ボクのヒミツたいけん


Scene.40
Original text:通行人Sさん&黒さん


 鈴原トウジは白い煙を吐き出し、ぼんやりと空を眺める。
 雲一つ無い。
 二十一世紀に入って、日本に始めて訪れる秋の空。
「えー天気やなあ……」
 給水タンクに背中を預け、そんな言葉を口にする。何だかぼやくようであった。言ってからもう一度、右手の指に挟んでいる紙巻を口に運ぶ。一息、吸う。そして、また白い煙を吐き出す。虚ろな眼差しで、トウジはその煙を見ている。散って大気に溶けていいくのを眺めている。
(だいぶ、すごしやすうなってきたな……これが秋っちうもんかい……)
 そんなことを考えていたが、今更だった。数ヶ月前に寝物語にアスカに聞かされたところによれば、サードインパクトの後、どーいうご都合が働いているのはまったく不明だが、地軸がかつてのそれに少しづつ近づいているのだと言う。やがて永い夏は終わり、秋が訪れるだろうと。その秋もかなり永めに続き、ゆるやかに冬になるのではないかとNERVでは予測されているとか。
 ……その話をした後、自分の腕の中で寝息をあげだしたアスカのうなじを脳裏に浮かべた。あの頃、あの女は週一か二で彼の部屋で泊まっていくのが普通だった。行為が終わった後で抱きしめて頭を撫でると、それまで獣のように哭いていたのが嘘のように落ち着いた。それからぼそぼそとどうでもいいようなことを話したりするようになった。それでもアスカは、いつも自分に背中を向けたままで、シている最中以外は顔を見せようとしなかったのだけれど。
「あー………」
 思い出すと、勃ってきた。
(しばらくシとらんからなあ……)
 アスカとは、この二週間ほどご無沙汰だ。まあ、別に自分の彼女というわけでもないし、アスカはアスカで、シンジとヒカリに適当に嬲られていることだろう。なんか最近はかなりエスカレートして、夜の学校とか公園で縄を使って……とにかく色々とシているのだとか。
 ちなみにトウジがそれに参加していないのは、いいかげんにそういうことをするのに嫌気がさした―― というのではなくて。
(……行ってみたいけど、体がもたんしなあ……妹もそろそろ退院するし)
 正直、忙しいのだ。
 シンジはよく体がもつものだと思う。
 もはや使徒がくることはないとは言え、不測の事態に備えてチルドレンは日々の訓練を欠かしていないはずだ。自分も一応はフォースであるので、予備役としてそれなりの情報は知らされているし、訓練内容はアスカや綾波から聞いていたりもする。それから考えれば、よくも学校にくる余裕があるものだというのがトウジの感想だった。それともあるいは、学校にくることでストレスを解消させているつもりなのかも知れない。
(ま、わしやヒカリが好き勝手やっといて責められんのも、そーいうことやろうなあ……)
 サードインパクト後に改めて会ったNERV作戦部の総責任者・葛城ミサトの、なんだか複雑な微笑みを思い出し、苦笑する。今考えれば、あれは何かを言いたいのを我慢していたのだ。
(シンジと惣流の間に割り込むなって、そんな感じのこと、言いたかったんやろなあ……)
 正直、言おう。
 あれでびびった。
 自分らがいいように玩んだ建中が、世界を救った英雄ともいうべき立場になっていることに気づき、なんだかすげー馬鹿なことをしているということをようやく自覚したというか――
 多分、肉体的にもいい加減に疲労がピークになっていたということもあるだろう。
 
 しばらく、トウジは勃たなくなった。

(あん時は、みじめやったなあ……)
 さすがにショックであった。
 ただ、そこで彼にとっての不幸中の幸いというか、安易に精力剤とかに頼ろうとせずに、ほとんどたまたまだがハウトゥー本なんかで己の不備をカバーしようとしたのが転機になった。
 一言。

“後戯が大切”

 目から鱗であった。
 いや、マジで。
 なんかもー、好き勝手にアスカを弄んだり、ヒカリとあれこれ試していたりしていたものだが、考えてみればこういうのが大切なんだよなあとか、自分のしてきた行為を思い返してうんうんと頷いてしまったりする。それである時にやってきたアスカを、行為が終わってからもほうっておかずに後ろからこそっと抱きしめて――  
(まさかなあ……)

