……彼女は目を覚ました時、男の胸の中にいた。
 暖かい――そう思ってから、自分がまだ繋がったままなのに思い至った。
 ベンチに背中を預け、男は息を殺して彼女の背中に手を廻して体を支えていた。
(わたし……この人としちゃったんだ……)
 鼓動を感じながら、自分の中の男の分身を感じながら、彼女は思い出す。
 どれほどなのかさえ解らない、永遠のような刹那の時間、自分はこの男に己の身体を捧げた。
 そう。
 こうなったのは、彼女が自ら望んだことだ。
 彼女は望み、男に跨り、自ら己の中に男を導き入れ、腰を捻り、上下させた。
 その精を子宮に注ぎ込むことを。
 男の唇を貪るように吸い尽くすのも。
 すべてを望んだのは、彼女自身なのだった。
(あたしは……)
「――大丈夫か?」
 無機質な、だけど微かに彼女を気遣う感情のこめられた、声。
 耳元に囁かれた、低く、小さな呟き。
「あ、はい……」
 彼女は恥じらいに頬を染め、同じく囁くように返答する。
 身動ぎし、男のから離れようとした。
「うっ……」
「あ………」
 男の呻くような声と同時に、彼女もまた喉の奥から熱い吐息を吐き出した。
 彼女が動いた時、その体内に飲み込まれていた男の分身が、精を幾度となく放ち、すでに萎えていたはずのそれが硬度を持ち、再び彼女を穿つ楔と化したのだ。
 彼女はさきほどに増して上気させて男の顔を伺う。
 男は目を顔を逸らし、彼女に見えないようにしようとしている。
(可愛い人……)
 その態度が、行為が、たまらなく愛おしく感じられた。
 そして胸に蘇る、熱い想い……。
 彼女は男の背中に腕を廻し、ぎゅっとしがみつく。
「離さないでください……私を感じてください……」
 男の彼女を支えていた手に、力が篭った。
「すまない……」
「私は――」
 男は彼女の言葉を皆まで言わせず、もう片方の手で顎を上げさせ、唇を塞いだ。


 ……背徳と薔薇の華の甘い匂いに満ちた、そこは地下の花園。


 睦み合う二人は、時を忘れたかのように互いを抱き締めあった。







1.
 





 彼女には赤がよく似合う。
 誰もがそう思う。
 赤みがかった長い髪を背中に流し、NERVの通路を颯爽と歩きながら彼女はそれを風に靡かせる。着ているスーツも赤。履いているヒールも赤。肌の白さと眼差しの蒼が、それによく映えてなお強い輝きを有するまでに到っている。
 その赤の彼女の名前は、惣流・アスカ・ラングレー。
 誰もが知っている名前だった。
 このNERVが要していた人造人間エヴァンゲリオン弐号機のパイロットとして活躍し、13歳でドイツの大学を卒業したという文武両道を地でいく天才少女――であったのは、あくまでも“かつては”の話。それから7年の時を経て、彼女は少女ではなくなった。華のように匂い立つ美女になっていた。
 NERV技術部所属E計画担当主任、と言うのが彼女の今の肩書きであり、それも名前とともに過去のものになることが決定している。
(あいつが帰ってきている)
 彼女はNERVの通路を足早に歩きながら、そのことばかりを考えていた。
(シンジが……結婚式のために……)
 

「好きだ。付き合って欲しい」
 サードチルドレンこと碇シンジの告白の言葉は、そんなシンプルきわまりない言葉だった。
 中学を卒業したその日に、かつて共に暮らしたコンフォートマンション17の一室で、まっすぐに彼女へと眼差しを向けて。
「……本気で言ってるの?」
 そう問い返してしまったのは、彼女が今まで与えられるはずだった愛情をまともに受けていなかったからと、戦いの苛烈さに深く心を傷つけていたからだった。
 すべての戦いが終わった後、彼女は長期の入院を経て、どうにか肉体は回復していた。だが、それは本当に肉体だけの復帰だ。精神の奥深くに刻まれた傷跡は決して消えることはなく、剥き出しにされた弱い心は人の間では決して耐えられるはずもない。以前のように振舞っているようであっても、寸秒ごとに彼女の心は鑢をかけせれているかのように削られていたのだ。
 シンジは、そのことに気付いていた。
 サードインパクトの試練を経て、彼は人と付き合っていくこととはどう言うことなのかを知った。
 それは、傷つくということ。
 傷つけるということ。
「僕は、アスカが好きだ」
 アスカの問いかけに、シンジはそう答えた。答えになってない答えだった。
 それでも。
「シンジ……」
 彼女は頬を染め、俯いた。
「本当に、本気なのね?」
「僕の今の気持ちは、アスカを好きだというこの気持ちは、本当だと、思う……」
 その言葉に、彼女は涙を流した。
 欠けていた心が埋められていくのを感じた。  


 ……あの瞬間、自分はやっと一個の人間に、女になれたのだとアスカは思う。
 誰かに愛されているという確かな事実は彼女に自信を与え、心に余裕を生んだ。高校にはいかずにNERV技術部に入ったのは、そのあらわれでもあった。かつての傷を引きずっていたころならば、関わろうとも思わなかっただろう。

“自分は、どうしてこういうことになったのか”

