冬/20歳 1


 ベルトラの町を、冷たい冬の風が通りぬけるようになった。背後にある山々は雪とともに氷を抱き、流れる川もやがて氷結するだろう。
 常緑樹をのぞいた木々は葉を落とし、寒々とした姿をさらすことになる。まだ雪は降っていないが、そう遠くない内に天からそれが訪れるだろうと誰もが思っている季節。
 司祭は、今ミサを執り行っていた。カトリックのそれほど形式ばったものではないが、基本的な流れはディーヴァのそれもカトリックと同じである。
 ハイネル司祭は最後の『奉献の儀式』にのっとり、聖杯に血の赤さをもつぶどう酒を注ぎこんでいた。

「これは契約の血である」

 白く整った顔の、ひときわ目をひく緑の瞳をふせ、司祭はよく響く声を発した。

「これはあなた方と、すべての人々の罪を赦し、清めるための契約の血である」

 ディーヴァ教では、『アーメン』の代わりにヴィルツァ、という言葉をつぶやき、胸で複雑な印を切る。
 白く細い指が、黒い司祭服によく映えた。
 最後に、信者の一人一人に聖体を与えているとき、ハイネルは少女の存在に気づいた。
 初めて少女が告解室を訪れてから、三年の月日が流れている。
 グーデリアンは、もう二十歳になっているはずだった。
 ハイスクールを卒業した彼は、山あいのベルトラの町から少し下った大きな町にある大学に進学しており、そこに下宿している。距離はそれほどないとはいえ、あまり頻繁にはベルトラに帰ってきていないようだった。
 そんなことさえ、いまのハイネルは人づてに聞いているだけだ。
 そうして、ハイネルの元を訪れなくなったグーデリアンの代わりというわけではないが、この少女が頻繁に教会を訪れるようになっていた。
 少女とは言っても、グーデリアンとそう変わる年齢ではないので、もう二十近くにはなっているはずだ。けれども、華奢な体のつくりや、柔らかで華やかな話し方や笑顔が、彼女を少女のように見せていた。
 ハイネル司祭に、彼女はマリア、と名乗っていた。
 その日も、ミサが終わった後の告解室にマリアは来ていた。
 罪を告白し、神に赦されるための場であるはずのそこで、彼女は決して自分の罪を口にしようとはしなかった。
 いつもと同じように彼女はゆるされないことをしている、と告げる。
 いつもと同じようにハイネルはその罪を問うが、彼女は答えない。答えず、ただ聞いてほしかったのだと言う。
 罪を告げることのできない彼女に、司祭はただ祈る。一心に、彼女のために。

「司祭様、お願いがあるんです」

 告解室を出ると、めずらしく彼女が頼みごとをしてきた。何となく彼女にたいして親しみを覚えているハイネルは、優しい表情でうなづく。
「私、下の町の大学に通ってるんですけど、今度司祭様に講演を頼みたいんです。来てくださいませんか?」
 少女の澄んだ瞳に、ハイネルはためらいを感じた。
 そこにはグーデリアンがいる。
 けれど、彼はもうそこで新しい生活を送っているはずだ。幼い頃、ほんの少しだけ興味をひかれた一教区の司祭のことなど忘れ、毎日を過ごしているはずだった。
 ハイネルは内心の逡巡を押さえつけ、ぎこちない笑みを少女にかえした。
「わかった。あまりうまく話せるとは思えないけれど、それでもよかったら」
「よかった」
 彼女はほっとしたように笑顔を浮かべた。明るいけれど、彼女の笑みはどこか控えめで優しい。まるで本当にマリアのようだと思わされるほどだった。




 マリアとグーデリアンの通っている大学は、ベルトラの町から車で二時間ほど下った所にあり、総合大学であるために広大なキャンパスを誇っていた。
 ハイネル司祭とマリアは、講話が終わって一息つくために、キャンパスを通ってカフェテリアに向かっている途中である。
「すみませんでした。司祭様にせっかく来てもらったのに・・・講話のしがいがなかったでしょう?」
 申し訳なさそうに言う彼女に、ハイネルは苦笑まじりの笑みを向けた。彼女をなぐさめようにも、たしかに講話のしがいはなかったと言わざるをえない状況だったのだ。
 もっとも、いまどきの若者に宗教に関する興味があるとはそれほど思っていなかったので、講堂に詰めかけた学生の少なさにはハイネルも驚きはしなかった。それどころか、講話を聞きにきた生徒の数こそ少なかったものの、彼らの大半はハイネル司祭に多大なる興味をひかれたようなのである。
 本来、宗教離れして久しい学生たちの興味をひいたという点では喜んでいいはずなのだが・・・実のところ、彼を一番閉口させていたのは、学生たちのそんな旺盛な好奇心だった。
 つまり、彼ら学生たちの興味は、ディーヴァ教なる宗教などではなく、若く端正な容姿の司祭にあったのである。講話が終わったとたん、『おいくつですか?』『恋人いるんですか?』果ては『ディーヴァ教って、信者獲得のために、司祭のルックスの審査基準でももうけてるんですか?』ときた。
 あわてて彼ら、彼女らの間をかいくぐり、マリアのもとへたどりつけば、背後から『なんだ、やっぱり彼女くらいいるよな』『当たり前でしょー、あのルックスよ。司祭様って言ったって人間だもん。遊びたくもなるわよ』などという、傍若無人な言葉の数々が投げつけられる始末だ。
「ほんとに、すみません」
 心底申し訳なさそうに言うマリアに、ハイネルはこちらこそ、と謝った。
「私の恋人にまちがわれてるみたいだから」
 と言えば、彼女はにっこりと笑ってみせる。
「司祭様の恋人にまちがわれるなんて光栄だわ。司祭様には悪いけど、この講演を企画して得をしちゃったかもしれませんね」
 細い肩をすくめておどけてみせるマリアに、ハイネルもようやく心からの微笑を浮かべることができた。
 彼女といると、本当に心が落ち着く。堅苦しくて生真面目で、あまり人になじむ方ではない自分も、彼女のそばにいると本当にリラックスできるのをハイネルは知っていた。
 もちろん、それは恋愛感情ではなく、家族や心を許せる友人と共にあるときの心持ちである。だが、司祭という特殊で神聖な職についているハイネルにとって、マリアのような人が得がたい存在であることに間違いはなかった。
 彼女も、ハイネルとともにいることに安らぎを感じてくれているらしい。
 ハイネル司祭にとって、マリアと名乗った彼女は、出会った三年前から変わらず、そばにいるだけで心が休まる存在だった。
「司祭様、私、ほんとに司祭様に悪かったと思ってるんです。ディーヴァ教の聖地であるベルトラに赴任になったくらいだから、とっても有能な司祭様のはずなのに、皆はなんにもわかっていないから」
 彼女のなにげない言葉に、一瞬司祭の表情がこわばる。右手は無意識に左手の二の腕あたりをさすらっていた。
 けれど、その数瞬後には、彼はいつもの穏やかな顔をして、自分よりもずいぶん小さな彼女を見るのだった。
「・・・ベルトラは高地にあるから、聖地とは言えふだんは人の訪れが少ないんだ。私は見ての通り、講話は不得意だし、人の相手にも慣れていない。だから、たまたま私が派遣されただけなんだ」