『……やめてよっ……』

 泣き出すとは、思っていなかったと、トウジはそのことを思い出しながら紫煙を吐いた。
 最初は「間違えたかな?」と思った。
 参考にした本では『後戯は相手によってはやり方が違うので、相手のことをよく考えてするように』とあった。具体的なやり方もいくつか書かれていたが、その中でトウジは「抱きしめて頭を撫でる」という感じのを選択した。アスカが本質的に寂しがりだというのは、彼氏でなくても知っていることだ。急激に燃え上がり、尽きることなく幾度となく果てる彼女の身体の感度ことを考えれば、行為が終わった後も放っておくことがベストかとも思える。実際、今までそうしていたし。それで何か不都合があったというわけでもないのだが――
 抱きしめられたアスカは、

『鈴原のくせに、優しくなんかしないでよっ!』
『惣流……』

(まあ、それまでワシがしよったことを考えたらなあ)
 別に彼女でもない女が泣こうと喚こうと、どうでもいいといえばどうでもいいことである。
 なんだか訳がわからない内に処女まで奪ってしまった女であるが、それほど思い入れがあったわけではない。
 そう思いこもうとしていた。 
 そう思っていなければ、罪悪感に押し潰されて二秒だって正気といられない。
 喚くアスカを抱きしめ続けたのは、だからなのか。
「……あかん」
 ちょっとキツくなってきた。
 トウジは給水搭の下に隠していたスポルディングバックを引っ張り出し、中からティッシュの箱を取り出す。この鞄には彼がここでタバコを吸う時のための着替えとか、一人で抜くときのためのオカズとしてのエロ本とか、フランス書院の文庫とか、コンビニで売っているような文庫サイズのSEXのハゥトゥー本とか、性風俗の歴史と考察についての民俗学関係の書籍とか、純然たる暇潰し用に買った小説なんかが詰め込んである。ちなみに小説は夢枕獏のキマイラと池波正太郎の仕掛人藤枝梅安と吉川栄治の神州天馬侠とマーガレット・ミッチェルの風と共に去りぬとヴァン・ダインの僧正殺人事件。フランス書院は睦月影郎の……ってな感じである。さらについでに、たばこは「しんせい」。付き合ってるヒカリも、数年来の友人であるところの相田ケンスケさえ知らない、鈴原トウジのもう一つの顔がここから垣間見える。
 ―― かも知れない。
 とりあえず、トウジは座る姿勢を直し、ジャージのズボンをずらし、己自身の抜き身を外気に晒した。
 勃起している。
(惣流のこと思い出したら、ホンマにこれは……)
 抱きしめた時に鼻腔をくすぐった甘い芳香、柔らかな感触、くぐもる様に声を押さえて泣いてて―― その時のことを脳裏に浮かべれば、自然とこうなってしまうのだった。
「ん…………………」
 目をつぶり、トウジはしごきだす。
 彼がこうして、屋上の給水搭で煙草を吸ったり読書をしてたりとか、ズリセンぶっこいてたりするということは、それこそヒカリもシンジもアスカも知れないことだった。教えてもいなかった。
 特に理由はない。
 ただ、こんなことをしだすようになったのは、ヒカリと関係を持ち、アスカとシだした頃だから、その辺のことが関係しているかも知れない。
 まあ、そういうことを深く追求したりするようなことをトウジはしなかった。
 なんとなくそうしたいのだからそうしているだけのことであって、それを考えるということは、自分のキャラクターではないと思っている。
 指の動きが激しくなった。
 脳裏に浮かぶアスカの表情は今にも泣き出しそうで。
 蕩け切っている。
 初めてシた時、トウジのペニスを前にして、ヒカリに卑猥な言葉で嬲られながらイかせられたアスカが、こんな顔をしていた。
 許してといいながら、ヒカリの手に導かれて右手でペニスを掴まされ。
(うっ……)
 その時の感触を、彼は一生忘れないだろうと思う。
 ぎこちなく動かしながら、耳元でヒカリに何事か囁かれ。
 頬を赤く染め。


