After Days


written by 我乱堂さん
01


―― 明日香さん」
 声をかけられ、彼女は箒を持つ手を止めた。
 朝日の差し込む空気の匂いの中で庭の掃除をするのは、彼女の日課にして密かな楽しみだった。
特にこの辺りは緑も多く、独特の香りを生み出していた。
「奥様?」
 疑問符をつけるまでもない。彼女のことをわざわざ「明日香」などと呼ぶのはこの屋敷でただ一人だけだ。それで優越に満ちたいかにも主人面をしていたのならまだしも救われるのに、と彼女は思う。
 この屋敷の奥方は何処かしら儚げに立ち、優しげに彼女を見ている。そこには同情などの翳は全く見えなかった。
「御飯、できたわ」
「そんな!」
 彼女は内心で舌打ちした。
「朝食なら、私が用意しますのに!」
「明日香さんが昨晩下拵えをしていてくれたから、それを使わせていただいたわ」
「あー・・・・・奥様」
 ―― いい加減にしてくれ。
 まるで女性週刊誌に出て来る「悪気のない姑」みたいだ。気を使ってくれるのはありがたいと言えばありがたいのだが、職分を侵すような真似をされたらこっちが困る。それで給料を減らされるなどということはないのだが、これは家政婦としてのプライドの問題である。
(それにしても――
 彼女は、思う。すっかり変わってしまったようでいて、この人はあんまり変わっていないのだなぁと。
確かにかつてのようなけたたましさというか、激しさはなくなった。穏やかで落ち着いていて、清楚で……世の男どもが理想とするところの「若奥様」そのものに見える。
 しかし、その本質ともいえる魂というか、全てに於いて自分でやってみないと気がすまないところは全然変わっていないようだった。
(けど、だからこそ、シンジは……旦那様は……)
 台所に向かっている奥様の―― 碇アスカの背中を眺めながら、彼女は深い溜め息を吐いた

 彼女の名前は砂姫明日香。
 ―― 偽名である。
 本名はとっくの昔になくしている。
 幾つか名乗った名前はもっているが、いつもその場限りということが多い。
 それでも最も印象の強い、決して忘れられ名前はもっている。
 霧島、マナ。
 かつてそう名乗り、戦略自衛隊に所属していた少年兵の一人であった彼女は、もう十八歳になっていた。

 ……全ての戦いが終わったのは、四年前。サードインパクトと言われる未曾有の大災害は起きた、らしい。
 ことの真相を知る者は誰もいなかった。
 それを防ぐためと称して前線にて戦っていたNERVの人間で生き残ったものは二ダースにも満たず、その誰もが事件の全容を知らなかった。
 もっとも中核にいたと思われる碇ゲンドウの実子で人造人間エヴァンゲリオン初号機パイロットの碇シンジと、同僚の弐号機パイロット惣流・アスカ・ラングレーはなんとか命を繋いでいたが、この二人もまた真実から遠い彼岸に立っていたのだった。
 ……それからの一年間、二人は渦中の人として世間を騒がせた。
 マスコミはこぞって二人を追った。
 事件の中核に位置していたというのは確かなのだから、二人にはそれ相応の責任があるというのが彼らの言い分だった。
 どういう根拠で、一体どれほどの責任をどうとらせるのかということを考えるものは誰もいなかったが。
しかし、それらも所詮は一過性のことであった。
 一年を過ぎ、国連下のある組織に拘束されてる二人の情報は完全にシャットダウンされ、二人のことを口にする者は誰もいなくなった。
 追究する者がまったくいなくなったと言う訳ではないが、サードインパクトの傷跡も急速に復旧の兆しを見せ始め、いつまでもそのことばかりに関わっているわけにもいかなかったのである。

「「「いただきます」」」
 三人は一つのテーブルで食事をする。
 お手伝いの自分がこうしているのはどうかとマナは思うのだが、二人は「他の人ならまだしも」と彼女を家族として扱おうとする。
 一々反論するのもアレなので、彼女は黙って従うことにしていた。
 それにまあ、大昔のメイドとは違って、お手伝いが一緒に食事というのはそんなに例外的ということでもないだろう。むしろこのような思考ははマナの側から距離をとろうとしていたことの現れである。
「美味しいね」 
 と白じらしく言うのが主人の碇シンジ。
「明日香さんの下拵えがいいからだわ」
 とマナが何か言う前にアスカがいう。