 そのことを考え、辿ろうとしていた。
 それが自分にとっては必要なことなのだとアスカは理解している。自らの人生を肯定するためには過去に拘っていてはいけない。しかし捨て去ってもいけないのだと。
 そうして今日も彼女は奔走していた。
 職員の大半がその名前は知っていても、具体的には何も知らないというE計画の全貌を掴むために。
 ただ、今日は海外に研修に出ていたシンジが帰ってくると言うこともあり、その足はいつもにも増して力強かったけれども。
 しかし。
 その足が止まった。
 先ほどまで浮き立っていた高揚感が、まるで嘘だったかのように静まるのを彼女は感じた。
(とうとう……私はここまでやってきたんだ……)
 E計画についての大半の調査は終わっていた。リツコを始めとするE計画担当者の口は決して軽くなかったが、念密な調査によってある程度の形……輪郭は把握できている。その過程で知ったことだが、責任者であるリツコをしてその全体図についての詳細は知らされていなかったという、驚くべき事実である。副司令たる冬月も、知り得ぬ事柄が存在していた。
(全ては一人のカリスマと処理能力によって支えられていた……この結論に至った時は、ちょっとしたショックだったわ)
 アスカは、唾を飲み込んだ。
 目の前の扉を開けば、そこには目的の人物がいるはずだった。
 彼女はカードを持った手を伸ばし、微かに逡巡させた後、思い切ってそれをチェッカーにくぐらせた。

 そして――

 そこは、花園だった。

「凄っ……」
 思わず口をついてでた。
 話には聞いていたのだ。
“ジオフロントの底には、広大な薔薇園がある”と。
 しかし、見ると聞くとは大違いだ。
 少なくとも、アスカはここがこれほどに広大だとは知らなかった。
(エヴァのケイジより広い? こんなところを一人で管理していたってぇの?)
 赤い煉瓦の敷き詰められた床に、アスカは足を踏み入れる。
 天井は高く、光に埋められている。
 換気もされているようだ。
 微かに空気の流動――風、を感じる。
 目に映る色は幾百もあるのではないかと思えた。
 …………。
(維持費だけで、とんでもない予算が必要だわ……)
 アスカがそんな現実的ではあるが無粋なことを考えたのは、ともすれば夢幻めいたこの世界に引き込まれそうなのを本能で理解していたからかも知れない。
 幾度か首を振って気を取り直し、彼女は目的の人物を探す。
 すぐに見つかった。

 彼は、花園の中に立っていた。

 白衣を着ている。
 手を腰の後ろに回し、目の前にある白い――真珠色の薔薇を眺めている。
 しかし……。
 彼女は声をかけるのをためらった。
 その横顔をじっと見ていて、アスカは思う。
(髭がないと、別の人みたい……)

 その人物は彼女の婚約者の父であり、かつてのNERV司令・碇ゲンドウであった。


 彼女は口を開こうとして、閉じた。
彼を――碇ゲンドウをどう呼ぶべきなのか、それが思いつかなかったからだ。
(……ここまで来て、あたしは……)
 何をやっているのか。
 アスカは自分に活を入れるために、両の掌で頬を叩いた。

 碇ゲンドウという男は、このNERVに於いてかつて以上に特殊な立場にいる。
 全ての戦いが終わった後、司令の職を辞した彼は、しかし組織から解放されることはなかった。副司令の冬月や技術部長の赤木リツコなどが尽力して政治的にあれやこれやと……複雑怪奇な経過をとって、彼が着地した地位は「司令部付き特別顧問」。見事なまでに実体のない地位だった。
(そうよね……“碇顧問”が妥当よね)
 とは思うのだが、今一つ乗り気になれない。
 それは「顧問」と言う役職があまり名誉ではないポジションなのと、彼が博士号を持ち、技術部の一部からは「碇博士」と呼ばれているからでもある。専門は人体物理学。論文を幾つか流し読んだ感触と技術部の人間からの評価を聞く限りでは、相当の水準に達していたらしい。NERVの司令などやっていなかったら、今ごろはひとかどの研究者として認められていたかも知れない。
 あと、「前司令」と言う呼び方が職員の間で一般的であったりもするが、さすがにそれは考慮の埒外だった。幾らなんでも、当人に「前司令」と呼ぶのは失礼なのではないか、と思う。
(さすがに、“お義父さん”ってのは………まだ早いし)
 そう言う訳で、「博士」に決定した。
 そう決めた。
 なのに。
 ゲンドウがこちらに気づき、顔を向けられたとき、アスカは声を出せなかった。
「君か」
 その声は、何処か寂しそうで。
 浮かべた微笑は、それよりも切なげだった。


「……父さんに、会ったの?」
「ええ」
 アスカはシンジの胸板に頬せ寄せながら、応える。彼女はこの感触が好きだった。とても暖かい。誰かと肌をあわせるという行為がこれほど気持ちのよいことだと、もっと早くに知っていればよかったと思う。そうだったなら、自分はもっと素直に、幸せに生きてこられたのにと。今に不満があるではないのだが、アスカはそう考えずにはいられない。自分はこの感触をもっと早くに味わえていたはずなのだ。
「父さんか……」
 シンジはアスカのけだるげな声に、感慨深そうに呟いてみせる。
「まだ、苦手なの?」
「……ちょっと、ね」
「ちょっとって、どれくらい?」
「意地の悪いこと、聞かないでよ」
 何処か拗ねたような物言いに、アスカは口元を綻ばせた。そして舌を出し、シンジの右の乳首に這わせる。
「アスカ……?」
「――あたしは意地悪女ですよーだ」
「くっ……ちょ、やめてよ……」
 シンジは、しかし言葉ほどにはアスカの行為を拒絶していなかった。
 アスカは左手をシンジの背中に廻し、右手の指でシンジの左の乳首を摘む。右の乳首は口に含み、ぴちゃぴちゃとわざと音をたてて舐め上げた。
 本来、このような行為は女性が男性にするものではない――少なくとも、そうシンジは思っている。しかし、これはアスカがいつも興が乗るとし始めることだった。

