This is not enough.


「それで最近調子はどうなのかね」

 父に問われ、フランツ・ハイネルは口元に運んでいたコーヒーカップをテーブルに戻し、胸襟を正した。
 ハイネルの父はドイツ、いやEU屈指のオートメーカーにしてコングロマリットの社長である。即ちハイネルは世界に冠する巨大企業の社長令息ということになる。
 ハイネルの父は彼にとってよき父であるには違いなかったが、同時にこの世で最も気の抜けない相手でもあった。
 彼の父は決してビジネスに私情を挟まない。それは何十、何百万人もの従業員達の命運を担う者に最低限求められる資質でもあるのだろうが、子煩悩であることと一企業人であることは彼の中では何ら矛盾するものではないのだろう。

「全て順調です。資金面では・・・正直言って今の段階では厳しいものがありますが、必ず私は自分のチームを立ち上げてみせます」

「そうか。まあ、今回の件はお前に任せると言ったな。一度口にしたからには私も自分の言を守ろう。CFで走りたいと言われた時も肝を冷やしたが、S.G.Mを抜けて自らの手でチームを持ちたいなどと・・・お前は祖父に似たのかもしれん。フランツ。父である私の口から言うのもなんだが、お前は頭のいい男だ。能力も十二分にある。一度自分の納得のいくまで好きなようにしてみればいい」

「ありがとうございます」

 フランツ・ハイネルは母からの血をより濃く受け継いでいるので、父親と似通った面はほとんど見受けられない・・・・表面的には。だが、ドイツ人らしい質実剛健さを美徳とする気質、勤勉で実直な性格、時として頑固だととられかねない、信念を貫く頑ななまでの意志の強さ、彼らは内面に驚くほど共通する気質を備えている。


「フランツ。お前は新しいプロジェクトではレーサーではなくデザイナー、あるいは監督の任に専念するつもりだと言っていたな。ドライバーにもう目星はついているのか?」

 ハイネルのコーヒーカップにかけていた指が震えた。だが、わずかなその変化に彼の父親が気づいた様子はない。
 ハイネルの瞳は目もさめるような鮮やかなグリーンだが、父の目は青みがかった灰色をしている。ハイネルの一瞥は錐のように鋭く、対象者を刺すような強さで見つめるが、父親のブルーグレイの瞳は相手の内面まで潜り込んで全てを探ろうとする目だ。絶対的な畏怖を感じさせる目だった。

「数名候補にあげています。が、どのドライバーもまだ検討段階にあるため、実名をあげることはできません」

「足場を踏み固めるまでは口を開かない・・・か。お前らしいな、フランツ」

「憶測や願望で口を開くほど愚かなことはないと私に教えてくれたのはあなたです」

「これはやられたかな。優秀な息子を持てて、どうやら私は幸運だったようだ」


 口元を緩め、つかの間親の顔に戻った父を見つめながら、ハイネルはゆっくりとコーヒーを口元に運んだ。最上級のコロンビアンコーヒーは、もはや苦味ばかりが舌を刺激する。


「それにしても、また少し痩せたんじゃないか、フランツ。夢中になると周りが見えなくなるのは血筋だろうが、体を壊しては元も子もない。自愛なさい。今日も体調が優れずに午前中のミーティングを欠席したそうだな」

「はい。・・・・すみませんでした」

「いや、責めているわけではないよ。お前を心配しているんだ。頑張るのもいいが、もっと体を労わるといい。これでも親として心配しているんだ」

 
 わずかな笑みを口元に浮かべて答えに変え、ハイネルはもう冷めつつあるコーヒーを再び口に含んだ。既に苦いばかりとなった液体が刺激となり、彼にある記憶を呼び起こさせる。ほんの二時間ほど前の記憶だ。
 端然とした、清潔そのものの佇まいで厳格な父に対峙しながら、ハイネルはコーヒーの苦味をのがすかのようにうつむき、まぶたをそっと伏せた。
 








 時を遡ること十二時間前。
 スーツからもタイからも彼に付随する全ての重責からも解放され、フランツ・ハイネルはジャッキー・グーデリアンと抱き合っていた。


「ハイネル、遅かったな」


 珍しく待ち合わせの時間よりも30分以上遅れてきたハイネルを咎めるでもなく、グーデリアンはうれしそうに笑ってホテルの部屋へと彼を招き入れた。

 ダウンタウンの外れの、更に裏通りに面したホテルの一室。立地条件も設備も対応も決していいとは言えない場末のホテルに、仕立てのいいシャツやスラックスに身を包んだハイネルの姿はいかにも不釣合いだった。
 これでも髪は下ろし、装いも彼にしてはラフなものに抑えてきたのだが、彼の体には既に上流階級の者だけが持つ匂いがしみついている。

