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二人はそのまましばらくレーストラックを見下ろし、主にレースに関するとりとめのない話をしていたのだが、やがてハイネルが自分のしていた時計に目を落とした。ややぎこちない動作だった。
ハイネルのその様子を、グーデリアンがちらりと横目でとらえている。
「・・・そろそろ戻らないか?」
こちらの様子をうかがってくるかのようなハイネルの問いかけに、グーデリアンは一度ため息をついた。
仕方ないなとばかりに肩をすくめてみせる。
「ん」
そう言って、座ったままのグーデリアンが、先に立ち上がったハイネルに向かって右手を差しあげた。
その仕草が何を意図しているのかがくみとれず、ハイネルはキョトンとして立ったままだ。
少しすると、再びグーデリアンがぐいと手を挙げてみせた。
「ほら!オレも立つからさ」
そのセリフで、ようやくハイネルがグーデリアンが何を言いたいかに気づいた。ようするに、彼はハイネルに自分をひっぱりあげろと言いたいのだろう。
立つのくらい自分でやれ!とは思ったものの、いちいち断るのもおとなげないような気がして、その右手をとってひっぱりあげてやろうとする。
すると、逆に自分の右手をものすごい力で下に引き下げられた。
「っ!!」
ガクンとひざが折れ、体勢をくずしそうになったとたん、すばやい仕草で左手が頭の後ろにかけられた。右手はあいかわらずグーデリアンにとられたままだ。
気がつけばそのままグーデリアンにキスされていた。ハイネルの目が驚きに見開かれる。
もちろん、ハイネルも報復は忘れなかった。一瞬の驚愕から立ち直ると、体をねじって両手の自由をとりかえし、不埒なマネをはたらいてきた相手に手加減なしの一発をお見舞いする。
パーン!と、乾いた小気味のいい音があたりに響きわたった。
赤くなった頬を押さえてはいたが、グーデリアンは何も言わなかった。
長めの前髪の間から、ハイネルの気持ちをいつも落ち着かなくさせる、あの真っ青な瞳がじっとこちらに向けられている。
ハイネルが相手に何と言ってやろうかと考えあぐねているうちに、グーデリアンの方から口を開いた。
「知ってるか?ハイネル」
「・・・・何をだ」
自然、ハイネルの口調は不機嫌そうなものになってしまう。すると、グーデリアンはそんなハイネルをおもしろがっているような笑みを口元に浮かべた。
もう平手打ちされたショックから抜け出したらしい。立ち直りの早い少年だ。
「オレがハイネルに殴られるのをわかってて、何でいつもキスしようとするのかってコトをさ」
「・・・そんなの」
ハイネルはその緑の瞳に相変わらずのキツイ光をたたえ、一瞬でも目をそらすもんかと決意してでもいるかのようにグーデリアンをにらみつけたまま言った。
「・・・お前が学習能力のないバカだからに決まってる」
あまりと言えばあまりのセリフだったというのに、グーデリアンは口元を笑みの形にはねあげた。相手を挑発するような笑みだった。
「わかってないな、ハイネル」
ここで指を左右に振って。
「オレにとって、頬の痛みと引きかえてでもハイネルにするキスは価値があるものだからさ!平手打ち一つでハイネルにキスできるなら安いもんだ」
「なっ・・・グ、・・・」
今度はハイネルの頬が赤くなる番だった。もちろん、羞恥のためである。
グーデリアンはやっぱり、ハイネルのそんな表情を楽しむかのような笑みを見せていた。
そんな彼を見ていると、ハイネルの心の中にある疑念が浮かんでくる。
すなわち、彼は単に自分の反応を楽しみたいだけで、本当に好きなわけではないのではないだろうか・・・という思い。
それならそれでせいせいする!・・・と思おうとして、ハイネルはそれに失敗した。むかむかと胸のうちに黒いものが噴き上げてくる。
「お前なんかに・・・」
