夏/15歳 2
自分が発してしまった不意の一言にかなり打ちのめされたのか、珍しく食事中もあまり元気のなかったグーデリアンを、ハイネルは食後の散歩に誘った。日の落ちかかった夕暮れの森のわきを、二人で肩を並べて歩いている。
幼い頃はよくグーデリアンがねだって手をつないで歩いていたが、さすがにこの頃は照れくささが先にたってそんなことはしなくなっていたのだが、今日は軽く手を触れ合わせていた。
ハイネルは先ほどから黙って前を見つめている。グーデリアンは初めて会ったときから何度となくこの整った横顔を見つめてきた。
ただ、グーデリアンの身長が伸びた分、目線の角度が初めて出会ったあの頃とはずいぶん違ってきている。
これからも変わりつづけ、そしてそう遠くはないいつか、自分は彼のこの顔を見下ろすときが来るのだろうとグーデリアンはぼんやりと思った。それは少し胸の底が熱くなるような思考だった。
ハイネルは小さな森の端まで来ると、そこで足をとめた。ここはちょっとした高台になっていて、眼下に人の営みや、自然の河を眺めることができるようになっている。
「私はよくここに来るんだ、グーデリアン」
前を見据えたまま、ひどく穏やかな声でハイネルはそう言った。
ひとつまばたき。それからゆっくりとグーデリアンの方に向き直る。丘から吹き上げる風が、ハイネルの栗色の髪と、それから長い司祭服の裾をなであげる。
今日身につけている司祭服は、黒い生地のものだった。その裾が生き物のようにはためいて彼の足元にたわむれ、なびいている。
斜めに夕日を浴びた白い面に影が落ち、表情はよくわからない。その中で深い色をした緑の瞳だけがはっきりとこちらを見ていた。
「私はよくここに来て、そしていろいろなことを考える」
「いろいろなこと?」
グーデリアンは、自分の声が少しかすれていることに気づいた。そう、と司祭はかすかに答えを返す。栗色の髪が風に揺れ、少しうつむき加減のようにも思える。
何かに憂えているような司祭の姿を見ていて、何だかグーデリアンは彼を抱きしめたくなった。母が自分にそうしてくれるように、姉が自分にそうしてくれるように、抱きしめて、なぐさめたかった。
相手は自分よりもずっと年上の、揺るぎなく自分の足で立っている大人だというのに。
そんなグーデリアンの心情を知ってか知らずか、ハイネルの口調が不意に明るいものになった。
「私には妹がいるんだ」
「妹?」
「そう。私がこの町に司祭として赴任することが決まったときは、私と離れたくないと言って泣いてしまって困ったな」
「今は会ってないの?」
ハイネルは笑顔のままでかすかにうなずいた。会えないんだ、と。
そういえば、とグーデリアンは思う。彼は確かに、この町では一人なのだ。時折教会の使いという人達がやって来るけれど、彼らはハイネルの家族ではない。
ディーヴァ教の司祭は年に数度決められている時以外は家族に会ってはいけないのだが、ベルトラという特別な地にいる司祭には、それさえも許されないのだと、グーデリアンは礼拝堂に来ていたほかの大人にいつだか聞いたことがあった。
神に捧げた司祭の魂が、家族に会うことによって揺れないようにと。
さらには、ベルトラの司祭が、異常なほど長い間、時の束縛から放たれて若さを保つことも関係しているだろう。家族がどんなに年をとろうと、司祭はほとんど年をとらない。かわりゆく家族と、かわらない司祭。会えばきっと平静ではいられないに違いない。
厳しい戒律に縛られ、それでもなおハイネルは神を信じている。家族と会うことを禁じられてさえ、孤独に神を想う道を選んだハイネルの気持ちは、グーデリアンにはわからない。
神を否定する気はもちろんないし、ハイネルの姿勢を潔いとは思うが、彼には遠い存在の神よりも、身近な家族や友人たちの方が大切な存在だった。おそらく、それは彼の幼さの故ではなく、魂の在り方の問題なのだろう。
