ポストカードと水曜日
コンピュータを前に、ハイネルはもう何度めかのため息をついている。
外はいやになるくらい快晴だった。雲ひとつない、という言葉はまさにこの日のためにあると言ってもいいくらいだ。
風は涼しく、空気は清涼。遠くには鳥の声も聞こえているし、わずらわしい喧騒もここには届かない。
まったく完璧だ。仕事に没頭するにはまたとないほどの環境。・・・・完璧すぎて、どこか落ち着けないでいるほどに。
気がつくとキーボードを叩く手が止まり、視線がパソコンの画面ではなく窓の外に向いている自分に気づいて、ハイネルは小さく息を吐き出す。
秋の深く澄んだ青い空は、彼にとってもっとも思い出したくなくて、それでも真っ先に頭に浮かんできてしまう男のことをいやでも思い起こさせた。
「もうこんな時間か。少し休憩を入れた方がいいな」
能率もあがらないし。そう一人ごちてハイネルはコーヒーを入れに立ちあがった。またため息が口をついてでたけれど、それには気づかないフリをしたまま。
ほんとうは、ため息どころか、この美しい秋の青空にふさわしいすがすがしい気分でいられるはずなのだ、とコーヒーを飲みながらハイネルは一人思う。
なぜなら、いつもいつも自分にまとわりついてくるあのうるさいジャッキー・グーデリアンが故郷のアメリカへと里帰り中だからである。
アメリカへはスポンサーとの謁見も兼ねて行っているので、完全なオフというわけではないのだが、つい先日までサーキットでテストランを繰り返していた身にはちょっとした休暇のプレゼントとなっているに違いない。
そうして、レーサーがいてもいなくてもマシンの整備に関する入力・テストを繰り返し、休む暇もないフランツ・ハイネルは、こうしてアメリカの空から遠く隔たったドイツのホームサーキットでため息をついているというわけなのだった。
アメリカに里帰り中のグーデリアンからは、ちょっとした合間にハイネルの元へと連絡が入った。ある時は電話で、ある時はメールで。
グーデリアンからの連絡はいずれの時も唐突で、しかもホテルのメッセンジャーのように一方的に話すとさっさと会話や通信を終えてしまう。
風のようにとらえどころのない彼が残していったメッセージを受け取った後のハイネルは、いつも何かしらの安堵と、かすかな胸の苛立ちを覚えるのだった。
『ハーイハイネル、元気かぁ?(中略)せっかくだから、明日は乗馬にでも行こうと思ってるんだ。ハイネルは今日もマシン相手ににらめっこか?がんばりすぎて、ぶっ倒れない程度にしてくれよ』ガチャン。(電話の切れる音)
『いまダチんとこにいるんだけど、そこのPC貸してもらってるんだ。お前のファンらしいから、今度サイン書いてやってくれよ。会わせてくれって頼まれたけど、ダメ出ししといた。お前にちょっかい出しそうだったから』
メッセージ終了。
以前、ハイネルはグーデリアンに、『どうしてこんなことを、いつもお前はわざわざ私に伝えて来るんだ』というようなことを聞いてみたことがある。
そうしたら彼は『何をしててもすぐにハイネルのことが思い浮かぶから伝えたくなるんだ』とアッサリと言ってのけた。
そこでハイネルはかすかに赤くなった頬をぶっきらぼうな口調で隠し、『なら、なんでいつもあんなに一方的で、しかもあっさりしてるんだ』と切り返してきた。
ハイネル自身は気づいていなかったのかもしれないが、その口調と表情はどこかすねているようでもあったので、グーデリアンはそんな彼がかわいくて仕方なくなってしまい、ついからかって余計にハイネルの怒りを買った。そんなこともあった。
『離れてる時にあんまり長いことハイネルと話したり、メッセージ送ったりしてると、よけいに゛ああ、いまオレってハイネルと離れてるんだなぁ゛って実感してサミシクなっちゃうんだよ』
グーデリアンは澄んだ青い瞳をまっすぐにハイネルにあててそんな風に言った。
それはウソだ、とハイネルは思う。あの男は誰にでも好かれているし、軽いし、どんな場所にいても不思議と周囲になじんでしまう。
自分と離れているときはその場の美女、あるいは気の合う仲間たちと好きなようにふるまって、自分のことなど思い出しもしないに決まっている。ましていまヤツがいるのはアメリカ。あの男のホームグラウンドだ。きっと何人もの美女か家族とともに楽しくよろしくやっているに違いない。
そうだ、私のことなんか、思い出しも・・・・。
そこまで考えて、ハイネルはふと悲しくなった。そんなことを考える自分自身が。
自分の右手には、いつのまにか冷め切ったコーヒー。目の前にとっくにスクリーンセーバーに画面が切り替わったパソコン。そして、脳裏にはあの男が。いつもいつもあの男がいる。そのことに気づいて、ハイネルはさらに悲しくなった。
窓ごしには秋の空。ドイツは冬がくるのが早く、長い。こんなに気分のいい青い空はもう当分見られないだろう。こんなにいい日なのに、自分はなんでこんなにわけのわからない感情にふりまわされているのだろう。
ピッ。
どれくらい窓の外を眺めていたのかはわからないが、メーラーの起動音がしたのに気づいてハイネルは画面を見た。ファクトリーには直接つながっているし、必要のあるものにはいつでも通信を入れてもらえるようにしてある。マシンのことで何かあったのだろう、と思ったハイネルの緑の瞳に映ったのは、鮮やかな青い空と、みずみずしい緑だった。
「なんだ、これは?」
どう見てもこの辺りではない景色だった。どこか傾斜の緩い丘陵地帯だろうか。思わずハイネルがそこから目を離せなくなってしまったほど美しい情景だった。頬をなぶる風の感触さえも伝わってきそうだ。
それから画面がかわり、今度は文字らしきものが目にはいる。
ポストカードだ。
どうやら最初の景色はポストカードの写真の面だったらしく、今度は文が書かれている方の面が表示されているらしい。宛名の部分には自分の名があった。そして、半分あたりで線がはいっており、その下のメッセージを書き入れるスペースにはたった一言、こう書かれていた。
『I’m home!』