 泣いていた。
 
 
 白濁が、飛んだ。
 
 未だ処女を散らす前のアスカは、愛する者以外の精子を顔に受け、その瞬間に何かを失ったかのように「いやぁ」と弱々しくうめき、床に倒れ伏した。

「……鈴原くん」
「あ、すまん……」
 ティッシュが間に合わなかった。
 噴出されたそれは、ちょうどたまたま梯子を上って顔を出した、綾波レイにかかってしまったのだった。



◆ ◆ ◆



「いや、ホンマにすまんかった」
「いい」
 トウジは慌ててレイの顔についた自分の精子を拭き取る。正座してそれをされているレイはと言うと、全然表情が動いていなかった。
 正直、怖いと思う。
 恋人でもない少女の顔にぶっかけるというのは―― 以前はよくアスカにしていたことではあるが―― どう考えても「すまんかった」ですむようなこととは思えない。
 それなのに、綾波レイは何も言わずにトウジのされるがままにしていている。
(こいつはホンマに、“対象外”にはナニされても気にしないんやな)
 鈴原トウジは、綾波レイに対してそう確信している。
 レイは、関心のある人間以外は人間と認識していない節があるのだと。
 例えば惣流アスカ・ラングレーや、碇シンジや。
 チルドレンとして共に戦っていた仲間には、それなりに気を使っているらしいし、シンジには愛情さえ持っているらしい―― というか、持っている。SEXは結構激しいのだとはシンジから聞いたことで、詳細は知らないが、そういうことだろう。自分の名前をかろうじて覚えてくれているのは、やはりチルドレンとして一度は所属したからだ。少なくとも、それ以上の接点はなかった。表向きは。
 いや。
 レイは腕を上げ、顎を拭いているトウジの手に触れた。
「……煙草、吸ってたの」
 質問ではない。
 ただの事実の確認―― という感じだ。
「……まあ、いつものこっちゃ」
「そう」
 それだけ言うと、手を下ろす。
(解らんなあ……こいつの行動には……)
 そもそも、ここでトウジが煙草を吸っていたりするということを、レイだけは知っている。別にトウジがレイにだけわざわざ知らせたというのではなく、たまたまトウジが給水搭に上ろうとしているところをレイが目撃していたというだけの話である。そのことを誰にも言っていないのはまあ、それだけならばいかにも綾波らしいとトウジは思っただろう。それだけで終わらず、時折に給水搭に上ってくるようになったというのが意味不明だった。
(まあ、ワシに会いにきている訳ではない―― というのは確かやけどな)
 レイの髪についた自分のザーメンを丁寧にぬぐいつつ、膝の上に置かれた文庫に目をやった。
 
 星新一のショートショート。
 
 いつもここに来て、そればかりを読んでいる。
 これもおかしな組み合わせといえば、そうだ。
(……どうせセンセ辺りが勧めたんやろけど)
 いかにも、こういうトンチキなことをしそうだし。
 だいたいのところを拭き終えてから、トウジはふと思った。
(……そう言えば、綾波はセンセにここに来とるって、言うとるんか?)
 なんでか、今まで気にしたこともなかった。
 ここに今までシンジが来たことがないことから考えて、レイがこのことをシンジには言っていないということは確かだろう。自分が付き合っている女が、他の男と一緒にいるということに平気でいられる男なぞ、そうもいない。まして自分には「前科」がある、同居人である少女を、好き勝手に玩んでいたのだ……。
(まあ、ええか)
 あれこれと詮索することでもない。
 そもそもここでこうしていることを黙っていろとも、トウジは言っていないのだ。
 レイはトウジの手が動かなくなったのを見計らって、
―― 終わったの?」
 と言った。
「まあ、だいたいな」
「そう」
 そう言うと、立ちあがり、「いつもの指定席」へと移動する。
 トウジの背もたれする場所の真正面。
 梯子のかかっているその左横。
 そこに腰を下ろし、体育座りで文庫を片手に広げ、読む。
 その横顔を見て、思う。