 育ちの良さという点のみを鑑みれば、決してグーデリアンもひけをとっているわけではないはずだ。彼の両親は全米最大の規模を誇るマーケットチェーンのオーナーである。
 だが、生来の性格なのかそれとも後天的にそういった資質を身につけたのか、グーデリアンはどんな条件下にあっても不思議とその場の空気に溶けこむ術を心得ている。
 知らないものが見れば、ありふれたTシャツとジーンズに身を包んだ彼が、年間数千万ドルを稼ぎ出すトップレーサーであるとはにわかに信じがたいだろう。

 二人が逢瀬を重ねるのは、いつもこういった人目につかない場所だった。誰も彼らのことを知らない、普段彼らが属している世界から遠く隔たった場所。
 そうでないとハイネルが安心できないからだ。


「髪、下ろしてきたんだな」

「じゃないと目立つだろう。ただでさえ貴様は悪目立ちするからな」

「そうしてると感じが随分変わるな。かわいいよ」

「うるさい。余計なことを言うのが目的なら私は帰るぞ。これでも忙しい身なんだ」

 素っ気無い口調ではあったが、グーデリアンにはそれが照れ隠しにしか過ぎないと十分にわかっていたのだろう。悪かったよ、とちっともそう思ってはいないであろう口調で言い、柔らかな栗色の髪を慣れたような手つきですいた。

「ハイネル」

 二人きりになるといつも、まるでそれが定められた手順ででもあるかのように唇をふさがれる。
 柔らかな唇が自分のそれに触れ、舌が差し込まれるのを感じるとすぐに、ハイネルの体はおもしろい程簡単に体温が上がった。神経が焼き切れそうな熱さだ。
 キスで蕩けきっていたハイネルの意識は、何の遠慮もなくグーデリアンの大きな手のひらがシャツの下に潜り込んできた時点で戻ってきた。

「グーデリアン、先にシャワーを・・・」

「このままでいいよ。後で一緒に浴びよう」

「だ、だが・・・」

「一刻も早くお前が欲しいんだ。明日の朝にはもう発つんだろう?」


 反論をしようにも、既に半ば服は脱がされ、無意識のうちに相手にすがっている格好になっていた。抵抗などできるはずがない。
 
 ・・・・何より、一刻も早く相手の存在を感じたいのはハイネルも同じだったから。





 うらぶれた場所に建つ安ホテルのベッドは、二人の行為に合わせてギシギシと耳障りな音をたて続けている。
 音ばかりが大きくて大して効きもしない空調の排気音とベッドのきしむ音。それから荒い呼吸とハイネルの唇からもれる艶やかな声。
 何度も洗濯を繰り返した、清潔ではあるが古いシーツをハイネルの指が引き寄せ、かき乱し、複雑な皺を生み出している。そらされ、薄っすらと汗の浮かんだ喉元にグーデリアンが吸いつくと、一際高い声が上がった。


「ハイネル。・・・このホテル、壁が薄いんだぜ」


 恐らく、羞恥心の強いハイネルを思いやっての言葉だったのだろう。
 そう声をかけられ、涙のにじんだ目でハイネルはグーデリアンを見上げた。過ぎる快楽をずっと与えられ続けているせいですっかり潤んだグリーンアイズには、普段の彼が持つ知性的な輝きは宿っていなかった。代わりにその瞳に浮かんでいるのは狂おしいほどの熱情である。


「お前が欲しい」

「ハイネル・・・」

「グーデリアン、お前が欲しいんだ」


 言い終えないうちに、ハイネルの体が強くベッドに沈んだ。スプリングが乱暴な扱いに抗議するかのようにきしんだ音をたてる。
 汗ですべる互いの体を強く抱きしめ合い、想いの深さを確かめるかのように見つめ合う。


「誰に聞かれても見られても構わない」

 潤んだ緑の瞳が、言葉よりも深くグーデリアンを欲している。

「今は・・・今だけはお前を私のものにしてしまいたいんだ」
 

 グーデリアンは答えなかった。答えず、彼はハイネルにキスをすると、彼の希望を叶えるために動きを再開した。二人だけが到達できる場所に、二人でいっしょにたどりつくために。





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