『あんたのしてくれたこと、返してあげる』

 そう言って、真っ赤に顔を染めてシンジの局部に口付けたのが最初だった。アスカはシンジにしてもらった愛撫にただ喘がされるだけというのが我慢できなかったらしい。借りを返す、というのとはちょっと違う。ただされる行為に身を任すという受動的な立場が気に入らなかった。
 ……アスカはシンジにされた愛撫を、自分なりにアレンジしながらシンジに与える。自分から男にするというのは酷く淫らなことに思えたが、それでもなおやめようとはしなかった。自分の心のままに、素直に生きるのが、彼女のようやく見つけた生き方だった。
 シンジはアスカに身を任せてしばらく天井を眺めていたが、やがてアスカの手が下って彼の勃起していたペニスに届いた頃、不意に上体を起こしてアスカを抱え込んだ。
「アスカ」
「……シンジ」
 お互いに瞼を伏せ、唇を重ね――そこから二人の行為は本格化していく。
 シンジは唇を重ねたままでアスカの脇腹に手をやり、軽く撫で上げた。思わず漏れた声をも飲み込むように、シンジはアスカの口内を舌で蹂躙していく。歯茎を舐め上げ、舌を絡め、吸い込み、顎をあげさせて唾液を流し込む。
「ん……ん……」
 アスカの喉が動いた。シンジの唾液を飲み込んでいるのだ。彼女もまたシンジの胸に手をやり、乳首を中心に掌でのの字を描くように撫でる。両足はシンジの腰にまきつけられ、すでに数回分呑み込んでいた精と己の蜜液を零していた。そしてそれを、押し付けられているシンジのペニスの竿に塗りつけるように腰を動かす。
 二人の行為は、唇を重ねたままで次々とエスカレートしていく。
 シンジの指はアスカの菊座を撫で上げ、アスカの掌はシンジのペニスを挟んで上下した。
 そして。
「きて……」
 アスカの潤んだ眼差しからの懇願に応え、正常位からの挿入。
「アスカ……アスカぁ」
 シンジは切なげな声をだし、腰を動かす。
「シンジィ、愛してる、気持ちいい、好きィ! 好きィィ!」
 アスカもまた声をあげ、己の感情を晒した。
 そしてそれが、シンジの動きを激しくする。
 やがて視界の端で火花が散った。
 来る。
「ああああああ〜〜!」
「!!!!〜〜〜〜ッッ!!」 
 
 ……久しぶり逢瀬によって得られた絶頂感の余韻に酔いしれながら、アスカはふと部屋の隅に飾られた白い薔薇に目をやった。

“君には、これも似合う”

 素っ気なく、新聞紙に包みながら差し出すゲンドウの顔が脳裏に浮かび、どうしてかそれは永らく消えなかった







2.






「――何の用かね?」
 碇ゲンドウは、そう言った。
 アスカは久々に彼の声を聞いたような気がした。
 実際、同じ街に、職場にいながらも、彼女とゲンドウには何ら接点がない。一人この薔薇園に通う彼とは違い、アスカは毎日技術部で研究に勤しみ、その合間を縫ってあちらこちらの部署を巡ってはE計画の全貌を調べていたのだ。私生活に於いても、未だゲンドウに隔意を抱いているシンジが婚約者である手前、アスカは積極的にゲンドウに近づく機会を待つこともなかった。
 それに、チルドレン時代もついにアスカはゲンドウと同じ高さの目線に立つことはなかった訳で。
 今、こうして向かい合っていても、まるで初対面であるようにさえ思えるのだった。
 しかし、いつまでも黙っているわけにもいかない。
 彼女は軽く息を吸って、吐いた。
「……私が何をしているのかは、ご存知だと思ってましたが?」
 少し皮肉っぽく、何処か揶揄するように言う。
 ゲンドウは「ふん」と呟いて、さきほど見ていた薔薇へと向き直った。
「――知らないな」
「本当に?」
 アスカは探るように眉をひそめ、歩み寄る。
「あんまり隠してなんかいないつもりなんですけど」
「興味がない」
 言い捨てる、というのではなかった。
 ただ言った。
 それ以上でもそれ以下でもなく。
 酷く無機質な声だと思った。
(本当に、副司令やリツコの言った通り……)
 元々からしてE計画やアダム計画、人類補完計画に付随する事柄以外には興味が薄かったのに、その全てが終わった今となっては、まるで生きた屍同然だと。
(でも)
 そんなに変わっている風でもない、とアスカはなんとなく思った。むろんのこと、彼女はゲンドウのことを大して知らないが、それでもなんとなく思う。違っているのは向き合っているものがNERVの部下から薔薇に変わっただけで。
(――まあ、私がこの人のことなんか、わかるはずもないんだけど)
 アスカは疑問にも至らない思考をさっさと切り捨て、言葉を継いだ。
「E計画についてです」
 この時、ゲンドウは再びアスカへと向き直った。
「何が聞きたい?」
 彼はもうすでに笑っていなかった。
 望むところだ、と思った。
 あんな寂しそうに笑われたら、問い詰めるのに罪悪感を感じてしまうではないか……。
「全て、です」
 アスカは、言う。
「E計画、アダム計画、人類補完計画……その全てはリンクしている」
 ゲンドウは、答えた。
「単純にE計画のみでなぞ語れん」
「慌てることなんかないですから、時間はあります」
「……話すつもりなぞない」
「そうですか?」
 わざと……アスカはおどけるように言った。ゲンドウはそれを見て微かに目を細めた。無礼な小娘だとでも思ったのかも知れない。
「『何が聞きたい』と言ってから『単純にE計画のみで語れん』って、全てをこみでなら話してもいいって意味かと思ってました」
 そうして、今度はアスカが微笑んだ。
 彼は小さく溜め息を吐いた。
「――よかろう。だが、すぐには終わらんぞ」
「ええ、それでも」
 内心で強い達成感を覚えながらも、彼女はそれを表面に現さず微笑みを浮かべていた。