「……奥様の腕もいいですから」
 と漸くマナはいい、
「それから、“明日香さん”というのはよしてください、奥様……」
 毎度のやりとりではあるが、マナは言わずにはいられなかった。
 アスカはくすくすとおかしそうに笑っている。シンジは苦笑していた。
 特に意味がある名前ではない。
 家政婦を職業にしようと決めたときに、なんとなく昔読んだ漫画からとってきてつけた。たしか凄腕の家政婦であったと思う。自分とは違ってゴキブリが苦手であったようだが、まあ、それはどうでもいい。
 名前など、この場合は記号にすぎない。特に思い入れのあるものではない。
 ……確かに、たった数日だけ過ごした日々を彩った、快活な少女の名前と姿が脳裏を過ぎらなかったというば、うそになるのだけど
「ごちそうさま」
 アスカが一番最初に席を立つ。
「アスカ」
「奥様」
 腰を浮かせる二人に向かって、アスカは哀しそうに微笑む。
「ごめんなさい……もう、おなかいっぱいだから」
「そう……マナ、アスカについてってあげて」
 マナが「はい」という前に、アスカは「大丈夫」と言ってそのまま去った。
「旦那様……」
 マナはシンジを見た。
「ごめん……」
(この人は、全然変わらない……)
 あの頃の傷つきやすい少年のまま、そしてアスカも、二人は十八歳を迎えていた。

『マナ―― ?』
『シンジ……? それにアスカさん!』
 あの日のことは、今でもはっきりと思い出せる。
 家政婦組合から紹介されて出向いた若い富豪の屋敷での住み込みの仕事。まさかそこにこの二人が夫婦として住んでいようとは。
 さっさとその場を辞そうとしたマナを、『待ってよ』とシンジは必死に呼び止めた。
『マナなら……』
『シンジ?』
『アスカを……アスカを助けて……』
 嗚咽を漏らした。

「奥様……」
 扉をノックするが、返事はない。
 いつものことだ。アスカは日の大半をこの部屋ですごす。食事の時と風呂に入る時だけ、ここから出る。
 彼女がこの屋敷についてからずっとそうで、彼女がくるずっと以前からそうだった。
 そうして驚くべきことに、この部屋にはシンジですら入れさせたことはないのだという。夫婦でありながら。
無論、まるで交渉がなかったわけではない。3日に一度の割合でアスカはシンジの部屋に赴き、夫婦としての営みをする。そして行為が終わったあと、その疲れた体をひきずって部屋に戻るのである。
『アスカは……変わってしまった』
 囚われていた間のことは決して口にせず、ただシンジは何を聞かれてもそうくり返していた。
『すっかり穏やかになって、だけど、一日の大半をあの部屋でいるんだ』
『……何をしているのか、解らないの?』
 シンジは首を振る。
『アスカが何をしているのか、それは解らないけど……』
 あの部屋に入ろうとした時だけ、アスカは異常に頑なになるのだという。普段の玲瓏とした趣きがまるで嘘であるかのように。しかし淑女の仮面をつけたままで。アスカは拒否する。
『どうやら、今までやめた家政婦さんは、みなアスカに勝手にあの部屋に入ったらしいんだ……』
(まったく……)
 マナは頭を掻く。
 今日こそは、と思っている。今日こそはこの部屋に入ってアスカをひきずりださねばならないと。
 ……正直に言えば、それをしてどうなるのだ、と思わないでもない。
 アスカがここでこうして篭っているのは、彼女なりの自己防衛の手段なのだろうと、その程度の見当はつく。しかしそれ以上となると専門外だ。スパイとして付け焼刃に心理学の講習をうけさせられたが、その時の知識を総動員してみれば、無用な刺激はあまりよろしくない―― ということだった。
「けど……」
 シンジの、あの目を思い出す。
 嫌な目だった。自分で何一つしようともせず、ただ結果だけを欲しがっている子供の目だ。いや、ああいうのは子供だけがしているのを許される。十八にもなって、相当な財産を持つ身になってあんな顔をするものではない。
 ……知らず、唇をかむ。
 ここは、地獄だ。
 マナの魂を過去と言う名の牢獄に繋ぎとめる鎖が捕え、その端を手にしているのはかつて恋していた少年の……餓鬼。そしてそいつを後から抱え込んでいるのは優しく微笑む魔女だ。
 なんで私はここにいるんだろう? なんで私はこの二人に囚われていなければならないのだろう? 