「違うわ」

 予期せぬ言葉に、いつのまにかうつむいていた彼の顔がまたあげられた。彼女は司祭の数歩前に立ち、こちらを見ている。
 風が彼女の髪を柔らかくかき乱していた。もともとはブルネットに近い髪が、逆光を受けて金褐色に輝いている。その暖かな色彩がある青年のことを思い起こさせて、ハイネルはわずかに目を細めた。
 彼女の目は淡い緑だ。春の若草の色だ。深く、硬質な輝きを宿しているハイネルのエメラルドグリーンの瞳とは異なっていたが、優しく、心穏やかにさせられるような色合いだった。
 彼女を・・・ほっそりとした少女のシルエットを司祭は見つめつづけている。彼女はきっと、これからどんなに年を重ねていっても今のような少女らしさを失わないのだろう。
 初めて出会ったときから、ハイネルにとって彼女は自分が守るべき少女だった。・・・たとえ、時には逆に、自分の方が彼女から守られているような感覚を彼が受けていたとしても。

「司祭様。あなたは何かに迷ってるのね」

 彼女は言った。見つめていると心温まるライトグリーンの瞳は逆光にさえぎられてよく見えなかったが、彼女の目に心まで見透かされそうだった。

「初めて告解室で司祭様の目を見たとき、何て綺麗な目をしてるんだろうって思ったんです。そして、いつも真っ直ぐにこちらを見つめてくる。あんまり真っ直ぐな視線だから、罪を抱えている私には、ときどきその目がまぶしかった」

 そういう彼女の瞳こそ、あまりにも汚れなく、こちらの罪を見透かされそうだと司祭は思ったが、それは言葉にならなかった。

「でも、私は気づいたわ。あなたのその綺麗な瞳には、ときどき、とても悲しい色が宿っている」

 司祭はそっとまぶたを伏せた。彼女の声は柔らかく、細く、だが岩をも貫く水滴のように、彼の心を穿った。

「あなたは、私が告解室で懺悔をすると、神様がすべてを赦してくださるから心配しなくていいっていつも言ってくれる。でも、その言葉があなた自身に向けられているように私には思えるんです。ほんとうに赦してもらいたがってるのは、あなたなんじゃないかって。救いを求めてるのはあなたなんじゃないのかって・・・」

 思いもかけない言葉に、司祭は反論の糸口さえ見失った。自分の肩ほどしかない少女の姿が、やけに重く自分の心にのしかかってくる。
 喉がかわき、反論できないのは図星をさされたからではないのかと、疑う理性さえ彼には残されていなかった。
「私は・・・ただ・・・」
 乾いた口を開き、困惑しきった顔でいる司祭に、彼女の表情がふいに柔らかさを取り戻した。
「ごめんなさい。こんなこと言える立場じゃないのに。私、いままで一度も自分の罪を告白できたことさえないの、あろうことか司祭様に意見めいたことまで言って」
「いいんだ」
 小さいが、きっぱりとした言葉が彼女をさえぎった。
「私は司祭だけれど、いつも心に迷いがある。その事実に、さらに惑ってしまう。本当は、聖地ベルトラどころか、一教区の司祭にさえふさわしくないんだ」
「そんなことないわ!」
 ハイネルは胸に小さな衝撃を感じた。マリアが飛び込んできたのだ。
 彼女は、細身のハイネルでさえ容易に包み込めるような、そんな体をしていた。
「司祭様、私はゆるされないことをしているけれど、そしてその罪を口にのぼらせることさえできない臆病者だけれど、教会に行って司祭様の姿を目にしただけで、それだけで自分の罪が赦されるような気になれるんです。司祭様でなかったらダメなの!私はいつも、神様ではなくて、司祭様に会いに行っているんです!」
 小さな肩がわずかに震えていて、司祭はそこにそっと両手を落とした。

「ありがとう・・・」

 ぽつりとつぶやき、彼はその華奢な体をそっと抱き寄せた。少女は目をふせ、細い両手を司祭の背中にまわす。
 柔らかく、力を入れれば折れてしまいそうな体だったが、彼女の感触がハイネルにいいようのない充実感をもたらした。彼女の体が何か神聖なものであるかのように、司祭はいつまでも優しく彼女を抱きしめつづけていた。


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