「……ありがとうございました」
 とりあえずの概略を聞き終えるまでにかかった時間は二時間ほどだった。思っていた以上にその輪郭は広く曖昧で、謎めいていた。それでもかなり具体的なイメージが固められた。同じベンチの逆の端に坐る碇ゲンドウというこの男は、言葉少なにだが非常に上手く要点をついた話し方をしてくれる。
(けど……)
 この情報が全て本当だ、などと思うほど、彼女は甘い人間ではなかった。辻褄の合う適当な話をあらかじめ用意していたとも考えられる。語られた物語はかなりが事実だろうが、虚偽も混じっている可能性は高い。しかし例えそうだとしても、それを責める権利を彼女は有していない。国連からの公的な尋問というのならまだしも、これは彼女の、元パイロットとは言え、今は一研究者に過ぎない彼女の個人的な質問なのだから。
(あらためて、証拠固め……検証してから、また来て、詳細をもっと詳しく聞いて……)
 正直、先は長い。
 それでも――
(大丈夫、いつか……)
 知り得る限りの真相に辿り付いてみせる。
 彼女の決意は強く、堅かった。
「……どうした?」
 彼が、何処か気遣うように声をかけてきた。
「あ、いえ、なんでもないです。ちょっと考え事をしてました」
 ――本当に、本当のことを話してください。
 などといえるはずもなく、アスカはどうしようかと迷った。今日はもう話すことはない。ゲンドウの方もこれ以上は口にしないだろう。しかし、用件が終わったから「はい、さようなら」では駄目だ。聞く方にも誠意があるからこそ、聞かれた方もよく答えてくれるのだということを、彼女はここ何年かで学び取っていた。それにこの人は、近いうちに親戚になるのだ。このままさっさと出て行くというのも――
「ああ、この薔薇園って、広いですよね」
 何を言っているんだ? この小娘は?
 ……というような表情こそ、ゲンドウはしなかった。
「ふん」と呟いてから、彼女から前へと向き直り、黙り込む。
(あー……ちょっと失敗?)
 まずかったかも知れない……そんなことを考えていたアスカの前に、カタカタという音を立てながら滑り出してきたのは――
「ロボット?」
 ひと目で清掃用と知れた。床との接地面にモップのようなものを付け、回転しながら移動している。NERVでも採用している自動清掃機械の一種だ。多分。ただ、あれはこのようなデザインはしていなかったと思う。こんなレトロというか、なんというか……。
(スターウォーズに、こんなのでてこなかったかしら?)
 こんな風には動かなかったが、確かにこんな感じであったように思う。
「ユイが製作したロボットだ」
 ゲンドウは、ぽつりとこぼした。
「ユイは、R2−D2と呼んでいた」
(……って、そのまんまかい!)
 いや、突っ込む前に、聞き捨てにできないことを彼は言った。このロボットを作ったのがユイ……つまり、E計画の初代担当者で、形而上生物学の若き権威。碇ユイであると。
「――碇ユイ博士は、こんなロボットまで作ってたんですか?」
 それは、純粋な驚きと、興味。
「ああ。ユイは多趣味だった。この薔薇園も――」
 全て、ユイが片手間につくった品種だ。
 ……アスカは眩暈を感じた。自分やリツコも大概いい加減なぐらいに広範囲をカバーしているが、碇ユイという女性は想像以上にとんでもない人物であったようだった。ぐらりと世界が揺れた。
「――大丈夫か?」
「あ、すいません……」
 いつの間にか立ち上がっていた自分が、立ちくらみを起こしたのだと、彼女はゲンドウに後ろから肩を支えられてからようやく理解した。
「薫りがキツ過ぎるのかも知れん。やはり慣れてないと、ここでは駄目か」
「え……」
 彼女は、呟きをもう二度と来るなと暗に言っているのだと解した。いや、そのようにも聞こえるというだけで、この人が純粋に自分を気遣っているのだとは、心の何処かで了解していた。
「いえ、ちょっと貧血気味なんです。薔薇の匂いに当てられたとか、そんなじゃないです」
「そうかね?」
 彼はアスカの肩から手を離すと、手近な薔薇の前に歩み寄った。紫色だった。
「……本当に大丈夫です。薔薇の華は、好きですから……」
「ふん」
「ああ……よければ、一輪だけでもいただけます? とても素敵な薔薇ばかりですから……」
 満更世辞でもなく、アスカは言う。
(それに……また聞きにこないといけないし)
 少しづつでも信頼を重ねていくことこそが、大切なのだ。
 ゲンドウは少し思案していたようだが、やがて最初に見ていた真珠色の薔薇の前に立ち、蕾が開きかけているのを選んで七つほど白衣から出した鋏を使って摘みとる。
(え……)
 アスカは、新鮮な驚きを感じていた。

