春/10歳 2
「そろそろ帰ろうか」
司祭がそう口にすると、グーデリアン少年は口をとがらせた。いつまでもこうしていられないのはわかっているのだが、それでも一緒にいたかった。
ハイネルが別れを告げると、グーデリアンはいつも不満をあらわにする。そうすると司祭はいつも少し困ったような顔をして、それでもほんの少しだけ別れまでの時間をひきのばしてくれるのだった。
「明日は大司教がいらっしゃるんだ。お迎えの準備をしなくちゃならないから、あんまりゆっくりはできないんだが」
「げーっ大司教!?」
グーデリアンは眉をひそめて舌を出した。ハイネルがここベルトラの町に赴任して3ヶ月ほどたとうとしていたが、大司教と呼ばれる人物は二週間に一度ほど、定期的にこの教会をおとずれているようだった。
グーデリアンはハイネルのところに遊びに行った際、一度だけその大司教とやらにでくわしたことがある。とうてい好きにはなれそうもない人物だった。
神の愛を説くはずの大司教は、グーデリアン少年に初めて会ったとき、いきなり値踏みするような視線をおくり、脳にカビのはえそうなお説教をいっせつぶった。
それだけでも十分きらいになりそうだったが、何よりイヤだったのは、彼が出迎えにでたハイネルにむかって必要以上に親しげな態度をとり、あまつさえ彼の肩に手をかけていたことである。
グーデリアン少年にとって、自分以外の人間がハイネル司祭に近づくほどイヤなことはなかった。案の上、少年らしい仕草で頬をふくらませ、さっそく不機嫌さをむきだしにしている。
「オレ、大司教なんて大ッキライだよ!なんかハイネルにベタベタ触るしさ」
「グーデリアンの方がベタベタしてると思うが?」
「オレはいいの!」
言って、司祭の背中に飛びつく。
「オレはいいんだよ。だって、ハイネルはオレのだもん!」
ハイネルは細身ではあるが長身なので、まだ成長過程にあるグーデリアンが彼の首に手をかけるとほとんど背中にぶらさがっている状態になる。
「こら!重い!」
「へへ、いいじゃんか。少しだけ」
グーデリアンの言葉には弱いハイネルは、まだ文句を言いつつも、腕に力を入れてグーデリアンを背負ってくれた。ハイネルの背中と密着し、彼の暖かさが少年に伝わる。
ハイネルの首筋に頬を押しつけ、少年は目を閉じる。
司祭の白い面は清く整い、一見冷たそうだが、押しつけたグーデリアンの頬に司祭のほのかな体温が伝わっていた。首にまわしたグーデリアンの腕にも、彼のさらさらとした髪がわずかに触れている。
こうしていると少年は心の底から安心できた。何からも守られている気になれる。
そんなことをハイネルに言えば、きっと『神の加護だ』という答えがかえってくるんだろうな、と思い、瞳を閉じたままで少年はくすりと笑った。
グーデリアンにとっては、目に見えない神さまよりも、目の前にいてくれるハイネルの方がよっぽど大切な存在だったのだが、そんな単純でカンタンなことがわからないハイネルのことが、彼は大好きだった。
「グーデリアン・・・ほんとにそろそろ帰らないと・・・グーデリアン?眠ったのか?」
優しい声が自分の名を呼んでいたころ、グーデリアン少年は暖かな幸福に包まれ、司祭の背中でかすかな寝息をたてていた。
細い指が、やわらかなグーデリアンの髪をそっとすいていく。夢の中にいてもその優しい感触が心地よいのか、少年はうっすらと笑みを浮かべていた。
フランツ・ハイネルはディーヴァとよばれる宗派に属する司祭である。ディーヴァはカトリックに端を発する歴史の浅い宗派だが、体系的には母であるカトリックの血を強くひいていた。
ディーヴァの祖であるヨヒアム・ヴェルヘルム卿の生誕の地であるせいか、ベルトラは信仰心の深い人々も多く、休日には教会へ人々が集まる。
だが、しょせんは小さな町なので、それほど大人数にのぼるわけではない。
それに、若い者たち、とりわけグーデリアンのような年齢の少年たちには、さすがに教会は堅苦しさばかりが先にたち、心地よい場所とはいえないようだった。もちろん、教会に足を向ける少年少女たちはめったにいない。
そんな中でグーデリアン少年は、同年代の少年少女の姿が見当たらない礼拝堂のすみにひとり立ち、司祭が口にする言葉を聞いている。
実のところ、幼い彼には司祭の口にする文句の意味などほとんどわかりはしなかったのだが、そんなことはどうでもよかったのだ。
ハイネル司祭の口から発せられる音の粒子が、礼拝堂の清く張り詰めた空気に溶け込んでいく、それがグーデリアンは好きだった。
彼の声は張りがあるけれどもどこかやさしく、ピンと張った空気をふるわせ、やがて大気と一体となり、心地よい余韻をのこして消えていく。
今、司祭は白いおもてを伏せ、瞳も半ば閉じている。そろそろ講和も終わりに近づいているようだ。
どちらかというと年配の礼拝客が多い中、白い司祭服をまとった若い司祭は、どこか特別な存在のように少年の目にはうつった。
透き通った緑の瞳は、礼拝堂の厳かな空気の中では一層映える。だれもが聡明で美しい司祭を誉めることばを口にするのが、少年には自分のことのように誇らしかった。
「すべてのものに神のご加護を」
透き通った声で若い司祭は口にし、この宗派独特の印を細い指でかたどった。一礼して壇上から去っていくとき、彼の足の運びにつれて、くるぶし近くまでもある長い裾が優しくゆらめく。
ふだんの穏やかで静かな表情からはあまり想像がつかないが、彼には確かに侵しがたい神聖さがあった。
いつもは自分が一番ハイネルの近くにいると自負していられるグーデリアンだったが、こんなときにはいつでも複雑な気持ちを味わった。
大勢の人にかこまれ、一際その存在が際立っている司祭にたいする、誇らしさと疎外感が同時にわきおこる。
背の高い大人たちにはばまれて声をかけることもできず、グーデリアンはただ司祭が去っていくのを見送る。
最後に身をひるがえしたとき、彼は不意にグーデリアンを見た。少年はなぜか胸がつよく鼓動を打ったのを感じた。
ハイネル司祭はそっと少年にほほえみかけると、また長い裾をひるがえして教会をあとにした。