(……なんか“群れをはぐれた者同士の位置関係”っぽいんやけどな……)
 いつもは気にならないことが、今日はやけに気になる。
 そりゃあ、意図したわけでもなく顔射なんかしてしまったのだから、気にならない方がどうかしているといえばそうなのだが。
 しかし。
「よっこらせ」
 無理やりに思考を中断し、立ちあがる。
 そうしてトウジもまた、自分の場所に座りなおし、背中を給水タンクに預ける。
(アホかって。ワシはいちいち悩むキャラちゃうやろが)
 目を閉じて、アスカのことを考える。
 喘ぎ声。
 匂い。
 感触。

 ―― 涙。

 ……上手くいかなかった。
 しばらく気にしていなかった、アスカが処女を失った時の光景が、断片だけ浮かんでは消えていく。  
 
 泣いていた。

 泣きながら、必死に自分に言い聞かせていた。
 シンジのためだと。
 こんなのは、どうってことはないのだと。
 痛々しげに。
(いかんな……)
 思い出さないようにしていたのに。
 思い出してはいけないことだったのに。
 なぜなら自分は――

「苦い」

 レイの声に、トウジは目を開けた。
 レイは文庫を床に置き、右手の人差し指を口元に持っていっていた。
「……って、舐めたんか!?」
 ナニを「苦い」と言ったのかを察し、聞く。まだ髪の何処かに付着していたのが残っていたに違いない。
 レイは無言で頷いてから。
「碇くんのと、あまり変わらないのね」
「………………そんな変わるか」
 やっぱりこいつは解らん、改めて思う。
「少し、碇くんのが濃いかも知れない」
「さよか……」
「でも、同じなのね……そんなに変わらない……」
「なんや、センセとワイとではどう違うのか、興味があるんか?」
 わざと口元を、いやらしく歪めて見せる。
 まさかレイが頷くとは、思いもしなかった。
 その瞬間の表情のままに凍りついたトウジに向かって、レイは言った。

「教えて。―― SEXは愛情がなくてもできるものなの?」



◆ ◆ ◆



「そら、まあ……できるやろ。気持ちええことして、それで互いに満足できるわけやしな。何なら試してみるか?こないな場所、誰も来いへんしな」
「……マスターベーションとどう違うの?ただ身体が求めるだけの快楽なら、何も変わらないように思えるわ」
「……っ……そないなこと、お前の口から聞かされるとは思わんかったわい」
 ズキッと胸が締め付けられる痛みに襲われた彼は、真っ直ぐに自分を見詰めてくる赤い瞳から逃れるように、バッグから煙草の箱を取り出した。
 火を付けようとするが、ライターのガスが切れている。
 何度か試す。
 だが、やはり点かない。
「ちっ……」
 苛立ちをそれにぶつけるかのようにバッグに投げ込み、くわえていた煙草も箱と一緒に放り込んだ。
 レイはまだその場に佇んでいる。
 相変わらずの無表情。
 しかし、彼女の視線にある全てを見透かすような印象が、トウジの皮膚を、肉を、骨を、それら全てを透過して、奥底にある心までも覗き込まれている錯覚に捕らわれる。
「……見るなや。何かおかしな気分になるやないか」
「そう……」
「お前はワシと何も関係あらへんやろ。何でちょっかいかけてくるんや」
「ただ知りたかったからだけだわ。私は碇君に抱かれているとき、自分を慰めるのとは違った気分になれる。私の中に入ってきて欲しいと思うのは碇君だけだわ」
「……それがどうしたんや。ワシには関係あらへんっちゅうとるやろが」
 苛立ちが募り、自分の心をささくれ立たせる相手を、半ば本気の憎悪を込めて睨み付けた。
 レイはそれをどこ吹く風と気にも留めない。
 ただ、最後にぽつりと呟いた。
「体液を注ぎ合うだけで、愛が生まれると信じているの?それなら愛のないセックスなど存在しないのね、あなたには。ごめんなさい。さよなら」