 マナはその日、一年にわたって抑えられていたものを噴出させた。
 あえてきっかけを言うなら、朝のひと時を邪魔されたからかも知れない。
 マナは「入ります!」とノブを回し、そこに踏み込み――

 そこは、闇であった。

(何……これ)
 マナは思わず中に駆け込む。
 光一つ差し込まないように締め切られた室内は、扉からの外気に触れて急速にその領分を減らしつつある―― ように思えたとき、不意に扉が閉まった。
「えっ!?」
 振り返ったそこには、誰かがいた。
 いや、誰かなどという必要もない。ここにいる人間はただ一人だけだ。
 彼女を、霧島マナを除いて。
「奥様……」
 深く息を吸って吐き、マナは呼吸を整えようとする。
 状況はまだわからないが、自分が絶対に不利であるとは思わない。
 アスカがこの部屋に銃器の類を持ちこんでいないことは確認すみだ。刃物ですらもない。武器になるものはそれだけと限ったわけではないが、それにしたってマナにはかつて戦自で格闘技とサバイバル技術を学んだという自信がある。
 トレーニングは欠かせていない。
 完全に不意を突かれでもしなれば、いかにセカンドチルドレンが相手とは言え、不覚をとるとは思えない。
(闇に目を慣らすのよ……落ち着きなさい……)
 自分に言い聞かせながら、マナは腰を落とし、微かに重心を前に傾ける。
 クラウチングスタイル。
 この間合いなら、アスカがどういう攻撃を仕掛けてこようとも充分に対処できる。
 そう。彼女はこの時点で、アスカは攻撃してくるものと判断していた。
 そう思わせたのはこの部屋の中に充満する獣臭にも似た匂いのせいだったのかも知れない。

―― なんで」
むしろ静かに、その声は聞こえた。
「奥様?」
「なんで、あんたが、入ってくるの」
「…………」
 マナはアスカの言葉を待つ。次にはぎだされる言葉を待つ。
 それが自分に向けられていないと半ばわかりながらも、マナは待っていた。
「入ってくるなって……入って来ないでって、言った、のに……」
 感情を抑えた声。
 何を抑えたのかは解らないが、その声は確かに何かを抑えている。
「奥様……外にでませんか? よい天気ですよ」
 わざと明るい声でかけた言葉に、闇の向こうでアスカが首を振った気配が伝わった。
「だめよ……だめなのよ……おさえられないのよ……わたしはもうなにもしたくないのにきずつけたくないのにいやなのにこんなのいやなのにいやなのにいやあ……こんなのいやなのにぃ……」
―― 奥様」
 たんっ、と床を蹴る音がした。
―― 裸?)
