act 8

『ヒューッ』

 それを一目見るなり、グーデリアンが口笛を吹いた。
 それもそのはず、重要な書類を研究所まで届けるという重大任務をになったグーデリアンのために用意されたクルマが、素晴らしいものだったからである。

「乗ってみてもいいか?」

 グーデリアンの問いに、どこか誇らしいような顔をしてハイネルがうなづく。グーデリアンは早速運転席に乗り込み、ハンドルを手にしてみた。左右に回すと、ずっしりとした手応えが返ってくる。ギアの入り具合を試し、アクセルとブレーキの調子を見る。
 一通りの部分に触れてみると気がすんだのか、グーデリアンはハンドルから手を離してハイネルを見た。その顔には、まるでレースをしているときのような、満足げで自信に満ちた輝きがあふれている。

「オレはこいつが気に入ったぜ。このマシンなら、絶対にどんなクルマが来ても負けない。誰よりも早く研究所にこの書類を届けることができるさ」
 
 言いながら、グーデリアンは助手席に置いた茶封筒を軽く叩いてみせた。頼もしいグーデリアンの言葉に、ハイネルもうれしそうにうなづきかえす。


 それは、メタルシルバーに輝くボディが美しい、オープンカーだった。流れるようなフォルム、ハンドルの手応え、座りごこち、ギアのレスポンス、すべてが素晴らしい。技術の粋を尽くした自動車工学の芸術品とさえ言えるマシンだった。
「私が勤める会社の関連会社に、自動車の開発をしているところがある。そこに『一番速く走れる車を』と言ったらそれだと言われた」
 ハイネルのセリフに、グーデリアンはうれしそうに笑った。
「早くこのマシンをこの手で動かしてみたいよ」
「慌てなくてもこれからすぐに出発してもらう。先ほども言った通り、行き先はすべてそのカーナビが指示してくれるはずだ。オープンカーのルーフは自動で開け閉めできるから、好きに使ってくれ」
「オレ、先に言っておくよ。ホントに速く走ろうと思ったら、キズのことなんて気にしてられないぜ。ひっかき傷だのなんだのがたくさんつくことになるかもしれない。こんないいクルマ、修理費がいくらになるかなんて考えたくもないんだけど」
 正直にグーデリアンが告白すると、ハイネルがくすりと笑った。優しい笑みだった。
「構わない。無事にこの依頼を果たすことができたら、その車は好きに使ってくれ。特別報酬だ」
「え!?マジで!?すごく嬉しいけど・・・なんで?」
 思いもかけぬ言葉にとまどいながらも、心底喜んでくれているらしいグーデリアンの肩に、ハイネルはそっと手を置いた。
「前も言っただろう?私は、今自分が会社で手がけているプロジェクトをどうしても成功させたいんだと。今、私のプロジェクトの成否は、グーデリアン、お前の肩にかかっていると言っても過言ではないんだ。それに・・・」
「それに?」
「ロンドンで、お前は自分の夢をかなえたいと言っていた。そして今日、その夢がレーサーになることだと打ち明けてもくれた。お前は笑うかもしれないが、私はとても・・・・とてもそのことが嬉しかったんだ」
 はにかむように、けれど真っ直ぐグーデリアンを見つめてそんなことを言ってくるハイネルがとても愛しく感じられて、グーデリアンは彼を引き寄せてキスをしたくなった。
 けれど、そんな気持ちをグッと押さえる。勝利のキスは、フライングなしできちんと勝利をもぎとった後にいただこう、と決意したのだ。
「グーデリアン。お前の夢を必ずかなえてくれ。そしてそのとき、そのマシンを目にしたときに・・・・少しでもいいから、私のことを思い出してほしいんだ。私はお前からたくさんの元気と勇気をもらった。だから・・・そのマシンを受け取ってほしいんだ」
 こんなに真っ直ぐに自分の気持ちを届けてきてくれる人間を、グーデリアンはほかに知らなかった。キスしたい気持ちを押さえ、車から身を乗り出して、軽くハイネルの体を抱擁する。
「ありがとう、ハイネル」
「それはこちらのセリフだ」
 そう言ってハイネルは笑った。そして、無言でかるくうなづく。
 グーデリアンもハイネルの緑の目を見返し、うなづいた。今の二人に言葉はいらない。グーデリアンはそっとハイネルを引き寄せていた腕を離し、ハンドルに添えた。
 イグニッションキーをまわすと、マシンに命が宿る。
 魂をふるわせるような咆哮がマフラーから吹き出すと同時に、グーデリアンの目がレーサーのそれになった。激しいエンジン回転。その振動をシート越しに感じると、もういてもたってもいられなくなる。アクセルを限界まで踏み込み、タイヤをきしませる最高に楽しい瞬間が待っている。