◆ ◆ ◆



「な―― んや、それ」
 あまりにも唐突だったせいか、彼は意味が最初解らなかった。少しづつ思考のまとまりがつき、飲み込めて、やがてかっと頭に血が上った。
(こいつ――
 自分を責めているのか!?
 恋人がいながらも他の女に手を出していて、それを恥じないでいる不道徳な男―― 自覚は多少はあった。目を反らしていた。
 だから、彼は拳を握って腰を浮かし、そして元の位置に座りなおした。
 女を殴るわけにはいかない、と思ったのもあるが、それ以上に綾波レイの眼差しを直視したということもあった。少なくともこの女は、自分を責めるつもりも揶揄するつもりもない。
 それでも何処か不貞腐れたように。
「なんや、愛もないのにスるなゆうんか? 言っておくけど、ヒカリかてお前の好きなシンジとええことしとるんや。ワシだけが責められるいわれはないで」
 レイはわずかに俯き。
「碇くんも、そうなのね」
「せやせや。だからま、ワシとおまえがシても、それは構わんっちゅーことで……」
 自分でも無茶だと思う理屈を振り回しながら、レイの傍へと膝を寄せる。
 そして。
 トウジは、レイが真剣に悩んでいる目をしているのを見た。
「……綾波……」
「わたしは、碇くんが好きで、SEXをするけど、あの人も碇くんを好きなのに碇くん以外の人とSEXをする……碇くんも……」
「…………あー、何を悩んどるんや」
―― SEXって、愛しているからできると思ってた」
「…………………………」
「だけど、わたしと同じ碇くんを好きなはずのあの人はあなたとして、碇くんはあなたを好きなはずの洞木さんとしている」
「…………………………」
「碇くんは、わたしのことを――
 それから先の言葉はでないようだった。
 トウジはその場にペタリと腰を下ろし、なんだか困ったように頭をかいた。
(なんや、えらいふっるい貞操観っちゅうか……)
 ようするに、レイはシンジとSEXをしていることで愛されている、という実感を得ていたのだ。しばらくはそれでよかった。それ以上考える必要もなかった。しかし自分と同じシンジを好きなはずのアスカは別の人間とシて、シンジもまた、そうしている……。
「ま、あんまり難しく考えるなや」
 レイは顔を上げた。
「SEXはま、愛がなくてもできるけどな、やっぱり愛がある方がエエもんやて、そういうもんや」
―― そう?」
「そやそや。ワッシもな、実際の話、惣流の方が相性がええんや。惣流もシンジよかワシの方がエエと思うで。せやけどな、いくら気持ちようなれるゆうたかて、やっぱり好きな相手とシたい思うとるんや。だから惣流かて、気持ちようなりたいだけだったらワシとだけすりゃええのにシンジとしてるし、ワシかてな……ゆうとること、解るか?」
 自分でも上手い説明ではないと思いながらもそういうと、レイは少し考えた後でうなずいた。
「ジブンもな、あんまり愛の証や堅苦しいこと思たりせんと、ちょっと他の相手と試したらええんや。惣流とおんなじで、ひょっとしたらシンジよか相性エエ相手がおるかもしれんわ」
 さしあたってワシはどないや―― とずい、と身を乗り出した。
 半ば以上本気だった。
 それ以外に何を考えていたのかは、自分ではよく解らない。
 レイはそっと手を伸ばし、トウジの頬に手を当てた。
 そっと撫でる。
 そして。
「……駄目」
「駄目か」
「ええ」
「どうしても?」
「駄目」
「ええと、なんでや?」
「わたしは、アナタじゃないもの」
 言った。



◆ ◆ ◆



『それじゃあ、先いくから』

―― まったく、思わせぶりなこといいおってから……)
 トウジはコンクリの床に横たわりながら、つい数分前までここにいた綾波レイのことを考えていた。
 彼女はゆっくりと自分にのしかかろうとしていたトウジの下から抜け出し、立ち上がり、もう用は済んだとばかりに上のようなことを言ってトウジに背中を向けたのだった。それはあまりにもあまりな展開であって、さすがに「おいちょっと待てや」と声をかけてしまったのも無理はなかった。
 が。
『何?』
 と立ち止まり、振り向いたレイを見た時、トウジは自分が何を言いかけたのか解らなくなってしまった。
 レイは続きを促そうとはしなかった。
 じっと彼を見ていた。
『なんで――
 そんなことを聞いたのは何故なのか、自分でもよく解らない。
『なんで……あんなこと、ワシに聞いたんや』
 気にはなっていた。
 そりゃ確かにまったく知らない間柄ではないが、“愛がなくてもSEXはできるのか”などといったようなことを話し合えるような関係ではない。少なくとももっと親しい相手は他にいるはずではないか。それともアスカやシンジと関わりがある自分でなくてはいけないとでも思ったたのだろうか。
 レイは瞬き、それから。