 マナは暗闇の中で接近する少女の姿を、確かに目にした。
 白く仄かに闇に浮かび上がったのは、確かにあの少女の裸身。
 それにみとれたわけでも警戒を怠ったわけでもないのに、マナは襟首を掴まれ、そのまま扉の反対側にある壁に押し付けられていた。
「がっ……!」
 衝撃に失神しかけたが、それでもなお訓練された肉体は反応していた。
 自分を掴んでいる腕に手を回して関節をとりながら相手に蹴りを浴びせ――
「マナ……明日香さん……ごめんなさい……ごめん、なさい……」
 びくともしないその腕の向こうから、嗚咽に混じってその声が聞こえた。
「ぐっ……あっ……?」
「だめなの……これいじょうがまんしたらわたしくるっちゃうけものみたいになっちゃう……」
低く抑えられた、まるで虎の唸るような声。
(何……この力……)
 ヤバい薬でもやっているというのか? いや、そりこそありえない。アスカが口にするものは全てマナの管理下にある。
 それに、薬物中毒にある人間がどんな顔をしているのか彼女は知っている。
 薬に狂った者は、あんな目をしない。あんな澄んだ湖面のような眼差しは。
―― まさか)
 唐突に直感した。
 アスカは、このセカンドチルドレンと言われた少女は、普段は卓絶した精神力でこの状態から平静を保っていたのだと。
 薬物中毒でないにしろ、得体の知れないナニかを抑えていたのだと。
「ごめんなさい……」
 アスカはもう一度言って、もう片方の手でマナの顎を掴んだ。
「ごめんなさい……」
「お……あ、あふゅかぁさ……」
 襟首を掴まれ、無理やり顎を掴まれて口を開かされたマナは、アスカの苦しげな顔が近寄るのを見た。
 そして。
 アスカはその口にかぶりついた。
キスとかいう甘い表現が許されるような行為ではなかった。無理やりにマナの口の中に舌を入れ、唇を貪る。
「あっ……ううっ……ぶぁ……」
 ぺちゃぺちゃと唾液の音とともにマナの喘ぐ声が室内に響く。
 その圧倒的な力による蹂躙ともいえる行為の前に、マナはなすすべもないように見えた。
(こんなのって……)
 マナは必死になって対抗した。自分を壁に貼り付けている手に爪を立て、突っ立っているアスカの身体に、脚に蹴りを入れる。しかしまるでビクともしない。体重でいえばほぼ同じか自分の方が上のはずなのに―― ネルフのネルドレンは化け物か!?
 ……思考力は鈍りつつあった。蹂躙された口からは息が吸えない。喉のあたりを押さえつけられてもいる。
「ぐっ……」
―― ごめん」
 アスカの顔は、ようやく離れた。
「奥様……」
 あえぐようにだした声に、アスカは哀しそうな顔をして首を振った。
「ごめんね、マナ……」
 腕に篭った力は全く途切れない。むしろより強まっているようにさえ思えた。壁に押し付けられていた背中が痛い。襟首とともに押し付けられている喉が痛い。
「いったい、なんで……」
 アスカは答えず。さっきまで顎を掴んでいた手をマナの襟首に持っていき―― 破いた。
(うそっ!?)
 そも漫画などと違い、衣服というのは簡単に破けるものではない。確かに喧嘩などではわりとすぐ破れるが、それは双方の力と体重がかかるからた。この状態ではアスカが全くの腕力……しかも片手でやってのけたことになる。それは普通に考えてありえることではなかった。呆然としたマナは、次の瞬間には「ひぐっ」と苦鳴をあげた。顕わになった彼女の胸に、ブラジャー越しにアスカの指がくいこんでいた。
「あ……やっ、いたぁい!」
「…………」
 アスカは答えない。答える余裕はない。マナにこの時に冷静さがあれば、激しい動悸を整えようとしているように荒く呼吸していたと気づいただろう。そしてこう結論づけたはずだ。「興奮している」と。
 ……荒々しくアスカの指はマナの胸を揉みしだいた。そこに快感を与えようとする技巧はカケラもなく、ただ衝動に任せただけの行為であることは明白だった。
「ご無体な真似はやめてください! 奥様! 奥様! あっ……うぶっ」
 アスカは叫ぶマナ唇を塞ぐ。
 さっきまでと違って顎は掴まれていない。
 入り込むアスカの舌を噛むぐらいのことはできるはずだった。
 だがそうしようとする前に、アスカはマナの舌を吸い込み、絡みとり、唇全体を貪りだしていた。さっきと同様に―― いや、それ以上に!
「うっ……ぐっ……あぶ……」
 マナの目から涙が滲んでいた。荒々しい暴力の前で何もできない自分はあまりも惨めだった。もはやアスカの腕を掴む手にも力はこもらない。酸欠も始りだしている。意識が朦朧としてくる。だが、喉元を押し付ける痛みが失神することを許さない。乳房を弄ぶ指がそれをやらせない。
 と、アスカの体が密着してきた。押さえつけている力はそのままに、マナの脚の間に膝を割り込ませる。胸を掴んでいた手が離れたのを感じた。
(あっ……そこは!―― ひぎぃっ!)