 彼女には赤がよく似合う。
 誰もがそう思う。

 だから、送られる華はいつも赤だった。
 だから、ゲンドウも赤い薔薇を選ぶのだと思っていた。

 ……言葉もなく立ち尽くしているアスカを、彼は不思議そうな顔をして眺めていたが、やがて何かに思い至ったのか、微かに顔を逸らし、読み捨てていた英字新聞でつくった花束を差し出して、こう言った。
「君には、これも似合う」 
 
 とくんと、胸の奥で何かが動いたような気がした。







3.







「――出た」
 検索してから二秒とかけずに、MAGIは映像データを表示する。
(この人が……碇ユイ)
 昔聞いたシンジの言葉が脳裏に蘇った。
『母さんに関係するものは、全部捨てちゃったんだって……』
(でもまあ、私物には残ってなくても、こうして公式記録には残ってるのよね……)
 何枚かプリントアウトして持って帰ってあげようか――そんなことを思った。
 母の記憶について彼女も悲しい過去を持っているからこそ、わかる。せめて写真の一枚だけでも残していて欲しいのだと。それで慰めになるわけではないのは承知の上で、なお思う。
「けど、まあ」
 ――全然違うじゃない。
 アスカは碇ユイの隣りに立ち、笑っているゲンドウの姿を見つけていた。
 満ち足りた笑顔だった。


「……碇ユイ博士、ね」
 リツコは問われ、手に持っていたマグカップに視線を落とした。かき混ぜた黒い水面に、彼女の顔はぼんやりと映っていた。
「通り一遍のことは聞いたけど、それでもちょっと気になるのよ」
「……私も記録に残っている以上は知らないわ。まあ、母さんから色々と聞いてはいるけどね」
「とりあえずロボットを製作したり、バラの品種改良とかしたり――は? そんなことはデータの上には残っていなかったけど」
 リツコは俯いたままで目線を上げ、やがて口元に自嘲にも似た笑みを浮かべた。
「母さんが言ってたことがあるわ。“悪魔のような女”だって」
「“魔女”じゃなくて?」
「“魔女”より“悪魔の方が格上”だって」
 そういいながら、リツコはマグカップをテーブルに置く。
「その母さんは、自ら“魔女”の名を任じていた人だったけど」
「リツコのお母さんだものね」
 二人はそこでひとしきり笑った。
 やがて、
「とにかく凄い女性だったのは確かね。あの母さんが舌を巻いて自らより上だと認めたくらい。聞いた話だと、MAGIの基礎理論を直伝とは言え二十時間で把握しちゃったそうだし」
「うそ」
「裏死海文書の解読についても一見識持っていたらしいわ。副司令――じゃなくて司令に言わせれば“シャンポリオンも真っ青”だったって」
 聞けば聞くほど大した女性であるようだった。
 E計画の立案から始って、初期とは言え全ての部署に何らかのかかわりをもっていたというのだ。だが、アスカは聞いていて首を傾げた。それほどの実力者であったという話はほとんど始めて聞いたのだ。今まで調べていて、彼女の名前を口にした者はいなかった。
 それについてはリツコは少しだけ思案したあげく、何処か疲れたような眼差しをしてから、やがてその瞼も伏せた。
「――タブーになってるから」
「……まあ、初号機の中に取り込まれたなんてのは、あまり口にしたくはないわね」
「ちょっと違うわね」
 あの当時は、まだ組織としての体裁は整ってなかった。それがどういう結果を生んだのかは、その後のマスコミの騒ぎからして明らかだ。
「誰かが……まあ、今となっては名前はわかっているけど、とにかくその時の研究スタッフのメンバーが守秘義務を破ったのよ」
「人間としては当然って気がするけど。研究所内部でとは言え、人が死ぬのを見過ごすなんてできなかったんでしょ?」
「その正義感が何をもたらしたかは、貴方も知ってるんじゃないの? シンジ君、かなり苦労したみたいね」
「……この国のマスコミがまっとうに機能していないというのは知っているけど、そんな酷かったの?」
「色々と憶測も流れていたから。それに後でわかったんだけど、その漏らした人物は正義感でやった訳じゃなかったの」
「――どういうこと?」
「横恋慕していたのよ。ユイさんに」
 だから……。
 リツコは言葉を濁した。
 アスカもまた、吐き捨てるように。
「最低ね」
「あと、それと、もう一つ」
 リツコはテーブルに置いたマグカップを手にとった。
「あの人がね、泣いたんですって。縋りつくように。凄い声で。だから」


