Back Seat

Original text:引き気味


12

アスカの去った病室は急に室温を失ったようだった。
MAGIの厳重な管理下にある特別室だ。空調に異常があるわけもないが、シンジはパジャマの肩に毛布を引き上げた。

―― おやすみ、シンジ。
はにかむようにして残していった声は、どこか甘い―― 彼女がまとう香りと共に、まだそこに残っている。
ベッドの横に置かれたパイプ椅子。時間の叶うぎりぎりまで居てくれた温もりも、まだ新しい筈だった。
身を起こし、手を伸ばして確かめたいという衝動にふと駆られる。
それはとても魅力的に思えたし、やがて間を置かずして冷めてしまうのが寂しいとも感じられる。
でも、と。シンジは窓に額を押し当てたその場から離れたくなかった。

「……おやすみ、アスカ」

冷えたガラスを感じながら呟いて、また彼女の声を反芻する。

『しけた顔してるんじゃないわよ。また寄ってあげるからさ……』

微笑んで言ってくれた彼女も、その目は寂しそうにしていたと映ったのは自分の思い上がりだろうか?
かつての暮らしの中であれば、不安に感じたならその後姿をでも盗み見れば、何気ない仕草から幾許か読み取れるものがあったのだが――

ほんの少し前は、始終一緒に居られたのが当たり前だった。
出逢う以前であれば、一人のこの時間の方が当たり前。
それが今では、傍に彼女を感じられないことが頼り無くて仕方が無い。
検査と、検査と、検査と、治療と。そして大して眠れるわけでもない、痛みに耐えるばかりの夜。その繰り返しの入院生活。
彼女が来てくれている間だけが、おかしくなる一方の身体の事を忘れさせてくれた。
だから余計に募るのかもしれない。

顔をぴったりとくっ付けて外を見る窓ガラスには、赤い左目が浮かび上がっている。
綾波レイやもう一人の少年に良く似た、シンジ自身のそうなってしまった瞳だ。時折鋭い痛みが走る。
右目は更に激しくじくじくと痛んで、眼帯の中に覆ってしまっている。
今朝方に薬を取り替えた時は酷く血に濁っていたが、じきに左目と同じ赤い色になってしまうのだろう。
髪や肌も、すっかり色が抜け落ちて白く変わってしまった。
ネルフの医療部や技術部が大掛かりな治療をしてくれてはいたが、一向に良くなる気配は見えない。
寧ろ日を追うごとに、目に見えて変わってゆくのだ。―― 彼女たちのように。
始終めりめりと皮膚の下を何かが這い回る感触が続き、周期的な発作が来れば、血と膿を吐き出しながら内臓がのたうつ。焼けるように熱く感じもすれば、雪山に裸で放り出されたかと思うほど凍える時も有る。
骨も肉も筋も、この皮の下に袋のように詰まった本来の位地から、各々勝手に痛みに悲鳴を上げて逃げ出そうとしているかのように。互いに軋みあい、ぶつかりあい、ビクビクと激しい痙攣が続く。
何もかも狂ってしまっている。
その意味を誰も教えてはくれないのだけれども、怖れるように、忌避するように接してくるその態度から、シンジもとうに諦めを知っていた。
だから、治療というよりも検査の時間を多く。どう言い繕ってはいても、標本を見る昆虫学者のような目を向けてくるのだと。

中学時代の数少ない友人たちからも隔離されて、今やアスカだけがシンジと親しく話をしてくれる人間だった。
狂おしいほどに寂しさを覚えるのはそれ故かもしれないが、今、彼女に感じる感情が、だからこその物に過ぎないのかとも考えてしまうのは、シンジには堪らないことだった。
―― ただ、迷惑を掛けているだけかもしれない。不安から縋ろうとしているだけなのかもしれない。

彼女が気を使ってくれるのに甘えているのは、見舞いに来てくれている間もだ。
ともすれば沈みがちな雰囲気を払うように会話を続かせてくれるのはアスカばかり。
身振り手振りを交えて、高校での新生活のあれこれや一人暮らしの苦労話、同じく一人暮らしを始めたという親友のヒカリとの助け合いだのを話す。

―― ってわけで、やっぱり高校生といってもバカばっかりね。ほんっと、日本の学生って勉強しようとしないんだから』
『そりゃあ、アスカはもう大学まで出てるんだもん。比べちゃ可愛そうだよ。高校生だと……どちらかと言うとスポーツとか、部活に一生懸命になるもんじゃないの?』
『ああ……うん、部活ね。……そう、私もネルフの用事が無かったらねぇ。何だってどこでだって活躍してみせるのに。インターハイ新記録とか、ぶっちぎり間違い無しだわ』
『アスカだもんね』
『そ、当ったり前よ』

ふふふと、アスカは微笑む。とても楽しそうに。次から次にと、話題が切れないように語ってみせて。
時にはシンジも笑う。
それでも、シンジにはお返しに話せるような楽しい話題はひとつも無かったし、伝えたいことを口にする、その勇気も自信も持てる筈が無かった。

ネルフの付属病院、ジオフロントの中に閉じこもったままで居る内に、世間は移り変わり、アスカは高校に進んだ。
籍だけはシンジも用意されていたが、通えるような日が果たして来るものか。
自分の知らない制服をまとう彼女が、自分の知らない級友たち―― 男たちに囲まれてどう過ごしているのかと思うと、落ち着かなかった。
胸がざわめく。どうしても考えが後ろ向きになってしまう。
そんな気分を安らげてくれるのも、やはり彼女だった。

「あ……」

窓越しに待つこと数分。病院の玄関をくぐったアスカがエントランスに姿を見せた。
振り返って顔を上げて、いつものように病室から見下ろすシンジに小さく手を振る。
その間に、予め彼女が出てくるのを待っていたのだと思しきリムジンが、滑り込むようにして前に付けた。
ネルフの顔として忙しい彼女のことだ。リムジンには誰か次の予定への打ち合わせ役が乗っていたのか、ドアが開いた拍子に後部座席に座っていた人影が覗く。
シンジの場所からは女性らしい肌色の素足が見えたが、アスカに席を空けるように、奥へさっと腰をずらして隠れてしまった。
顔を戻したアスカが一言二言交わす。その微かに緊張した様子から、また大変な仕事でもあるのだろうかと想像する。
乗り込もうとシートに手を掛けたところで、もう一度アスカは振り返った。
夜にくすんだブルーの眼差しが、シンジと交錯する。

(アスカ……)

すぐにドアは閉まり、スモークを貼ったウィンドゥが彼女の顔を隠した。
ウィンカーを出して緩やかに発車したリムジンは、再建された本部棟へと向かう様子だ。
シンジはその姿が見えなくなるまでを、じっと見送った。

「……おやすみ、アスカ」

呟いた声でも、ちゃんと届いたミサトの家での日々はもう遠い。
暗く、上の町からの陽も途絶えた窓からの景色に、ライトアップされた本部が浮かび上がる。
わざわざ以前と変わらぬ威圧的なピラミッドに建て直しているが、あの中には、もう以前にシンジが知っていた人間は少ししか残っていない。
ミサトもいない。リツコもいない。加持も、父も。そして―― シンジとアスカと共に居た、もう一人のあの少女も。

また痛み始めた瞳に瞼を下ろして、シンジは眠れる筈も無い枕へと頭を戻した。



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