 スカートを捲くり、アスカの指が一気にマナの中に侵入した。まだ濡れてもいないそこを無理やり指でかき混ぜる。そして、皮ごと彼女のクリトリスを摘み、捻った。激痛が腰骨から背筋を貫き、マナはしかし悲鳴を上げることもゆるされず首をのけぞらせただけだった。いや、その苦痛を証明するように、勢いよく漏れ出た液体がアスカの指を濡らした。
(ああ……そんな……)
 マナはあまりのことに全身から力を抜けるのを感じた。戦闘の最中に尿意を催したらそのまま放出してしまえ―― そんなことを教えられたことが脳裏をよぎる。だが無理だ。人前で放尿しててまったという現実は彼女から抵抗の気力さえも奪うにたりていた。それまでにも全く無駄だったという事実が、より拍車をかけた。アスカの手が緩んだのは、それを察したからかも知れない。
 マナの膝はその場で崩れ、へたりこんでしまったのだった。


(始ったか……)
 マナがアスカの部屋から帰って来ないことで、シンジは大体の事情を察した。
 入ったのだ。
 あのアスカの部屋に。
 そこで何が行われているのか、実はシンジは知っていた。獣の如き陵辱。あの清楚さなど微塵も見せず、ただ衝動のままに犯し、嬲る。その激しさの前には個人の意志など紙屑のようなものだ。自分のところにきてそれを解放したアスカは、まさに野獣だった。
「アスカ……マナ、ごめん」
 自分にはどうすることもできない。
 シンジは悔しさに拳を握り締めた。

『シンクロ訓練のし過ぎによる、脳の旧皮質の肥大化……だって』
 アスカにそれを知らされたのは、あの拘束されていた期間に入って、一年たってからだった。
『何、それ?』
『いわゆるワニ脳の……まあ、いいわ。とにかく、訓練の後遺症ね』
『それって、僕も――
『シンジには関係ないわよ。ドイツ支部の問題よ。脳内麻薬の制御とかどうとか……シンクロ率をあげるための手段は、まあ、ギリギリまで色々と試されたわけだから』
 シンジは息を呑む。それはつまり、彼女は人体実験を受けていたということだろうか。
―― 脳内麻薬を自在に制御する最高の兵士の雛型……それが私なのよ』
 そんなのは初めて聞いた。シンジがそういうと、アスカも苦笑して、『実は私も』という。
『ドイツ支部が解体されるときに、その時の資料が出てきて……それでここでこうして拘束されているんだって』
『そうだったの?』
『そうだったのよ』
 全然真剣味が足りない言い方だったから、シンジはことの重大さがよく解らなかった。アスカはわざとそう言ったのだと知ったのは、その少し後だったのだが。
―― アスカ』
 ただ名前を呟くのが精一杯だった。シンジの目の前で、アスカは五人の屈強の兵士を打倒したのだ。それも圧倒的とも言える力で。
 秒殺、という言葉が脳裏に浮かんだ。
『あっ……ぐっ!』
 その場にうずくまり、頭を抱えるアスカに、ようやくシンジは我に帰る。
『アスカ……!』
『シンジ……ごめん! あたしはやっぱり――
『え?』
 その場に押し倒され、シンジは呆けたようにアスカの顔を見返した。
『ごめんなさい……ごめんなさい……』
『あ、やめ……こんな』
 喉に喰らい付くようにキスをしてくるアスカに、シンジは戸惑う。ここは実験室で、周囲には兵士や研究員ほか、人が大勢見ている。廻らない首で見渡せば、その男達―― 女達もいたが―― は、やけに冷ややかな目で二人を見ている。いや、男達の中にはいやらしげにニヤついている者もいれば、女達の仲には侮蔑し切った汚物を見るような目をしている者もいる。
『シンジぃ……お願いよぉ……』
 アスカは涙を流していた。
『ワニ脳の活動は現生人類ではかなり制限されていると言われている』
 研究者の主任として紹介されたニナ・フレキシブルが、何処か嘲りを含んだ声でとうとうと説明を始める。そういえば……とシンジはアスカにむしゃぶりつかれながら、一部だけ冷静になっている脳みそで考える。この人が何の主任なのかは聞いていない。わざと聞かせてくれなかったのかも知れないと。
