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寄せられる唇を避けなければ、と理性は警告のシグナルをしきりと点滅させているというのに、体はまったく言うことを聞いてくれない。
ハイネルはただグーデリアンの青い瞳に見入られたように、彼の唇が近づいてくるのを見つめていた。
キレイな青い瞳。その瞳が自分だけを見つめ、だんだん近づいてくる。
その目を見ていると頭がクラクラとして、自分で自分がわからなくなる。ハイネルは何かから逃れるようにギュッと目をつぶって顔をそむけた。だが、グーデリアンはそんな彼に合わせて顔を斜めにし、さらに唇を寄せてくる。
甘い吐息。
柔らかな唇の感触。
背中に回された腕の暖かさや力強さ。
・・・クラクラする。
頬が熱くなり、頭の中はもっと熱くなっている。体の内側からわきおこってくる得体の知れない熱に呑まれてしまいそうになって、ハイネルは身の内が震えるような感覚を味わった。
夢を見ている時のように思考はハッキリしないのに、『これは現実だ』と知らしめるかのように体の内からガンガン熱が上がってくる。
耳元にグーデリアンの熱い息と声がかけられた。その声は抗いがたい魔力を有しているかのように、ハイネルの体中をかけめぐって圧倒的な勢いで染みわたっていく。
「な、ハイネル。・・・オレと恋愛しようぜ。オレはお前と恋愛がしたいんだ」
どうしてこの世にこんな髪をして、こんな目をして、こんな声をした人間がいるんだろう。
吐息さえ交わりそうな距離で顔を寄せあったまま、ハイネルはぼんやりとそんなことを思っていた。
グーデリアンがこんなに暖かな麦穂のような髪をしていなければ、こんなに真っ青に澄んだ瞳をもっていなかったら、そしてこんなに心の奥に直接突き刺さるような声をしていなかったら、自分はこんなにグーデリアンという人間に意識をとらわれてしまうことがなかっただろうに。
・・・そんなことを。
すると、直前までキスをしていたグーデリアンがちょっと笑い、彼の目尻を親指で優しくぬぐう仕草をして口を開いた。
「ハイネルの目って、ホントにキレイだよな。オレはこの目にやられたんだ」
グーデリアンの言葉は本当にハイネルの心を揺さぶる。ハイネルには自分の信念があって、そのためにどんな人と言葉を交わしていても並大抵のことでは心が揺らいだりしない。
なのに、グーデリアンの言葉だけは彼の心に直接入り込み、かきみだし、どうしていいのか分からなくさせてしまうのだった。
「な?ハイネル。オレがお前のことを好きなように、お前も・・・オレのこと好きだろ?」
・・・抗えなくなる。
ハイネルが無意識のうちにうなづきかけ・・・そこで彼はかえって顔をあげた。キレイな緑の目が見開かれている。
さすがにグーデリアンもそんなハイネルをいぶかしく思い、彼の視線を追って振り向いた。そのとたん、すっとんきょうな声があがる。
「アマンダ!?どうしてここに!?」
「もう!せっかくこっそり近づいて驚かせてやろうって思ってたのに」
アマンダ。・・・その名前にも、そして容姿にも覚えがある。一瞬の驚愕から放たれると、ハイネルは自分の記憶の棚を探った。
アマンダ・ルーズベルト。長くウェーブのかかった赤毛が魅力的な彼女は、グーデリアンが所属しているチーム・スタンピードの広報の一人だ。キャンギャルだと言っても少しでも不思議ではないボディラインを持ち、屈託なく笑う彼女の姿は、サーキットでとてもよく見かける。
何しろグーデリアンはトラブルメーカーなので、広報担当の彼女はそのフォローに忙しいわけなのだ。実際、ハイネルも何度か彼女がグーデリアンと共にいるところを目にしていた。
彼女とグーデリアンは、恋人同士というよりは仲のいい姉弟といった感じでテンポのいいやりとりを普段から交わしており、彼ら自身も『気の合う友人』と公言しているのだが、相手がグーデリアンなだけに、本当はつきあっているのではないかという憶測はいつもサーキット内を飛び交っていた。
そのアマンダが、にっこりと笑ってグーデリアンとハイネルを見つめている。一体どこから彼らの姿に気付いていたのかはわからないが、ハイネルとしては、とにかく彼女が自分たちのバカげた(と、ハイネルは固く信じている)応酬を目にしていなかったように祈るのみである。
その祈りが通じたわけでもないだろうが、彼女がレースを直前に控えたこんな時期のこんな場所で、ライバルチームの二人が共にいることを特に不審に思っている様子はなかった。
「ジャッキー、ハイネルくんといっしょだったのね。道理で私に気付いてくれないわけだわ。ついさっきコンビニにでも行こうと思ってホテルを出てきたの。私はすぐにあなたがいることに気付いたのに、あなたったら全然私の存在に気づいてくれないんだもの。せっかくだからこっそり近づいて驚かしてやろうと思ってたのに、先にハイネルくんに気付かれちゃったわけ。でも、ジャッキーは最後まで私に気付いてなかったでしょ?あいかわらずジャッキーったら、ハイネルくんが絡むと周りが見えなくなっちゃうのね。」
