volume2



「とりあえず皆聞いてくれ!」

 朝の常として慌ただしく立ち動いていたクルーたちが、ハイネル監督の一言でピタリと動きを止め、彼へと視線を向けた。相変わらず彼の声は凛としていてよく通り、心地よく空気を震わせる。耳に涼しく、心に染みわたる声だ。
 オレは・・・そして恐らくこの場にいる全員が、彼のこの声が大好きだった。彼の声はサーキットにいる時の緊張感をオレたちに呼び起こさせる。


「今日は予定通り、タイヤとマシンのマッチングを見ることから始める。ドライタイヤを装着してテスト走行を10周ずつ行い、タイヤの摩耗具合をチェック。ビル、グレッグ、ポール、チェックデータの準備はできているか?」

「万端です」

「10周ずつのテスト走行を利用し、ピット作業の練習も行う。前回のレースでのピット作業は見るに耐えないレベルだった。スタン!左リヤの装着が他の者より2秒は遅れていた。同じことが何度も続けばどうなるのかは分かってるな?それから給油担当のマイケル、君の動きもあと1.5秒は縮められるはずだ。代わりはいくらでもいるんだぞ!」

「はい!」

「任せて下さい!!」


 スタンやマイケルから立ち上る空気が、にわかに緊張したのが近くにいる人間全員に伝わったことだろう。ハイネル監督はそれ以上は何も言わず、もう一度あの貴石のような緑の瞳ですべての者を等しく見渡した。美しいが、心の柔らかな部分まで容赦なく切り開いてしまいそうな厳しく硬質な輝きを宿した目だ。 


「ではすぐにそれぞれの仕事の続きに戻ってくれ。もうすぐあのバカ・・・我がチームのレーサーも姿を見せるだろうから、すぐにでもテスト走行を始める。ジェフ、君は私と来てくれ。ポールの報告によると、ステアリングのニューデバイスに不安があるそうだ。テストの結果をしばらく見て、必要なら動かなければならないだろう。後はブレーキの様子を見なければ」

「はい。・・・・あのデバイスに不具合が出るとなると、かなりマズイですよね。ブレーキの方も、ジャッキーの運転に耐えられるかどうか・・・」


 オレのつぶやきが聞こえているであろうハイネル監督は、小さなうなづきを返してきただけだった。だが、キレイな弧を描いた眉が寄せられて! いるのを見ただけで、内心彼がこの件について大分憂慮しているのであろうことが分かる。
 周知の事実ではあるが、シュティールはしなやかで優美な外見からは想像もつかないほどドライバーに膂力を要求し、体力を奪い取るモンスターマシンだ。
 もちろん、並外れて体力に恵まれたタフなレーサーであるジャッキー・グーデリアンでさえ、シュティールを走行させるのは楽な仕事ではない。冗談混じりにだが、一度彼があのマシンのことを『とてつもなく嫉妬深い恋人のようだ』と称したことがあった。
 ・・・・あのマシンは、全神経を自分に注いでドライブすることをレーサーに求める。少しでも他に心を移したりすれば絶対に許さず、手ひどい報復を返してくるし、一心に愛を注げばそれ以上の思いで応えてくれる。

 自分だけを愛し、自分だけを見つめ、自分だけに心を砕くように要求してくるマシン。・・・・傲慢で気高く、美しい貴婦人のようだと、ハイネル監督いわくの『野蛮極まりない典型的なアメリカ人』である彼にしては詩的な表現をしてみせたものである。


 だが、彼曰くのその貴婦人は、美しい外見そのままにひどく手入れに気を使わなければならないのだった。少しでもジャッキーの体力的な負担を減らすために、もちろん我々のマシンにはパワーステアリングを組み込んでいる。だが、シュティール自体が特殊な車種のため既存のタイプでは全く合わず、シーズン当初から何度も改良を重ねてはいるものの未だに思考錯誤といったところなのだった。

 今回新しく使用する予定のステアリングデバイスがうまく作用してくれれば、数値上ではかなりレーサー・・・ジャッキーの負担を軽減することができる。だが、逆に言えば・・・・・。



