冬/20歳 3



 講演から一ヶ月が過ぎた。
 ハイネル司祭は告解室にいる。
 自室のテーブルの上に、告解室で待っているとの旨が記された紙片を見つけたときの驚きと衝撃を、彼は何とか散らそうとしていた。
 ハイネルはこの字に覚えがあった。少々乱雑で、けれど伸びやかな気性がそのままにあらわれた筆記。
 まだ彼が幼かった頃、書き取りの宿題がやり切れないからと、頼みこまれて手伝ってあげたことがあった。その翌日にさっそく教会にやってきて、ズルをした宿題は字体がちがいすぎて先生にすぐバレたと悪びれもせずに笑っていたのが、つい昨日のことのように思い出される。
 あのままで時が止まっていてくれたなら、どんなによかっただろう。
 だが、時は容赦ない速さで流れつづけ、司祭に現実という名の試練をたたきつける。

 いま、告解室には司祭と、そして懺悔をしにきたはずの人間がいた。
 司祭と信者を隔てる扉ごしにさえ、ハイネルは痛いほどの相手の存在感を感じている。
 彼は、何とか司祭としての自分の努めをはたそうとした。激しく惑乱した心情をおさえつけ、何とか平静な声を出そうとしている。
 けれど、だめだった。この相手にだけは、彼は自分を押さえておくことができない。

「・・・懺悔を」

 司祭の声は困惑にかすれている。
「・・・私は神の代理人。あなたの罪を聞き、神に伝え、神はその罪を赦すでしょう。さぁ、あなたの罪を。・・・懺悔を」
 かすれ、かすかに震える声でなんとか司祭は言い終え、告解室はいっとき沈黙に支配された。その沈黙の重さにたえきれず、司祭は眉を引き寄せ、司祭服の胸元を強く握りしめる。
 やがて、見えない相手がかすかに身じろいだ気配を感じた。

「愛してるんだ」

 薄い扉ごしにいる相手は、椅子に腰掛けもせず、口を開くなりそう言った。迷いのない、まっすぐな言葉だった。その言葉は厚い壁が阻もうと容易にすりぬけ、空気を切り裂いて司祭の元に届くだろう。真実の想いがのせられた言葉だから。
 驚愕に瞳を見開き、司祭のひざにかけられた手に力がこもった。仕立てのよい司祭服にしわが寄ったが、そこに意識は注がれていない。
 いま、司祭の全神経は見えぬ相手に向けられていた。見なくても、間違えようのない相手。
「ハイネルを愛してるんだ」
 彼はもう一度くりかえした。
「・・・わかってるだろう。私は司祭なんだ」
「そんなこと関係ない!」
 相手の・・・グーデリアンの声は、グーデリアンが17才だった三年前とかわっていなかった。多少低くなっただろうかと思う程度だ。
 身長は、そして顔立ちはどうだろう。三年前から遠目でしか見かけることがなくなっていたため、ハイネルには分からない。
 けれど、グーデリアンの声を耳にしているだけで、彼がいかに自分の中で得がたい、大きな存在になっていたのかをハイネルは思い知らされた。
「私は司祭だ。生涯の純潔が義務づけられているカトリックと違い、ディーヴァ教の司祭の婚姻は認められている。だが、わかるだろう?これは禁忌だ。赦されないことなんだ!」
「神様なんて関係ない!」
 ハイネルとグーデリアンを分かつ扉。曇りガラス越しに、褪せたグーデリアンの金髪がのぞいていた。
 グーデリアンの声は薄い扉など易々と乗り越え、司祭の心を突き刺す。グーデリアンには容赦がなかった。
 こぶしで殴りつけられ、扉は今にも壊れてしまいそうにきしんで耳障りな音を出す。
「この壁が、ハイネルとオレをへだててるんだ。小さい頃から、ずっとハイネルのことが好きだった。ハイネルはいつでもオレの一番だった。でもオレとハイネルの間には、いつもいやしないカミサマがいて、オレの思いが届かないんだ!」
「神の名をみだりに口にするな!」
「神なんて関係ないって言ったろう!」
 荒々しい口調と動作とともに、司祭と信者を分かっていた華奢な扉が、とうとう開け放たれていた。
 突然視界を占めた男の姿に驚く暇もなく、ハイネルは強い力で抱きしめられている。
「今のオレを救えるのは、カミサマなんかじゃない。ハイネルなんだ。ハイネルだけがオレを救えるんだ。ハイネルを愛してる。オレはカミサマなんかじゃなくて、ハイネルに愛されたいんだ」
 強い力で抱きすくめられながら、ハイネルはなぜかマリアの華奢な姿を思い浮かべていた。神ではなく、司祭である自分に会いにきたと言ってくれた少女。
 グーデリアンの腕の強さと熱さを感じて、ハイネルは強烈に心をゆさぶられていた。
 司祭として、神への信仰がゆらいだわけではない。依然としてハイネルの中には絶対の存在に対する深い畏怖と信頼の念があった。
 ゆらいだのは、肉をもつ人間としての、もっと生々しい感情の部分だった。ただ一人の相手の肉体と心、そのすべてを欲する、わがままで生々しく、だが真摯で切実な感情。