「私の妹は、お前とあまり変わらない年なんだよ。とても小さくて私によくなついていて、すごくかわいい子だったんだ」
グーデリアンを見つめながら言ったハイネルの言葉は、自分に言い聞かせているかのようだ。
それからまた彼は視線を戻し、丘を吹き上げてくる風に挑むような顔になった。
「ここにいると、妹には会えない。だから、妹のことを思い出すと、ほんの少しだけさびしくなるときがある。それだけなんだよ。ただそれだけなんだ・・・」
自分に言い聞かせるかのように司祭は言った。その細く、だが毅然とした立ち姿を、少年は不可思議な感情とともに見つめていた。
グーデリアンは触れ合わせていた手に力をこめた。司祭の体温は低かったけれど、それでもわずかなぬくもりが伝わってくる。
彼はいつまでもまっすぐ前を見据えつづけ、グーデリアンはそんな彼の横顔を見つめつづけていた。
「オレがいっしょにいるよ」
心から少年は言った。いつか、出会ったころにも言った言葉だった。
「オレがいっしょにいてあげる。会えない家族のかわりに、いつでもいっしょにいるよ。ハイネルがさびしくなんかないように」
その言葉にハイネルが自分の方を向いてくれたのがうれしかった。
風に髪がなびき、美しい緑の瞳が自分を見てくれている。
「オレがいつでもいっしょにいる。おぼえてて、ハイネル。さみしくなったときも、つらくなったときも。オレだけはぜったいにハイネルといっしょにいるから」
「・・・そうだな」
ハイネルはそれしか答えてくれなかったけれど、その唇にはかすかな笑みが浮かんでいた。
翌日、グーデリアンはいつものように気軽に教会をおとずれた。
もちろんハイネルをたずねるためで、裏手の庭に入りこみ礼拝堂へと向かう。
「ハイネル!」
いつものように軽く声をかけようとして、グーデリアンの声が凍りついた。
いつか見た大司教だ。
でっぷりと太った大司教のかたわらには、何か顔色の悪いやせた男もついている。こちらもカソックと呼ばれるカトリック体系の僧者がまとう法衣を着ているので、おそらく司祭か司教あたりなのだろう。
彼らがグーデリアンに気づいた様子はなかった。小声で何か話しているようだ。
グーデリアンの位置からは、ハイネル司祭の姿はよくうかがえなかった。彼のほっそりした背中と、横顔がほんの少しうかがえるだけだ。
グーデリアンは苦手な大司教にでくわさないよう、出なおそうと思ったのだが、ふとハイネルに視線をやったときに、彼の目が大きく見開かれた。
大司教の手がハイネルの教会服に包まれた肩におかれている。
そうして、ハイネルが身にまとっていた法衣を脱ぎ出したのだ。
脱いだ、とは言っても、ほんのわずかに肩が出ている程度だった。だが、薄い闇の中で彼の細い肩はやけに白く、グーデリアンの目を灼いた。
また何かハイネルと大司教が話をしている。
その内容がわからないことがグーデリアンをいらつかせた。わけのわからない思いが胸の中にふきあげている。
ほどなくして白い肩はふたたび闇色の法衣に包まれ、かわりにほっそりした左腕が出された。大司教がその腕をとり、かたわらの顔色の悪い男に顎をしゃくる。やせた男はこっけいなほどギクシャクとした動作でひざをついた。どうやら床においたカバンを取りたかったらしい。
ハイネルはうつむき、むきだしにされた自分の腕を見ているようだ。そこに大司教の顔が近づき、至近距離で何かを口にしている。
大司教の太った手がハイネル司祭の腕に触れ・・・・。
グーデリアンが沈黙を保っていられたのはそこまでだった。
無意識のうちに動揺して体が揺れ、かたわらの机がかすかに音を立てた。音がしたことでさらに動揺した彼の体が大きくかしぎ、ガタンと大きな音を立ててしまったのだった。
「だれだっ!!」
「グーデリアン!?」