『しかし、さすがは脳神経外科の分野では最高級のエキスパートを集めていたNERVだけあるわ。前世紀においてその活動のほとんどが未解明だった脳のメカニズムを完全に解析し、それを応用するまでに到っている。勿論、ワニ脳に関してもね』
 アスカの舌がシンジの唇を舐める。
 まるで愛犬に甘えられるご主人様、といった風に見えなくもない。
 しかしアスカは涙を流し、その腕は片方でシンジの身体を押さえつけ、もう片方はシャツの下にもぐりこんでシンジの胸を撫でていた。
―― 細かい話は割愛するわね。重要なのはそのセカンドチルドレンは特殊な薬物と催眠暗示を使って……平たく言えば脳改造を施された、究極の生体兵器なのよ』
 シンジはあえぎながらそのアスカの手を止めようとして上から押さえつけた。渾身の力をこめたはずなのに、まるで支障にもならないように、アスカの手と指は動くのをやめない。
『まあ、この辺はセカンドからも聞いているようだけど。問題なのは、彼女が試作品、つまりテストタイプであるということね。貴方の乗っていたエヴァンゲリオン初号機と同じ。ありとあらゆる条件を考えられ、必要以上の手をかけられて作られるものなのよね、試作品って。だからこそのあの活躍ができた訳ね。皮肉にもセカンドは、試作品でありながら制式タイプである弐号機のパイロットになってしまっていた。“上等な肉には上等なソースを”。セカンドがその実力を発揮するためには、弐号機は力不足だったけど……話がズレたわね』
 ついにはアスカの唇はシンジのそれをも征服しようと、無理やりに重ねられた。
 舌が侵入してくる。
 シンジは必死に抗おうとしたが、押し付けられてくるアスカの顔にかかっている力は痛いほどだった。それに、食いついているかのようにアスカは容赦なく歯を立ててきている。シンジの忍耐などあってないようなものだった。
『そう―― 試作品の話だったわね。制式タイプと違って工夫と改良の余地を重ねられるのが常だけど……ここまでは言ったかしら? 言ったわね。そう、重ねられるのだけど、幾らでも、と言う訳にはいかないわ。何せ彼女、一応は人間だし』
 アスカは両手でシンジの手を床に押し付け、貪るように口腔を蹂躙していた。
 腰をシンジの腰にすりつけ、揺すっている。
 その尻を振るかのような動作に、見物人の中から卑雑な笑い声があがった。「ビッチ」とかどうとか、揶揄するようにそんな言葉を囁く者もいる。
『成長期ってのがあるのよ。幾ら若いとは言っても、それを過ぎれば受容体としての柔軟性は激烈に低下していく。セカンドは最高のスーパーエリートとして貪欲なまでにありとあらゆる実験結果を吸収してきたけど、それも十三歳の頃にはもう限界のようだったわね。幸いにもそれが露見する前に使徒は襲来し、彼女もまあ、そこそこは活躍できたようだけど……後半戦における息切れは、セカンドの肉体が実験の後遺症で崩壊を始めたからだと推察できるわね』
『ふあ……』
 漸く唇を離し、アスカは見も心も蕩けたかのように熱い溜め息を吐き、『シンジィ……』とまた首筋にかぶりつき、ぴちゃぴちゃと舐め始める。
『それが……この状態だって言うんですか?』
 何に対してかは解らないが、シンジは怒りを感じていた。当然のようにそう問い質す声にもそれが篭る。
 ニナは艶然と笑った。
『もう少し間に色々と要因が入るんだけど、生物学的ゆらぎって言っても解らないでしょうね。―― とにかく、それだけだったなら、精々が廃人として一生寝たきりになっていたくらいですんでいたんだけど。さすがに腐ってもセカンドチルドレン、ドイツNERVの最高傑作ね。最終決戦で、崩壊していた能力を復活させるなんて離れ業をやってのけたみたいね。だけど、その結果として、発達を促され続けていたワニ脳が完全に覚醒してしまったのよ』
『覚醒……』
 シンジはむしゃぶりつくアスカへと視線を向けた。
『そうなると―― ほとんどケダモノ』
『いやあ! それ以上言わないで!』
 アスカは顔をあげ、懇願の言葉を悲鳴のようにあげた。あるいはそれは、悲鳴そのものだった。
『アスカ!?』
 シンジはその悲痛な叫びに、呆然とただその名前を呼ぶことしかできなかった。