『あなた、以前にわたしの心を教えてくれたことがあったから』

 笑った。

 何処か青い月を思わせる、世にも淡く、美しい微笑み。

 トウジが何かを言う前に、レイは流れるような所作で梯子を降りていっていた。

(あれか……)
 色々と考えたが、レイが言っているらしいことは一つしか思い当たらない。

『お前が心配しとるのはシンジや』

 ……我ながら気障というかなんというか……。
 もっとも彼に言わせれば、あの瞬間の綾波レイの心情が解らなかった人間は、少なくとも彼女の知覚している範囲の人間ではシンジだけだろうということになる。あとレイ当人。キング・オブ・ニブチンと称されていたトウジにこんなことを思われるくらいなのだから、シンジの察しの悪さはもうどうにもならない。ってか、鈴原トウジは(無駄に)察しがいい男なのだった。あるいはシンジは他人のことを慮る余裕がないだけか。
(あー、つまりあいつは、ワシのことを“困った時の相談役”……みたいな感じに認識してるんやろか?)
 なんかそーいうのとも違うという感じがするが、上手い語彙が見つからない。
 マンガとかだと、そういう相談役はいつか主人公にフラれたサブヒロインとくっついたりとかするものなのだろが……。
(上手くすればヤれるかもな)
 無理やりに、そういう風に思考を持っていく。
 エロで馬鹿な自分を演じていなければ罪悪感に押し潰されそうになる―― そういう心の脆さを彼自身感じていた。
「綾波……愛はなくてもヤれるがな……」
 ―― 愛があった方がいいに決まっている。
 少なくとも、一番最初は。
 アスカ。
 いかんなあと思う。
 レイと話していたら、考えまいとしていたことが頭から溢れて仕方がない。『イヤイヤ』と首を振るアスカ。涙を流しながら、しかし嗚咽をこらえるアスカ。腕の中で泣くアスカ。アスカ。あすか。アスか。アすか。あすか。あすカ。あスカ。
(それでもやっぱり起ってくるんやから、男は難儀やわ……)
 苦笑した。
 とりあえずさっきのレイのこともあるので、そのまま捨て置く。その内に萎えるのは解ってるし。
 その内に、アスカを相手にしなくてもすむ……。
 鈴原トウジは、自分が―― いや、自分たちが現実から逃避しているということを理解していた。一度してしまった過ちから目をそらすためにまた他の馬鹿をやって、また別のこと、別のことをして日々をすごしているのだと。
 そんな時間が長続きする訳がないのだとも。
 理解していた。
 このままで進めば、自分らは取り返しのつかないところにまで到達してしまうという予感……というか、確信がある。すでに“踏み越えてはいけないライン”は五百メートルばっかり後ろに置いているだろうし。
 だからと言って、どうにかしようとかは考えなかった。
 自分はヒカリの誘いに乗った時から、彼女の『恋人』としてどこまでもつっ走っていこうと決めたのだ。少なくとも最後に「こいつがワシを誘ったんや! ワシは関係ない」なんてカッコワルイようなことは言わないと。覚悟している。
 例えこの先に口笛を伴奏に死神が現れて、断罪の鎌を振り上げようとも。
 いつまでも一緒にいてやろうと。
 彼は思っていた。
(そういや……)
 思い出していた。
 前世紀でもっとも偉大だった物理学者が、同胞の心理学者に出した書簡に書かれていた質問―― 「人はなぜ戦争をするのか」という問いかけに対する答えを。
「自己破壊の衝動があるから、か……」
 なぜだか、「その日」がくるのが待ち遠しい。
 自分が望んでいる、「終わりの日」。
 現実逃避なのだとは解っている。
 しかし、そのことを考えたら、どうしても唇が綻ぶのが止められないのだった。