大司教の耳障りな声にまじり、ハイネルの声が聞こえた。こちらに背を向けていた彼がすばやくふりむき、目線が合う。
いつもはカソックの長い袖に包まれている白い手と、いつも変わらぬ緑の瞳。そのかたわらにはすらりとした体躯のハイネルには不釣合いな体をした大司教が立っている。
不意にグーデリアンはきびすを返し、走り出した。
自分でもわからない衝動につきあげられていた。
教会を飛び出し、何もかもがわからなくなるほど走り切った彼がたどりついたのは、よく司祭と向かう丘の上だった。
いつもと同じ清涼な風がグーデリアンの髪をなでていくが、彼の心は一向に晴れない。
こんなことは初めてだった。
大司教がハイネルとともにいるのを見たのは初めてではなかった。だが、あれは他人だ。グーデリアンにとって大司教という存在は、まったく面識のない他人のそれと等しい。
その知らない人間といっしょにいたハイネルが、自分の知らない白い肌をさらしていた。
思い出したくもないそんな光景が頭の中によみがえってきて、グーデリアンの胸のうちを熱くする。その感情が何なのか、少年にはわからなかった。
いてもたってもいられないような、もどかしくて強烈な感情だった。
柔らかな金髪はすっかり風にかき乱されている。白いシャツが風にあおられてバタバタと音をたてていた。
そうしてどれほどたっただろう。いつの間にか司祭がやってきていた。
走ってきたのか、わずかに息が乱れ、白い頬にかすかに朱がともっている。
それでも、ハイネルはいつものハイネルだった。大人で、一部の隙もなく冷静な、清廉で迷うこともない司祭だった。
「グーデリアン?どうかしたのか?急に走り去ったりしたから心配したんだぞ。大司教が来ている時に勝手に教会に入ってきてしまったから気にしているのか?」
ハイネルの手がグーデリアンの肩におかれた。急に脳裏にハイネルの白い肩と手がよみがえり、少年はぎゅっと目をつぶった。頬がカッと熱くなっているのが自分でもわかる。
ハイネルが触れているところだけが、熱をもっているようだった。
「大司教のことなら、気にしなくていいんだぞ。あの方も、子供のしたことだからと全く気にした様子がなかったし・・・」
「子供じゃない!!」
はじかれたように肩におかれた手をはねのけ、少年は顔をあげた。
司祭が驚いたような顔をして自分を見ている。そんな様子を少年は泣きそうな思いで見ていた。
「オレはもう子供じゃないんだ、ハイネル、わかってくれよ!!」
「グーデリアン・・・」
どこか心もとないような声で司祭が少年の名を呼ぶ。この声で自分の名を呼ばれるのが、グーデリアンは好きだった。ほかの誰の声よりも。
そして、ほかの誰よりも自分はこの司祭のことを知っているのだと思っていた。
熱く思考を灼く白い肩と手。胸に渦巻く嵐。
別にハイネルと大司教が何をしていたわけでもない。白い肩はすぐに法衣に包まれて隠れたし、腕を出していたくらいで何を動揺することがあるだろう。
けれど、何か得体の知れない衝動が喉元までせりあげているような気がして、少年はいたたまれずにぎゅっとこぶしを握る。
「アイツ、ハイネルのなんなんだよ!?」
「何って、大司教だ。お前だって知ってるじゃないか」
「オレは・・・!」
「グーデリアン」
司祭に気遣わしげな声をかけられ、気づけばグーデリアンは再び駆け出していた。頭の中によぎるのはハイネルのことばかりだった。いつからこんなに司祭のことばかり考えるようになっていたのか彼にはわからない。
けれど、気づけばいつも思考を占めているのは彼のことばかりだった。
丘を越え、森を抜け、見知った道を駆け抜ける。こうして走っているうちに嵐のようなこの感情も早く自分の中を通り過ぎていってくれればいいのに、と少年は胸のうちで祈るばかりだった。
夏も終わりにさしかかるころ、少年の心には嵐が訪れていた。