act 5.
イギリス滞在三日目のことだった。本来なら関連会社を視察する日程のはずだと言うのに、ハイネルはいつもと同じように早起きして身支度を整えたものの、一向に出かける気配がない。
隣室のベッドでだらだらと横になっていたグーデリアンがようやく起き出してくると、ハイネルは朝刊を手にしながら「プリンス・オブ・ウェールズ」を飲んでいるところだった。
「あれ?ハイネル。まだ出かけないのか?」
寝癖の残った頭をポリポリとかきながら問うと、ハイネルは朝刊をめくっていた手を止め、カップもテーブルに置いた。そのままグーデリアンを見つめる。
そして、おもむろに口を開いたのだった。
「グーデリアン、たのみがある」
真剣な緑の瞳が自分をまっすぐ見つめてくるのに心をざわめかせながら、グーデリアンは彼を見返した。
「なに?オレにできることなら協力するけど」
「実は、今日朝から視察する予定だった関連会社が、急に明日に日程をずらして欲しいと言ってきた。不意に今日の予定が空いてしまったんだ。だから・・・」
グーデリアンは最後まで言わせなかった。
「ホントかっ!?じゃ、せっかくだから外歩こうぜ!もうオレ、おとといも昨日もほとんど遠出してなくてさ。つまんないと思ってたトコなんだよ!でもハイネルいそがしそうだし、ムリ言っちゃ悪いかなーと思ってガマンしてたんだぜ!」
「ちょっ、ちょっと待て!」
「ロンドンはいいパブがたくさんあるって言うけど、さすがにこんな時間じゃ興ざめだし、どこかゆっくりできるところにでも行こう!ハイネル、仕事が大変そうだから、たまには息抜きした方がいいぜ、ぜったい!」
ハイネルはグーデリアンの迫力に押され、目を白黒させている。すでにグーデリアンは遊びに行く気満々らしく、洗面所に鼻歌まじりで向かった。
「ちょっと・・・グーデリアン!私はせっかくだから、このオフを利用して書類をまとめたいんだ!私がこの部屋にいるからと言って気がねする必要はないから、お前だけでも外に気晴らしに・・・」
「ストップ!」
今にもノートパソコンを開こうというハイネルに向かい、ハブラシを口にくわえ、右手にはチューブを握ったグーデリアンが待ったをかける。育ちのいいハイネルが仰天していると、グーデリアンはハブラシとチューブをまとめて左手で持ち、右手の人差し指をワイパーのように左右に振った。
「お前、今のツラ鏡で見てみろよ。色が白いから顔色が悪いのがすごく目立ってるぜ。明日は会社のおエライさんと会うんだろ?そんな顔色で会ったら、相手はきっと不安がる。だからさ、今日一日ストレス解消して、その後ゆっくり眠ればいいさ。きっと一日ぐっすり眠るだけで大分違うぜ」
「・・・私は、そんなにみっともない顔色をしてたか?」
「みっともなくはないさ。でも、ちょっと見ててつらいカンジ。”がんばるのもいいけど、もう少し肩の力を抜けばいいのに”ってさ」
「・・・そうか」
少し考えこむような顔になったハイネルの気をそらすよう、彼を元気づけるように、グーデリアンは笑顔を向けた。
グーデリアンの笑顔はとてもよかった。よく言えば野性的、悪く言えば大雑把でとても男っぽい顔立ちをしているのだが、笑うと少年そのものになる。表情の乏しさを自覚しているハイネルでさえ、見ているとつられてしまいそうになる、朗らかで少しの邪気も感じさせない笑顔だった。
「今日一日だけはさ、仕事のこと何もかも忘れて、ゆっくりしてようぜ。観光旅行じゃないんだから、急ぐことないさ。二人でブラブラしてよう」
「私は私でゆっくりしているから、お前はお前ででかけてきてもいいんだぞ?」
「なんで?オレ、ハイネルと出かけたいよ。もう出会って何日も経つのに、まだあんまりハイネルのこと知らないしね」
そう言われて、ハイネルは少し不思議な思いで目の前の男を見た。
ハイネルの顔は美しく整っているが、そのせいでかえって近寄りがたい印象を周囲に与えるらしい。また、性格的にもマジメで一本気なため、どうしても人に1歩引かれることが多い。彼の最愛の妹であるリサが、何度もそのことを指摘してきたのだが、生来の性格を急に変えることなどできるわけもなく、やはり今でもフランツ・ハイネルという人間は近寄りやすい方ではない。
もちろん、そんな彼にも親しい友人たちは何人もいるが、彼らとは何年もの長い年月をかけて友情をつちかってきたのである。
ところが、目の前の男はちがった。
このアメリカ人、ジャッキー・グーデリアンは、まだ出会ってから数日しかたっていないフランツ・ハイネルのことをもっと知りたい、と言っているのである。
・・・きっと、この男は誰に対してもそうなんだろうな。
ポツンと、ハイネルの脳裏にそんな思考が浮かんだ。それとともに、わずかなさびしさを感じる。彼が自分に向けてくる優しさや好意が、彼にとっては特別なものではなく、万人に向けられるものだと思ったら、少し切ないような気になったのだ。
すぐに『そんなバカな』と自分の思考を打ち消したが、ハイネルはそんなことを考えた自分自身に動揺せずにはいられなかった。
「そうと決まれば、早くしたくして出かけようぜ。ハイネル、服着替えろよ。気晴らしに行くのにそんなスーツ着てたんじゃ、かえって息が詰まっちまう!」
ハイネルの動揺も知らずに、グーデリアンは一人、歯磨きを再開し、鼻歌まじりに身支度を始めるのだった。