「……愛してたのね。本当に……」
 アスカはプリントアウトされたゲンドウとユイの二人の姿を眺めながら、何処か羨ましげに呟いていた。
(でも)

 ――人が生きた証を残したいから――

「確か、そんなこと言ってたって……どういうことかしら?」
 ユイの思惑をゲンドウは知らなかったのだろうか?
 しばし考えたが、結論はでなかった。
 やがて。
 立ち上がり、彼女は地下の花園へと赴くことに決めた。


 先日と同じ刻限にそこにいくと、同じように彼は立っていた。
 薔薇の花園の中で、立っていた。
「こんにちわ」
 先日とは違い、アスカはまっすぐにゲンドウのそばに歩み寄り、ゲンドウがさきほど見ていただろう薔薇を覗き込む。
「また君か」
 何の用だ、とはもう聞かなかった。彼女が何を目的としているのかは、先日に聞いている。そのことについては詳しく話もした。要件があるとしたら、それに関連することだろう。
 だから。
「奥様のことについて聞きたいんです」
 そういわれたとき、少し驚いた。
「ユイについてかね?」
「ええ」
「ふん……」
 彼は歩き出し、花園の中央にあるベンチに腰掛けた。
 アスカもその後を追い、ベンチのゲンドウの坐った逆の端に腰を下ろす。間の距離がどこか白々しかった。
「――今更な質問だな」
 と彼は言った。何処か揶揄するような成分が混じっていたような気がした。
「奥様が中心的な役割を果たしていたことは知っていましたが、誰もそのことについての詳細は教えていただけませんでしたから」
 言いながら、アスカは自分でも言い訳めいていると思った。
 彼は一度だけアスカの方を見た。
 酷く寂しそうに笑っていた。
(え? なんで――)
 その意味を推し量る暇も与えられず、彼は口を開いた。
「ユイは――ある意味で天才だった」
「……天才、ですか」
 反射的に眉をひそめていた。
 アスカは才能とか天性とか素質とか、その類の言葉が嫌いである。皆に天才と称されながらどうして、と思われるかも知れないが、彼女自身が「天才」と自称したことはない。彼女をそう呼んでいる人間は努力を放棄してると思えた。
“所詮は天才には及ばない”
 そう己と周囲に言い訳している。
 唾棄すべき輩だ。
 そもそも何をなしても「才能があるから」という言葉で締めくくられては溜まったものではない。一つの技能を得るため、そのために自分が何を犠牲にしたのか、何を代償にしたのか、そのことを何も知らずに彼女の才能を褒め称え、影では嫉妬する……彼女は幼くしてそのような図式を見切った。だから、結果に拘った。結果しかこいつらは見ないから。結果だけでしか評価はされないから。かつてシンジに対して激しい敵愾心を抱き、遂には心を壊すまでに到ったのは、シンジがなすべきための努力をほとんどしていなかったように見えていたのにも関わらず、自分以上の成果を出していたからだった。自分の人生を否定されたのも同然に思えた。
 ……数年を経て、アスカはシンジに愛情を抱くようになり、かつての嫌悪などは解消できた。それでもなお、彼女は過去の自分にかけられていた無責任な賞賛に対する侮蔑の念を引きずっていたのだった。
 ゲンドウは、アスカの心情など気づかない風に、ただ頷く。
「集中力の瞬発性と持続性が共に人並みはずれていた」
 まるで運動選手を褒めているみたいだ、と思った。
「具体的には?」
 アスカは、自分の声に棘が入らないように注意しながら尋ねる。
「一つのことに集中すると、周りが見えなくなるほどに没頭する。まだ研究中だったMAGIについて興味を持った時など、四時間で赤木ナオコ博士の論文の全てを読破し、十六時間かけて膨大な仕様書を読み上げ、基礎理論を習得してしまった」
「…………」
 二十時間、というのは、てっきり講義か何かを受けてだと思っていたので、アスカは声もなかった。
「さすがに、その直後から十二時間は眠りっぱなしだったが」
「はあ……」
「それと、物事の骨子……本質、根源的なものを捉えることにも長けていた」
 ――だから。
 不意に、口をつぐんだ。
 アスカは不思議そうにゲンドウの横顔を眺める。何か辛いことを堪えているようにも見えた。
 にも関わらず、「だから?」と答えを促すように、鸚鵡返しに言葉を吐いてしまった理由は彼女自身にもわからなかった。
「だから……人間の存在の意味などにも、気づいてしまった……」







4.






「次!」
 アスカの叫びに応じ、壁際に座っていた女子の一人が立ち上がる。
「行きます」
 サポーターに守られた拳を中段に構え、その女子は滑るように間合いを詰める。
 対するアスカは半身に立ち、両手をふらさげているだけのようだった。
「流派は」
 との呟きには意味があったのかなかったのか。
 その瞬間、女子はアスカの目の前に立っていた。
 その顔面に繰り出した拳は右の縦拳。
 それを首をかしげて躱すのを、彼女は予期していたのだろう。続けて放った左の膝と同地に右の手はアスカの胴着の襟を掴んでいた。
 ――と。
 気がついた時、彼女はアスカから二メートル離れた地点にいた。いや、それは正確ではない。
 二メートル離れた空間にいた。
 彼女の体は宙に舞っていたのだ。
「え―――」
 何をされたかなどは解らなかった。それでも十数分の一秒単位で驚愕を飲み込み、彼女は態勢を整えて受身をとった。かろうじて、という風であったが、それでもダメージの大半は殺せている。
 そして。
「――参りました!」
 彼女の顔面の手前で停止していたのは、アスカの右足の甲であった。
「――次」
 それに応じて、また一人立ち上がった。