「Go and get it!」



 ハイネルの言葉とともに、グーデリアンを乗せた銀のマシンが、ロケットのように飛び出していた。



 
 それは本当に、素晴らしいマシンだった。ハンドルを切り、アクセルを踏めば、自分の分身のように鋭敏な反応を返してくる。カナダの山道を走っている車はほかには一台もなかったが、もし道脇に立ってこのマシンが通りすぎる様子を見た者がいたのなら、それは銀の軌跡にしか見えなかったことだろう。
 文字通り、そのマシンは風のように駆け抜けていった。

「ホントにすげぇよ、このマシン!」

 誰が聞いているわけでもないのにグーデリアンは叫んだ。褪せた金色の髪が激しく吹きつけてくる風にかき乱されているが、まったく気にした様子も見せず、さらにアクセルを踏みこむ。
 レーサーは、まるで少しでもアクセルを多く踏みこんだ者がこの世を支配するのだとばかりに、つま先に神経を集中させる。5ミリ・・・いや、1ミリ。1ミリの差が、誰よりも速く風となって駆け抜けるか、それとも惨めにクラッシュして自分の亡骸をさらすかの境目となる。
 愚かで、真摯で、誰よりも熱い情熱。そんなものを持っていなければ、とてもレーサーのようなクレイジーな人種にはなれないだろう。



 そして、5Kmほど車を走らせたときだった。バックミラー越しに黒い影が映った。
 グーデリアンはわざとスピードを少し落とす。バックミラーの影はみるみる大きくなり、今やハッキリとその姿を確認できるまでになっていた。黒い、スポーツタイプのマシン。
 敵かそうでないか、などというのは考えるまでもなかった。相手がスピードをあげ、対向車線側にマシンを走らせ、グーデリアンのマシンと並走すると、大きな声をかけてきたからである。

『ジャッキー・グーデリアンだな。調べはついている。封筒を渡してもらおうか』

 男は、ご丁寧にも黒いスーツに黒サングラスを身につけ、いかにも悪役然とした格好をしていた。肌は浅黒く、髪まで黒い。グーデリアンほどがっちりとした体格ではなかったが、きちんと鍛えており、ドライビング技術もなかなかであることは、そのハンドルさばきや、しなやかな体の動きから見てとれた。
 グーデリアンはちらりと相手のそんな様子を見てとり、口を開く。

「そっちの言いたいことは分かった。オレにも言いたいことがある。聞いてくれるか?」
「なんだ!?取引がしたいなら、かなりいい条件を提示する用意がないでもない」

 グーデリアンは片手で運転を続けながら、ジーンズに手を伸ばし、グラサンを取った。それをかけながら、彼の口元には笑みが浮かんでいる。

「オレの言いたいことはただ一つ。『答えはNO』だ!」

 言いざま、グーデリアンは思いっきりアクセルを踏みこんだ。とたんにマシンが大きく加速し、ガクンと体が前後に揺れる。そのままの勢いで進んでいくと、男も慌ててアクセルを踏んだようだった。
 ますますグーデリアンの笑みが深くなる。

「ついてきな!楽しいレースの始まりだぜ。オレが誰よりも速いっていうことを、たっぷりわからせてやるぜ。オレのドライビングテニクックをじっくりその目で拝んでおきな!!」

 グーデリアンとマシンは、一体の風となってカナダの道を駆け抜けていく。慌てて男も後を追った。
 たった二人だけのカーチェイスは、こうして幕を開けた。


act 9 に進む

テキストのページに戻る
HOMEに戻る