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今日はちょっと思い立って阪急及びモノレール沿線を散策してきました。11:30頃に自宅(南方)を出て一路西へ。JR北方貨物線と阪急宝塚線が交叉する辺りから,線路に沿って北へ進路を変えました。三国は上下線が高架になってから8月に一度乗車しているのですが,現在この付近はどの様になっているのか興味があったので見に行きました。旧線跡は線路が撤去され北大阪病院付近〜三国駅間のスロープも完全に撤去されていました。かつて駅があった部分も更地になり,駅舎は一部だけ原形をとどめていましたが,それ以外はきれいさっぱり取り除かれていました。駅の北側の神崎川へのアプローチ部分も更地で,堤防に立って南側を眺め,更地が急カーブしている情景にかつて梅田行きの電車がゆっくり入線していく様子を重ね合わせました。
鉄橋も橋脚は全部残っていましたが,橋桁は1ブロックが残るのみでした。川を越えた辺りに続いていた築堤も撤去されまだ工事が続いていました。それ以遠は従来からの路線と合流して北へ。かつて川が流れていたところを越えると,開業時からの土手の上を進みます。庄内で国道176号を越えますが,ここにかかっているトラス橋は,元々梅田で省線を越えるために使われていたもので,省線と阪急が逆になって不要になったのでここに移設されました。
庄内はいつも通りたくさんの人でにぎわっていました。そして歳末ならではの慌ただしさがありました。踏切で3066Fの特急梅田行きを待ちました。三国でも5100系の特急を見たのですが,特急は終日運転されているのでしょうか。自分が通学に利用していた頃は特急などなく,震災以降に登場したので分かりません。そのままずっと北上して服部,曽根へ。服部のカーブの所で6015Fと遭遇。今となっては珍しい,運転台の直後に窓のない車両でした。また旧2200系を挟んでいました。こればかりか昔は5100系は5136F以外は全て4+4だったのが4+2+2になったりしているし,かつて神戸線にいた連中が移ってきていたりするし,自分にとっては理解できないくらい変わっていました。曽根も自分が通学していた頃とはまるっきり違っていて,かつての面影は全くなくなっていました。その中で昔を偲ばせるものを発見しようとしました。岡町などもそうです。豊中の留置線ですが現在は本線の西側にあるんですね。地べたの時は本線の東側にありました。それと今,曽根には折り返し出来る部分はあるのでしょうか。
豊中も三国と同じでその変貌ぶりには驚かされました。三国も豊中も急カーブを解消するために,かつての駅とは異なった場所にあるし,バスターミナルの上の歩道橋も一部削られていることもあって,昔のことは容易に思い出せませんでした。梅田行きホームの池にいた鯉はどうなったんやろう?
豊中〜蛍池間のカーブで梅田行きの3066Fを再び発見。今度は普通でした。蛍池で東に進路を変え,千里中央・山田方面に歩き出しました。千里中央までの役5キロの道のりはずっと勾配です。でも景色が良くてモノレールを見ている内にあっという間に千里中央まで歩きました。千里中央のジャンクションで,かつての北急の線路跡や旧千里中央駅付近をながめ一路東へ。山田まで来て北に向きを変え,万国博西口駅の跡付近へ。この付近に何か奇妙な鉄塔が建っていることを覚えていたので,西口駅と会場を結ぶ陸橋の橋桁が残っているのかと思って近くまで行ってみたらただの火の見櫓でした。そこから万博の外周道路を通って今は立入禁止になっているエキスポタワーの近くまで行き,そこから山田駅方面へ住宅街の道を少し迷いながら進み,訳が分からなくなっているところへ3300系が走っているのを発見。丁度山田の南側まで来ていました。そこから南千里までは線路沿いに歩きました。ここは地下線を除けば阪急で唯一のトンネルがあります。そして16:40頃に南千里駅に到着。約20キロを歩いてさすがに疲れました。南千里の駅にあがったら3309Fの天下茶屋行きが来たのですが,もう少しニュータウンの余韻に浸ろうと思ったので乗りませんでした。南千里は親戚が住んでいるので小さい頃は良く来ました。帰りがけはこのホームで710系や1300系が来るまでずっと待っていたこともありました。また南千里止まりの線路ですが12年前に撤去されてから草であれ放題になっていますね。で,7306Fの梅田行きで一路南方へ。淡路の5号線には60系の回送もいました。南方で7306から下車しましたがおそらくこれが20世紀中に乗る最後の電車になったと思います。20世紀最初,いや生まれて一番最初に乗った電車は知る由もありませんが,今世紀最後と思われる7306のことは記憶にとどめておこうと思います。
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