 その時、携帯が鳴った。

“バレエ音楽サロメの第一楽章”。

 妹が好きな伊福部アキラの手になる曲は、苦労して打ち込んだ甲斐もなく、何処か投げやりな響きだった。
「……なんや、お前か」
 受信して最初に言った言葉は、わざと素っ気無く。
『なんややないやろ』
 妹の声は、わざとらしげに怒っているようだった。
『せっかく、お兄ちゃんに最初に教えたろ思たのに』
「なんや? つまらんことやったら承知せえへんぞ」
『承知せえへんてナンや。可愛い妹にナニするつもりやねん』
「ナーニが可愛いやっ、鏡見てからゆうてみい」
 笑った。
 トウジは妹が可愛くて仕方なかった。
 別にシスコンとかそういうのではない、と当人は思っている。ただ自分は妹が押さない頃からずっと世話を焼いていたので、ちょっと情の入り方が強いのかも知れないとは思っているのだが。それを言ったらヒカリに「シスコン」といわれた。ちゃういうてもしつこく言うので、それからヒカリの前では妹の話題はしないことにしていた。
 それで彼女からの電話は、『退院の日が決定した』ということだった。
―― ホンマか?」
『うん、あのあったまキンキンのセンセおったやろ? 国定やらなんやら言う』
「赤木や、赤木博士。国定チュウジが出てくるんは赤城の山やろが。字が違う」
『かまへんでないのそんなもん。たった一字違い』
「あほ。一字違いが大違いや。オリキャラ扱いされたりするんやで」
『……なんの話や?』
 ……関西的な兄妹の会話は無駄話に限りなくそれていくので、ざっと要約すると、「来週の日曜日に退院が決まった」ということだった。やっと、とは思ったが、それはナシだ。妹が一時はかなりひどい状態であったこと考えたら、こうして退院できるという結末は奇跡にも等しいということは解っている。
「そうかー……よかったなあ……」
 トウジは深く息を吐き、
「せや、シンジにも教えたろ。ワッシのせいやけど、あのセンセ、思えのこと結構気に病んでたらな」
 何の屈託もなく、そう言えた。
 妹は『あ、シンジはんで思い出した』と言った。
『そーいや兄ちゃん、この間ヒカリさんがきてな、退院したらシンジさんや兄ちゃんと秘密のパーテイーしよゆうとったわ』
「……へえ……」
 腹の中に鉛の塊があるような気分になった。
『どしたん?』
「いや……秘密の、いうとったんか」
『? うん。なんや“めちゃめちゃええこと”してくれるっていうとった。兄ちゃん、どんなことするやら知らんか?』
「あー……それはな」
『やっぱりエエわ。ヒカリさんも秘密ゆうとったしな、ちょっと気になってたら聞いてみたけど、やっぱりその時を楽しみにしてるから』
「……ほうか」
『ほうや。でも楽しみやで。なんか“秘密のパーティー”って言い方もオモロイし。ヤラしいことみんなでしあうような、乱交パーティーとかいうやつかいなって。いや、それはさすがにないやろけど』
「あほ。つまらんことゆうとらんと、さっさと寝てまえ。まだまだ安静にせえへんとあかんやろが」
『まだ宵の口にもなっとらんわ。こんなじかんに寝れるかい。……まあ、大分話したから、今日はこれくらいにしといたるわ。ほなな』
「ああ、ほなな」
 切った。
 それからしばらく携帯を眺めていたが、やがておもむろに鞄から煙草を取り出して、口にくわえた。
 そして、火をつける。
 鈴原トウジは白い煙を吐き出し、ぼんやりと空を眺める。
 雲一つ無い。
 二十一世紀に入って、日本に始めて訪れる秋の空。
「えー天気やなあ……」
 給水タンクに背中を預け、そんな言葉を口にする。何だかぼやくようであった。言ってからもう一度、右手の指に挟んでいる紙巻を口に運ぶ。一息、吸う。そして、また白い煙を吐き出す。虚ろな眼差しで、トウジはその煙を見ている。散って大気に溶けていいくのを眺めている。
 もう一息。
 言った。

「どうにかせんとあかんなあ……」


 終わり。



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