「……今日はどうしたの?」
 トレーニングが終わった後、シャワールームで一人汗を流しているアスカに向かって、綾波レイがそう話し掛ける。
「――どうしたって、何が?」
「技が荒いわ」
「……解るの?」
「ええ」
 アスカはその言葉に引かれたように、ゆっくりと歩み出る。
「さっすが、師範代ね」
「…………」
 微かに揶揄するような響きが口調に混じっていたのに気づいたのか、レイは数ミリほど眉を歪めた。
 元ファースト・チルドレンである綾波レイは、全てが終わったあとで奇跡的に命を繋げた。
 クローンのスペアとも呼べるボディを幾つも持ち、戦いのさなかに「三人目」にまで至った彼女だが、最後の使徒の来訪を前にしてその予備の肉体は全て失われた。そしてサードインパクト。「三人目」の彼女の肉体もまた消失し、彼女の命も尽き果てたかのように思えた。しかし、ちょっとした偶然が彼女の「四人目」を生み出す結果となったのである。
 ダミープラグ。
 一つだけ放置されていた。それの中には地下の水槽に入れられることなく忘れられていた彼女の肉体があったのだ。そして発見と同時に、それを待っていたかのように彼女の魂はその肉体に入り込んだ。
 綾波レイの「四人目」の誕生だった。

(ふん……)
 アスカは全裸のままで立ち尽くし、胴着姿のレイの顔を眺める。
「四人目」の彼女には、わずかながら以前の記憶が残っていた。だが、それだけだった。
 自分がどのような目的で生まれ、どのようにして死んだ(!)のかなどを知らされても、実感として身に付くはずがない。
 己の存在とは何のためにあったのか。
 繰り返し蘇った自分は、本当に「三人目」や「二人目」とは同じ人間なのか。
 自分にとって「死」とは何か。
 そも「生」とは――
 レイがそれらを悩み、考え、いきついた先が武道だった。
 逃げ込んだ先、と言うべきなのかも知れない。少なくとも当人が最初にそれをはじめた動機の一つには、「とにかく動くことによって考え込まないようにする」ということがあったのだから。
 たまたま入門したのが、禅門と関連のある古流だった。

「生と死を見つめ、より高みに至りたかったから――」
 
 傍から見ていて不気味なくらいに熱中していたレイに対し、アスカが問うたのは当然だった。
「何故」と。
 そして、返った答えが、それだ。
 かつてと同じ姿をした、かつてと同じ魂を持った――綾波レイは、しかし、その時には一個の求道者となっていたのだった。
(この子なら解るかしら?)
 アスカの視線を浴びているのにも飽きたのか、レイはその場で胴着を脱ぎ始め、さっさと入れ替わりにシャワールームに入っていく。
(凄い体だわ)
 自分の横を通って行ったレイの肉体を見て、そう思う。
 少女としての膨らみと、少年としての細さを兼ねそろえた身体だった。一瞥しただけでもその引き締まり方の尋常でなさが解る。極限を超えた修練の成果。美しい、と知らずアスカは口にしていた。磨きぬかれた宝石のの如き、それは美の結晶であると言っても過言ではない。
(レイなら……碇ユイ博士の遺伝子を持ち、ここまで作りあげた彼女なら、もしかして……)
 アスカは考えていた。

