自身にそう言い含めながら、軽く息を吐いて頭を掻いた。
 その時に。
 
 ぐぎゅる……

 腹の虫が鳴った。
 自分じゃない――
 アスカは、反射的にゲンドウを見た。
 彼は右手で眼鏡の位置を整えていた。
(ごまかしてる……)
 言った。
「徹夜で、朝食もとってないだけだ」
「はあ……」
 そういえば、もう昼が近い。
 ゲンドウは立ち上がり、彼女へと目を向けた。
「私は、食堂にいってくるので、ここまでで失礼させてもらう」
「あ、――お詫びに、私がお金だします」
 慌ててベンチから立ったアスカがそう言うと、出口に向かいかけていた姿勢から一瞥だけして。
「――いらん」
 と言った。
 そして。
 何かをいいかけるアスカの言葉がはっきりと形を成す前に。
「話している最中に居眠りなどした私が無作法だった。――私が出す」
 

「……父さんと、食堂に……」
「そ」
 シンジの腰に跨ったアスカは、「ふふん」と笑って闇の中で彼の顔を見下ろした。
「――特Aランチ。義父さまは天麩羅うどんだったわ」
「……一番高いの奢らせたんだね」
「先に注文されたのよ」
「……みんな、驚いたんじゃないかな? 父さんとアスカが食堂で食べてるなんてね……」
 その様子を想像したのか、シンジは微かに口元を歪め、それから自分に乗ったアスカへと手を伸ばす。彼女はその手を掴み、自分の頬へと寄せた。
「驚くっていうか、なーんか変な雰囲気だったわね。緊張してる、みたいな」
「だろうね」
 頷く。
「それがイヤだから、いつもはお弁当作ってるんだって」
「――父さんが作ってるの!?」
「……私も驚いたわ」


「ご自分で!?」
「何か問題があるかね?」
 食堂から花園への通路の途中で話しながら歩いていたが、そう問い返されて思わず立ち止まった。
「――いえ」
 答えてから、足早に追いつく。
「けど、ご自分で家事をなさってるとは意外です。てっきりハウスキーパーとかいらっしゃるものだと……」
「そんなに給料は貰ってない」
「…………」
「それに、自分でできることは、大概自分ですませることにしている」
「……ご立派です」
 まんざら追従するでもなく、そう言う。彼女にはそういうところがあるから、なおさら思う。こういうところはシンジとは違うのね、と思ったが、まだ十代のシンジと五十も近い彼と比べるのも酷だろう。
 しかし。
「大したことではない」
 と彼は言い、「それに」と言い添えた。
「最近は、体がついていかん……弁当を作らないで昼を抜くというのもままある」
「面倒ですからね……ああ、それなら」
 続けて言った言葉に、彼は足を止めた。
 同時に花園の入り口を空けるスリットに、カードをくぐらせていた。
「……今、なんと言ったかね?」
 ドアが開いてから、彼はようやく振り向いた。
 アスカは微笑んでいた。


「――アスカが!?」
「そ」 
 思わず両手で上体を起こしたシンジに、アスカはしなだれかかった。
 そして、耳元で囁く。


「明日から、私がお弁当作ってきます」



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Original text:我乱堂さん
From:そうして彼女は嘘をついた