「おいおいジェフ、朝っぱらから辛気くさい顔してんなよな〜。ただでさえお前、顔が『ビッグ・メシー』って感じなんだからさ、せめて表情だけでもニコニコしてなきゃ!」

「うわっ!なんだよジャッキー、お前いつ来たんだ?」

「ついさっき。オレちゃんとアイサツしたぜ?どっかの誰かさんが礼儀にうるさいからさ」


 そう言っていつの間にかオレのすぐ横にまで来ていたドライバー・・・ジャッキー・グーデリアンは、意味ありげな視線を監督に向けた。だが、当然彼は冷たい視線の切っ先を向けただけでさっさと別のスタッフに話しかけ始めてしまったが。


「とにかくジャッキー、早く支度しろよ!もう皆準備万端で待ってるんだからな」

「わーかってるよ。ジェフ、お前だんだんハイネルに似てきたよな。口うるさいったらないぜ」

「ハイネルさんに似てるんなら光栄だね!いいから、早く支度しろ!」


 オレが声を荒げても、もちろんジャッキーは少しも気にした風もなくヒラヒラと手を振ってみせただけだった。全然焦った様子もなく足を向けた先は、当然のようにハイネル監督がいる所だ。
 彼はとにかくハイネル監督が目に入ると近寄って声をかけずにはいられないという習性を持っているのである。・・・・わざわざオレが言わなくても、とっくの昔に皆知っているだろうとは思うのだが。

 ジャッキーはずかずかと後ろからハイネル監督に歩み寄ると、いきなり背中から抱きついた。抱きつくというよりは、子供が母親の背中におぶさったという方が近いだろうか。
 


「ういーっす。ハイネル、何朝から眉間にシワ寄せてんの?そんな顔してたら消化が悪くなるし、せっかくのかわいい顔も台無しだ」

「グーデリアン!!私は元からこんな顔だ、ほっといてもらおう!大体、お前のせいで私はいつも険しい顔をしていなきゃならないんだ。重い、離れろ!」

「これからがんばってマシンテストをこなそうっていう自チームのレーサーに、そんなに冷たくしていいのかな?」

「うるさいっ!お前はちょっとでも甘くするとすぐつけあがるからな、これ位でちょうどいいんだ!」

「そうかそうか、皆見てるから恥ずかしいんだな。照れ屋だもんな〜ハイネルは。遠慮しないで『がんばってねのキス』をしてくれてもよかったのに!」

「グーデリアン、貴様・・・・マシンの事故ではなくて、私に殺されて死にたいらしいな!」

「ていうかお前、オレはマシン事故でだって死にたくないっつーの!勝手に殺すな!」


 初めのうちはこんな二人のやりとりにいつケンカになるものかといちいち肝を冷やしたものだったが、1ヶ月もするとすっかりみんな慣れてしまった。監督と共に仕事をする必要があるオレはともかく、他のスタッフはすでに見向きもせずに自分の仕事に没頭している。若いチームではあるものの、ある意味我がチームほど『プロフッショナル』の言葉がふさわしいチームはないだろう。

 ・・・・・とりあえず、いちいち彼らのじゃれあい 「(自チームの監督とレーサーに対してこの表現はどうかとも思うのだが、実際これしか言葉が思い浮かばない)を見て『いやーっ!ジャッキーとハイネル監督ったら、またあんなに仲良さげにしちゃって!写真撮りたい、写真!あとビデオ!!』・・・・・・・・と、騒ぎ立てるようなオンナの子は、残念ながら我がチームでは募集していないので悪しからず。
 この一文でかなりガッカリしたオンナの子もいるのではないかと思うが、まぁ実際問題、こんなのは三度の食事よりも自然で頻繁に行われるものなので、いちいち反応しているようでは仕事にならないのである。