 ニナは二人のその様子を楽しそうに眺めながら。
『最も原初的な部位であるそこが完全に覚醒した状態なんて、今まで類例がほとんどないから、これは完全に推測なのだけど、セカンドは恐らく獣としての本能を持つに到ったのね。まあ、本能と言っていいのかはまた定義上の問題があるから迂闊には断定できないけど、この場合はわかりやすいようにこういわせてもらうわね。今の彼女は理性で本能を抑えきれない―― ケダモノよ』
『ああっ……シンジぃ!』
 アスカは両手でシンジの耳を押さえ込む。これ以上の言葉が聞こえさせないように。それが無駄な行為だと知りながらも。
『例えば―― 発情期』
 ニナは口元を綻ばせさえした。
『多くの哺乳生物にはあるそれが、人間にはないわね。いつでも生殖が可能な人類にはそれが不必要だという人もいるけど、それはつまり、逆にいえば、“人間はいつでも発情期だ”と言えないかしら? その参考としてのサンプルに今の彼女はなれるわね。―― 戦闘の後の昂揚感はすぐさま性衝動に直結して、彼女はいつも男を欲しがった』
『ああっ……』
 涙が零れ、シンジの顔の上に落ちる。
 何処かで似たようなことを自分がアスカにしたような気がする。
 シンジはどうしてかそんなことを思った。
 いつだったかは、まるで思い出せないけど。
『……実験として屈強の兵士と戦わせたわ。CQBのスペシャリストで、私たちの研究の最大の成果である、ブラウン大佐。通称をカーネル・アリゲーター。……ワニにはワニっていう洒落じゃないわよ。身長二メートル七センチ、体重百十キロで、反射神経と動体視力を高める処置が施してあったわ。筋力増強も、ね。あと催眠暗示で能力のリミッターを外せるようにまでしてあったわ。聞いたことあるでしょ? 人間は肉体の能力を完全に解放できないように、意識下でリミッターをかけてあるって。かれには考えうる限りで最高の処置がなされていたわ。一対一ならばこの地上のどんな人間にも勝てるという太鼓判を押されていた、まさに地上最強の男。―― ああ、押したのは私よ、念のために言っておくけど』
 それがね、とニナは本当に嬉しそうだった。
『二分だったわ。たったの二分。正確に言えば百三十四秒。たったそれだけの時間で、二分ちょっとで、カーネル・アリゲーターの積み重ねてきた武勲も栄誉も、人生も、私たちの研究の成果に対する賞賛も、その全てが汚泥の底に引き摺り下ろされてしまったのよ。体重差、性別の差、その他ありとあらゆる不利な条件をものともせずに。さすがにその時は、目の前が真っ暗になったわ。殺してやりたいって思ったわよ。彼を作り出すのにかかった十年という時間とつぎ込まれた莫大な資金の全てが否定されてしまったんだから。それに、彼とのSEXももう楽しめないっていうのもあったわね。―― 彼、凄い絶倫だったのよ? ああ、それはいいわ。どうでもいいわ。その後でね、セカンドは』
『お願い! 言わないで! シンジにだけは言わないで!』
『いきなりしゃがみ込み、自分を慰め始めたわ』
『ああっ……』
 アスカは、シンジの胸に自分の顔を押し付けた。
 両手は未練たらしげにシンジの耳に張り付いている。
『あっけにとられていた私たちの前で、セカンドはあっというまにアクメに達したわ。そうしてとめる間もなく、倒れている、自分が即死させたブラウン大佐のズボンにすがりついて、あっと言う間にひん剥いてね、そうして彼のペニスにむしゃぶりついたのよ』
『………………!』
 シンジは初めて、「声にならない声」と言うのを聞いた。
 耳からはアスカの手は離れていた。
 すでにそれを維持しようとする意志も力も残っていないようだった。
『当然、死んでいる彼のものが勃起するなんてあり得ない。セカンドは必死にフェラチオしてたけど、ね。それでも戦闘中は興奮していたから、多少は硬度は残っていたんでしょうね。 知ってる? 勃起したまま死ぬと、ペニスは勃起したままなのよ。セカンドはそれをヴァギナに擦り付け始め、ラビィアを刺激しはじめたのよ。立て続けに五回達したわ。挿入はしようとしなかったけど、あれは必死で我慢していたように見えたわ。いれられるだけの硬度がないと判断したのかどうかも解らないけど。―― ねぇ、死体のペニスを使ってのマスターベーションっていうのは、屍姦ということになるのかしら?』