『だから……人間の存在の意味などにも、気づいてしまった……』

 ゲンドウはそれ以上何も言わなかった。
 一体、碇ユイという人は何を見つけ出したのか。
 アスカはそのことばかりを考えていた。


「知らないわ」
 案の定というべきなのか、レイの返答はそれだけだった。
「あっそ」
 二人はジオフロント内に施設された公園を歩いていた。職員の息抜きのためにあるそこでは、彼女達以外にもベンチに坐ったり華を眺めていたり、噴水の前で待ち合わせている者がいたりする。平和な光景だ、と心底から思う。自分達が守り通した世界の縮図があるようで、アスカはここを歩くのが好きだった。
 レイはアスカから離れ、すっと膝を曲げて腰を落とし、両手でボールを抱え込むかのような構えをとる。
 立禅。
 近代の中国武術ではよく見られる錬功法である。日本の古流を学んだはずの彼女が何故えにそれをしているのかはよく解らない。禅に関わりが深いとは言っても、この立禅は日本の武術ではされることはない。日本に伝わった禅は基本的に座禅だけである。あるいは最近になって組み込まれたメソッドなのかも知れない。古流とは言っても研究は常にされている。それともレイが独自に取り入れた練習かも知れない。
 その辺の詳細は知らないが、とりあえずレイがやっているのがトレーニングの一つだとは知っていたので、
「熱心ね」
 とアスカは言った
「そう?」
「だって、あんた1日の大半を稽古に使ってるじゃない」
 綾波レイはアスカと違い、NERVの研究員としてここに出入りしていてるわけではない。高校卒業後、彼女は入門していた流派の内弟子になり、一年とたたない間に奥伝を得た。そうしてから今度は旅に出ようとする彼女を、NERVの人間達は引きとめた。当然である。彼女の体はNERVの機密というべきものであり、その所在は常に明確にされていなければならない。その上に元チルドレンでもある。例え記憶がほとんどないにしても、守秘義務が課せられることになるのだ。しかしかと言って、アスカやシンジのようにNERVのスタッフとして彼女を雇うには、あまりにも専門の知識が欠けていた。高校時代にシンジはNERVに入るための勉強をしていたからどうにか入れたものの、レイについては一定の学力は維持していたがただそれだけで、とにかく武道の鍛錬に励んでばかりだった。
 そうしてNERVとレイの間の妥協点というべきポジションが今の「師範代」という役職だった。
 NERV内部の保安部警備部を中心として全職員の参加できる、護身術講習の責任者である。
 そのための訓練として、彼女は1日の多くを何がしかの訓練をして過ごしているのだった。
 だが。
「あなたの上達が著しいから」
 言った。
「教えるほうとしては、さぼれない……」
「あんまり根を詰めるのもどーかと思うけど」
 言いながら、何処か満更ではなさそうにアスカは頬を緩めた。CQB――近接戦闘技術に関しては、チルドレン時代から自信があった。研究員となった現在ではさすがにあの頃とは違って訓練に時間はかけられないのだが、それでもその実力は群を抜いている。専門に訓練をしているレイをして一目をおかざるをえないほどに。
 レイはアスカの顔を一瞥してから、また正面に向けた。
 その行為がなんとなく癇に障ったが、だからと言って怒り出すでもなく、アスカは微かにゆらゆらと動いて姿勢を整えているレイの真正面に移動する。
「ねえ、本当に、あんたは知らないの?」
「……なんのこと?」
「さっきも言ったことよ。碇ユイ博士が何を目的に人類補完計画を推進していたか――」
「……………………」
「彼女が知った『人間の存在の意味』とは何なのか」
 もしかしたら――
 そう、思う。
 その思いが消えてくれない。
 目の前の求道者が、碇ユイとは別個の存在だとはわかっているのだ。解っていてなお、アスカは“もしかして”という思いを消すことができない。ついさっき「知らない」と言われて、なお。
「あなたは」
 レイは、まっすぐにアスカの眼差しを見据えた。
「なんで、それを知りたいの?」
「なんでって――」
 碇ユイ博士が全てを握る鍵だから……そう答えようとして、俯いた。明確な理由などなかったのだと、たった今気づいた。碇ユイ博士の意図など、ゲンドウにしつこく聞けばその内に答えてくれるかも知れないことだ。こうやってレイに聞くことでもなく、考え込むことでもない。それなのに何故なのか――。
「――興味がある、じゃいけない?」
「…………………」
 とりあえず絞りだした言葉に、しかしレイは微かに眉ねを寄せるだけの反応を示した。これだけでは彼女がどう思ったのかは解らなかったが、アスカはその後彼女が何も言い出さないことで、それを不快としたのだと思った。
「……そりゃあね、興味本位で聞いて回ることじゃないとも思うわよ、だけど……」
 言い訳がましいことを口にしている自分が信じられなかった。
 アスカは言いよどみ、黙り込む。
 そして。
「けど――」
「黙って」
 気がつけば、レイはアスカの後ろにいた。
 押さえ込むように床に伏せられた。
「何よ!?」
「……気づかれる」
「え?」
 レイは、遠くを見ていた。
 アスカはそれに気づき、その視線を追う。
(あれは……)
 十数メートル離れたところで、彼女は知る辺の姿を見つけた。男と女。二人とも白衣を着ているが、それは珍しくもない。研究機関である現NERVで、白衣をきていない人間の方が珍しい。かの彼女の知る限りでは今自分のそばにいる綾波レイだけだ。そして、そこにいた二人は、二人してそのレイに関わりが深い人間だった。
「リツコと……碇顧問?」
「…………………」
 公園の一角で、二人が向かい合っている。
 最初はすこしづつ、しかしやがて一方的にリツコがゲンドウに何かを言う。ここからでは何を言っているのかは解らないが、どんどん口調は激しくなっていく、詰問しているかのようでもあった。ゲンドウは何も言わない。ただ黙ってそれを聞いていた。そして――
(リツコ……?)
 唐突に。
 女は、男の胸にすがりついた。
 それは……あまりに美しく、痛々しい光景に思えた。
 美しいのは、女が男に深い想いを抱き、それを体で表しているから。
 痛々しいのは、男が女の想いを知ってなお、それを受け入れていないから。
 ゲンドウは、やがてリツコの肩に手を置いて引き剥がし、初めて何かを口にした。それも聞こえなかったのに、アスカには、リツコが次に何をするのかがわかるような気がした。
 ぱぁん、とここにまで聞こえる張り手の音が鳴り響く。
 ……泣きながら駆け去っていくリツコの背中にむかって、ゲンドウが左手を伸ばしかけていた。

「……赤木博士は、あの人のことが好きだったの」

 すぐそばから聞こえた声に、アスカは振り向いた。
 綾波レイの顔がそこにあった。
 しかし、初めて見る顔だった。
 あまりにも冷ややかにそれを眺めていた彼女は、十代にして武の道に人生を捧げた求道者ではなかった。

 女の顔をしていた。



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Original text:我乱堂さん
From:そうして彼女は嘘をついた