 そんなこんなでほとんど儀式と化してでもいるかのようなやりとりを経た後、ようやく無事レーサーがコクピットにおさまり、テストが開始されることになった。
 ここイギリスに我々が構えているテストコースは、基本的にストップ・アンド・ゴーと呼ばれるレイアウトになっている。つまり、長いストレート区間の次には複雑な複合カーブ、またストレート、再び連続コーナーという構成になっているのだ。
 レースにうとい女性ファンのためにカンタンに解説すると、ストレート、つまり直線区間では当然アクセルを深く踏み込むことになる。これがいわゆる『GO』の状態だ。だが、連続コーナーにさしかかると、コーナーを曲がり切るためにブレーキをかける必要が出てくるので『STOP』。
 ストップ・アンド・ゴーサーキットと言ったら、マシンを全開(とも限らないのだが)で走らせる区間と、コーナー処理をしなければならない区間が次々に襲いかかってくる、マシンとドライバー、ついでに言えばメカニック泣かせのコースなのである。
 ストレートの状態から急にコーナーに入ると、それだけ急激にブレーキをかけなくてはならないので、こういったレイアウトのコースではブレーキの摩耗が激しい。御存知の通り、ジャッキーは荒々しい運転をするので(それが彼の魅力でもあるのだが)なおさらだ。

 今回のテストでは、新しく試すステアリングのデバイスとブレーキの摩耗状況、この二点にオレは注目することになる。



 
「グーデリアン、シュティールの調子はどうだ?」

『万全だね!・・・と言いたいとこだけど、やっぱりステアリングが重いぜ?新しいデバイス、実はあんまりうまく組み込まれてないんじゃないのか?』


 兼ねてから懸念していた通り、テスト走行わずか三周目にしてジャッキーからステアリングに関する思わしくない報告があった。詳しいことは企業ヒミツ・・・というよりはチーム内極秘情報なので漏らすことはできないが、CFともなればマシン走行時に確認することのできるデータは相当なものとなる。
 その数値を見ても、新しく設置したはずのステアリングのデバイスは全く功をなしていないようだった。

 監督は自分の周囲に氾濫している様々な情報を次々と目に入れていくと、焦らず、落ちついた声でドライバーに語りかけた。


「グーデリアン、もう少し具体的な情報が欲しい。第二と第四、どちらのセクションの方が重く感じる?」


 しばらくジャッキーからの返答はない。恐らく一周そのあたりを意識して走ってみるつもりなのだろう。今走行は六周目に入ったところだ。
 そろそろピット担当が動き出す頃である。朝監督に声をかけられたスタンとマイケルは緊張のために青褪めてさえいるようだった。給油担当のマイケルなど、ホースを持つ手が震えている。・・・・・少しはリラックスした方がいいんじゃないかと思うんだが。
 こんな時には、年嵩で明るいヒルさんがうまく声をかけて緊張をときほぐしてくれるのが常だったのだが、あいにく彼は今問題となっているステアリングのデバイス情報をマシンに組み込んだ張本人なのでそれどころではない。
 ・・・・代わりに、オレが何か彼らに声を・・・。


「ジェフ!」

「は、はいっ!」

「他人のことに構っている場合か!自分の仕事も満足にこなせない人間が余計なことをするな。グーデリアンが第四セクションにさしかかったところだ、グーデリアンの腕にかかっている負荷のデータをすぐにチェックしろ!」

「すみませんでした!」


 オレは慌てて言われた通りの仕事をする。
 ・・・・・ハイネル監督は、まるで背中にまで目がついているようだ。何度経験してもそのたびにドキリとさせられる瞬間でもある。




『ハイネル!』

「聞こえている」

『第四の方が感じが悪い!コーナーに飛び込むまではいいんだ、だけどそれからの切り替えがスムーズにいかない。こう・・・』

「分かった。ピットインまであと三周だ、その調子で走っていてくれ!ヒルさん!恐らく速度に対する切り替えの部分がうまくいっていないのでしょう。そちらのデータを洗ってみてくれますか」

「アイ・アイ!!」


 ピットに立っている時のハイネル監督は、凛と背筋を伸ばしているせいかいつにも増して長身に見える。
 ジャッキー・グーデリアンはあの通り非常にアグレッシブでワイルドな走りをし、レーサーであったフランツ・ハイネルとは対照的だ。
 それでも、こうしてピットとサーキットに分かれていても、彼らの精神は目に見えない何か非常に強いもので結ばれているのではないかと思わずにはいられない。

 長い時を共に過ごしていれば、経験によって言葉では伝えきれないものを伝えられるようになるのだが、ジャッキーと監督はまだ手を結んで一年も経っていないのである。
 何もかも違うように見えて、あの二人には不思議に似通ったところがあるように思えて仕方がなかった。

 




続きに進む
HOMEに戻る