華やかで甘い声が、シャボン玉のように耳元で弾ける。彼女はそこまで彼女独特のテンポのいい語りくちで言い終えた。
「そう言うなよ、アマンダ」
グーデリアンはそう言うと、にっこりと笑ってアマンダの頬に唇を寄せた。
彼女もうれしそうにそのキスを受けている。
右頬。左頬。それから、唇に。
・・・ほんの一瞬ではあるが、確かにグーデリアンの唇はアマンダのそれに重なっていた。
無意識のうちに握られたハイネルの手に力が込められる。頭にのぼっていた血が一気にひいていく気さえした。
あいさつのキスを終えたグーデリアンはアマンダの背に腕を回し、ハイネルの方に再び向き直る。
「一応ハイネルにも改めて紹介しておくよ。彼女はアマンダ・ルーズベルト。オレのチームの広報で・・・・いてっ!!」
グーデリアンの言葉は、途中で甲高い音に遮られた。彼がハイネルに頬を叩かれた音だった。
あまりにも強烈な一撃に、グーデリアンの体がぐらりと大きく揺れる。それほど容赦のない一撃だったのだ。
「バカに・・・私をバカにするなっ!」
興奮のあまり肩で大きく息をつきながらハイネルは叫んだ。唇をきつく噛み、グーデリアンを殴った白い指を、かばうように自分の手で包んでいる。
グーデリアンは頬を張られた痛みさえ忘れかねないほどの驚きで、自分を殴った相手を呆然と見つめていた。
ハイネルが怒っている。本気で怒っている。
今まで何度も、それこそ数えきれないほどケンカをしたことはあったが、これほどまでにハイネルが怒っているところをグーデリアンは見たことがなかった。
白い肌を怒りで赤く染め、形のいいしなやかな眉をキリキリとつりあげている様子は、こんな時だというのにとても魅力的だった。いつも冷静な彼が感情をあらわにしていると、年相応に見えてなんだかかわいらしい感じがするからだということもあるだろうし、普段からキレイな色をしたグリーン・アイズが、怒っている時はいっそう鮮やかに浮き立って見えるからなのかもしれない。
グーデリアンが『自分はハイネルのこの顔が見たくていつも怒らせてしまうんじゃないか』といぶかしんでしまうほど、一生懸命怒っている時の彼の表情は豊かで魅力的だった。目が離せなくなるほど。
「ハイネル・・・」
驚きのまま名を呼べば、ハイネルは自分の唇をぬぐっていた。
・・・・さきほどまでグーデリアンとキスをしていた、自分の唇を。
彼の仕草が何を意味しているかにすぐに気付いたグーデリアンが、アマンダという第三者がすぐそばにいるのにもかかわらず、キケンなセリフを口にした。
「なんだよハイネル。あんなの単なるアイサツじゃないか」
だが、フォローをするはずのグーデリアンのセリフは、ますますハイネルを怒らせたようだ。
今や背中にしょった暗雲が目に見えそうなほど眉をつりあげたハイネルは、低い声でうなるように言った。
「そうだな。お前にとってはキスはアイサツ代わりなんだ。そんなことよく知ってるさ」
それから少し目をそらし、自分の唇を厭うようにもう一度ぬぐう。それは心の底からグーデリアンとキスしていたことを汚らわしいと感じているかのような仕草で、さすがのグーデリアンもむっとした。
大体、つい先ほどまで何度も恋人同士としか言いようのないキスや甘い吐息を交わしていて、とろけるほどの快楽をわけあっていたというのに、その数分後にこの態度というのはどういうわけなのだろう。
グーデリアンにしてみればアマンダは姉のような存在だし、あれくらいのキスは本当に日常的なあいさつの範疇にあった。彼にとってあの程度のキスは『こんにちは』と同程度の重みしかないのである。ハイネルに施したキスとは、意味も深さもまったく違う。
それで怒られるのは理不尽この上なかったが、それでもグーデリアンは素直な思いを口にしていた。
「・・・ハイネル、ヤキモチ焼いてくれたってことは、やっぱりオレのことが好きなんだよな?」
・・・だが、この時グーデリアンは判断をあやまった。そんなセリフを口にして、素直にハイネルが首をたてに振るわけがない。
もちろんハイネルから返ってきたのは彼が期待していたような反応ではなく、新たな平手打ちだった。
「いいってえ!!!」
バチン、という見事な音をたて、またもやグーデリアンは平手打ちをくらっていた。薄闇の中でもハッキリそれとわかる、見事な跡が左右の頬に一つずつ浮かんでいる。
「お前なんか二度と顔を合わせたくない!」
怒りもあらわにそう言い捨て、ハイネルはあっという間に身を翻すと、夜の街に一人で駆け戻っていってしまった。
「ハイネル!」
アマンダの存在など頭の中からすっかり吹き飛んでしまっていたグーデリアンは、慌てて彼の後を追う。
だが、不意をつかれて遅れをとってしまった彼は、信じられないほど機敏なハイネルの背中をつかまえることはできなかった。