 シンジはもうそれ以上聞いていたくなかった。
 縋りつき、声を殺して泣いているアスカを抱き締め、背中を撫でる。
『あなたたちは……それを黙って見ていたのか』
 吐き出された声からは、全ての感情が抜け落ちている。
 しかしそれを聞いてなお、ニナの微笑はなくなろうとはしない。
『だって、仕方ないじゃない。大佐が止められなかった彼女を止める方法なんて私たちにはないわよ。麻酔っていう手もなかったわけじゃなかったけど、なるべくなら危険は犯したくなかったわ。まだまだ危険なのよ、麻酔銃ってのは』
『…………でも、アスカは止まった』
『二十五回』
 ニナは謎かけのようにそう言った。
『最初の自分の指だけでというのをいれたら、二十六回ね。彼女はそれだけ達して、ようやく止まったわ』
 シンジは唇を噛んだ。
 胸の中の少女が自分の意志に反して欲情し、そしてその姿をさらされ、実験生物同様に観察させられていたなど、とてもではないが耐えられない屈辱であったろう。彼女のプライドの高さを考えればなおさらだ。しかしそういう目に会いながら、アスカはその姿を見せないように振舞っている。それはひとえにたった一人の仲間である、シンジのことを思ってだ―― そこまで察して、シンジは胸をかきむしり自分の心臓を抉り出したいほどの絶望の衝動に駆られた。かつて最後の使徒を殺したとき以上に死への渇望が生まれた。
 だけど。
『その後、何回やらせたんですか?』
 問う。
 ニナは軽く息をつき。
『三回―― 安心しなさいな。以降は防護アーマーを着せてだから、セカンドは誰も殺してないわ。それに、ペニスにしゃぶりつくなんてことしたのは最初の一度だけよ。あとはずっと自分で慰めるだけで済ませていたわ。けど』
『……けど?』
『もう、限界ね。セカンドの精神を保つためには、やはり実験の後ですぐにSEXさせるのが一番よい、と判断されたわ。あなたも最近の彼女の様子の変化には気づいていたんでしょ? ストレスが溜まっていたのね。やはりペニスのインサートがないと満足できないみたいだったわ。それでそれ用の相手まで用意しようかと思ったんだけど、彼女がね、言ったのよ』
 ―― シンジがいい。
 搾り出すように、口に出した言葉。
 アスカは懇願するように言ったのだ。
 ニナはその時のことを思い出し、笑みを深めた。
―― あなた以外の相手とやるくらいなら、死んでやるって』
『アスカ……』
 もう、シンジはニナの言葉など聞いてなかった。アスカを抱き締め、嗚咽を漏らした。
 アスカも泣いていた。
『実験は一応、あなたたちの同意の元に行われたっていうことにしたいわ。本来ならどのようにでも処分されるのが普通なんだけど、やはりどうしても、ね。あなた達レベルの有名人をこのまま飼い殺すというわけにもいかないのよ。旧NERVとか色々の絡みで。実験の報酬としてそれ相応のお金は払わせていただくわ。それからまあ、雇用期間は一年ということでね。解放されてからもここであったことは絶対に秘密厳守してもらうし、一応は監視下におかせてもらうけど、これって破格の待遇なのよ。 ―― どうする?』
 答える前に、アスカの手がシンジのズボンの中にもぐりこんでいた。
 そして。
 乱暴に掴む。
『うあ……アスカぁ!』
 シンジは叫びながら、無意識に腰を浮かせていた。



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■作者あとがき

 ワニ脳云々はデタラメなので、たとえ間違っているということを知っていても、そゆ指摘はしないで欲しいです(笑) あるいは、このニナ博士が適当にシンジが解りやすいレベルの話にしなおしているとか解釈してもらっても結構です。
 つーか、この話ってマナがでてくる必然性があるのか(爆)