「私は、私は司祭なんだ・・・」

 いつのころからか、グーデリアンのこの上もない青い瞳が怖くなっていた。その瞳にこめられたグーデリアンの思いではなく、その瞳にひきこまれそうになる自分自身の心の揺らぎが怖かったのだ。怖かったのは、グーデリアンではなく、自分自身の心だ。
 ほかの誰に想いを寄せられたとしても、ハイネルは揺らいだりはしなかっただろう。一人の司祭として、毅然と前を向いたままでいられたはずである。
 でも、グーデリアンだったから。・・・相手がグーデリアンだったから、ハイネルは自分の心を怖れた。
 そしてそのたびに、彼は胸のうちで同じ言葉を繰り返してきたのである。

 私は司祭だ、と。

 最後の砦である言葉をハイネルは繰り返す。三年の間にさらに男らしさを増したグーデリアンは、腕の力をゆるめようとはしなかった。
「わかってるよ。オレが自分の想いを告げることで、ハイネルがどれだけ苦しむかっていうことも知ってる。ずっと迷ってて、でももう自分にウソをつくのはやめたんだ。オレは赦してなんかもらえなくてもいい、ハイネルにそばにいてほしい。ハイネルが欲しいだけなんだ」
 司祭の細い眉が苦痛に寄った。グーデリアンには彼の心の葛藤がよくわかったが、それでも腕を離すことはできなかった。
「神になんて愛されなくていい、赦されなくていい。ハイネル。お前がオレを愛してるのかを知りたいんだ」
 グーデリアンから、いつもの余裕も、明るさも去っていた。
「助けてくれよ、・・・オレを救えるのは神じゃない。ハイネルだけなんだ」
 司祭の眉がさらにきつく寄り、その後、ゆっくりと彼は瞳を開けた。

「・・・」

 司祭の唇から、乾いた声でディーヴァ教の神の名がつづられる。ハイネルにとって、何よりも重い名だった。それから、心の中で、別の名を。
 その後、司祭服に包まれた体が、強くグーデリアンの体を抱きしめた。
「グーデリアン。私は、私はお前が・・・」
 かすかな声が、名前の後につづく。
「・・・お前が好きなんだ」
 司祭が口にした大罪に、グーデリアンはきつく彼を抱きしめかえした。
「グーデリアン、私は司祭なんだ。司祭なのに・・・」
「いいんだ、ハイネル。大丈夫だよ」
 グーデリアンの声は、泣きたくなるほど優しい。
 どちらからともなく唇が寄せられ、グーデリアンの手が司祭のカラーにかかる。
 かつて少年だった青年の手がその白い肌を暴いていっても、ハイネルは止めはしなかった。
 そうして時折、司祭は青年の名を呼びかける。
 身にまとった司祭である証がすべり落ちていくのを目にしながら、彼はもう一度目の前の青年の名前を呼ぶと、きつくしがみついていった。


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