くやしさのあまり、語尾が震えてしまったほどだった。
「お前なんかに、私の何がわかるんだ、ジャッキー・グーデリアン!お前はどうせ、私のことを新しいヒマつぶしか何かくらいにしか思っていないんだろう?あいにくだったな。私はそんなコトにつきあうほどヒマじゃない、他を当たってくれ!」
これだけ一気に言い募り、肩で息をしながらハイネルはグーデリアンを見た。ハイネルが人に対してこれだけ声を荒げることはめずらしい。
だが、意に反して、グーデリアンにはこたえた様子はまったく見られなかった。
ただひたむきな・・・そう、ひたむきとしか言いようのない、まっすぐな目でこちらを見返している。
わずかな間の後、グーデリアンがポツリとつぶやいた。子供のように無心な声だった。
「ハイネルじゃなきゃダメなんだ・・・他をあたるなんてコト、できるわけがない」
その言葉に、ハイネルは息を呑む。
ぜったいグーデリアンの言うことなんか信じまいと思うのに、あの青い瞳と目があってしまうと、どうしようもなかった。引き込まれるように目がそらせなくなる。
あの青い一対の瞳が自分だけを見つめているのかと思うと、思考がぐちゃぐちゃになってしまう。どうしていいかわからなくなってしまうのだ。
「・・・ハイネルじゃないとダメなんだ」
「なんで・・・」
なんだか、グーデリアンは途方にくれた子供のようだった。母親や大人に自分の言いたいことを分かってもらいたいのだが、何と伝えたらいいのかわからないでいる、そんな子供。
「なんでって言われても、考えてそういう結論を出したわけじゃない。ただ、感じただけなんだ。オレはいつでも自分が感じるままに動くだけ。レースでも、レンアイでも」
ハイネルは毒気をぬかれてしまった。この男・・・男というより少年を相手に、本気で論じようとした自分が悪かったんじゃないかと思えてくるほどに。
「・・・お前らしいな」
つかれたようにそれだけつぶやくと、今度こそハイネルは席を立とうとした。その背に向かい、一度だけグーデリアンが呼びとめる。
ハイネルが振り返って見ると、彼も立ち上がった所だった。逆光がまぶしくて、思わずハイネルは手をかざして目をすがめる。
「ハイネル」
もう一度グーデリアンがその名を呼んだ。グーデリアンがどんな表情をしているのかハイネルにはわからなかったけれど、その声が自信と誇り、希望や信頼、そういったありとあらゆる前向きな力強さに満ちていることだけはわかった。
その声で名前を呼ばれるのは心地いい。
「ハイネル、お前はきっと、オレを無視できなくなる。オレがそうなったみたいに、絶対にお前がオレ以外の男には目を向けていられないようにしてやる」
「・・・」
ハイネルは動けず、反論することもできなかった。なぜだか、そうできなかったのだ。
「これからマシンに乗り込んで、レースができる。しかもハイネルと。こんなにワクワクするようなコトってないよな。普通にハイネルといっしょにいるだけでドキドキしてるのに、レースで争ってる時にだってドキドキできるんだぜ?オレたち二人がいっしょに揃えば、すごいコトが起きそうだって思わないか?」
「せいぜいクラッシュしないように気をつけるんだな」
話がレースに関するものに戻ったことで、ようやくハイネルはいつもの調子を取り戻した。その厳しい口調と表情に、なぜかグーデリアンがうれしそうな顔をしたのが、気配でハイネルにも伝わった。
ハイネルの顔にも笑みが広がる。
ジャッキー・グーデリアンとレース。
たったそれだけの短いフレーズが、本来感情の起伏の少ないはずのハイネルの心を揺り起こす。
グーデリアンの青い瞳は、どんなに厚く濁った大気をも突き抜けてしまう、とびっきり強くてキレイな光を宿している。
「レースで」
どちらが先に言葉にしたのかわからない言葉を口にし、二人は今度こそそれぞれのピットへと戻っていった。