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 グーデリアンの青い目に見入られたままハイネルが動けないでいると、頬をなでていた彼の手が止まった。右手だけではなく左手も伸ばされ、ハイネルの白い頬を包み込むようにして触れている。
 わずかにその手に力が込められ、ハイネルはより一層グーデリアンと近くから見合うことになった。

 まずい、と思う。すでに目線が射程圏内で絡みあってしまっている。もう彼は自分がグーデリアンの青い目に極めて弱いことを自覚してしまっていた。こんなに近い距離で彼の目の青を視界に入れてしまったら。このブルーが心の中いっぱいに広がってしまったら。
 ・・・・・・何をされても、何を言われても抗えなくなってしまう。

 グーデリアンは一度片手を離してハイネルの額にかかった髪を優しい仕草でかきあげてやると、息もかかりそうな距離で言った。


「いい加減自覚した方がいいと思うぜ?悩んだって結果はいっしょなんだからさ」

「・・・・何の自覚だ?」


 ハイネルの声は冷たく、緑の瞳はグーデリアンをきつくにらみつけている。わずかにその声も瞳も揺らいでいたのだが、普通の人間ならば十二分に牽制されてしまうだろう。明らかに相手に自分が押されている自覚があるというのに、それでも精一杯虚勢を張ってしまうのがハイネルがフランツ・ハイネルたる所以である。
 だが、それさえグーデリアンはとっくの昔にお見通しのようで、彼は怯んだ様子もなくハイネルをまっすぐに見返し、意外なほど真剣な表情と声で告げた。


「ハイネル。お前、オレのことが好きなんだよ」
 
「!!」


 一瞬ハイネルは何を言い返せばいいのか分からずに息を呑んだ。それからメラメラと浮かんできたのは狂暴なほどの怒りである。一度は沈静化したはずの、先ほどの接触リタイヤの怒りまでが甦ってきてしまったかのようだった。
 ジャッキー・グーデリアンという人間は、自分を怒らせるためだけにこの世に生まれてきたのではないかとさえ思う。


「私は、お前のそういうところが一番大嫌いなんだ!頭が悪いクセに何でも知ってるような顔をしないでくれ!なんで私がお前なんか好きにならなきゃならないんだ!?たとえ人妻に恋しようがロリコンになろうが、お前にだけは恋に落ちたりするもんか!お前みたいなガサツで礼儀知らずで強引で・・・年下のクセにえらそうなヤツ!」


「でもオレのこと好きだろ?」

「・・・・・お前みたいな頭の悪い人間は、どう説明してやったら理解できるんだ!一体何を考えてる?お前の思考回路は全く理解できない。いいか!?よく聞いてくれ。私はお前みたいな人間、世界で一番嫌いだって言ってるんだ!」

 
 ハイネルは分かっているのだろうか?口から火を吹きそうなほどの勢いで一気にそうまくしたてている自分が、それでも自分の頬にかけられたままのグーデリアンの手を全く振り払おうとしていないことの矛盾を。
 グーデリアンはハイネルのセリフを聞き終えると、ちょっと肩をすくめてみせた。途方にくれているというよりは、出来の悪い生徒を前にした教師のような仕草だった。


「確かにオレは頭悪いけどさ」

「一応自覚はしてるんだな」

「人の好き嫌いに頭の良し悪しは関係ないだろ。言わせてもらえばお前が鈍すぎんだよ!お前、頭良すぎてメカのことしかわかんなくなっちゃってんじゃないの!?どう考えたってお前はオレのこと好きなんだから、早く自覚しろって言ってんだよ!」

「な、な、な、・・・・何を根拠に、一体どんな確証があってそんなバカげたことが自信たっぷりに言えるんだ?これだから頭が悪いヤツは・・・」

「だってお前、オレにキスされるのイヤじゃないだろ」


 不意になされた問いは、疑問の形を取ってはいなかった。グーデリアンはやはり静かで落ちついた顔をしている。それは明らかな事実を確認する言い方だった。
 反論することも忘れ、ハイネルは眉をひそめてグーデリアンを見た。怒っているというよりは、どんな反応をしたらいいのか分からずに途方にくれている表情である。

 グーデリアンの右手がもう一度なめらかなハイネルの頬を滑り、そのまま流れるように移動して彼の腰を支えた。それでもハイネルからの抵抗はない。わずかに呼吸が浅くなり、軽く握りしめられていた両のこぶしに力が込められる。


「な。・・・・・オレとたくさんキスしようぜ、ハイネル。そしたら鈍いお前にも分かるから。お前は分かってないんだろうけどさ、オレがこんなに辛抱強く鈍いお前の相手をしてやってるのは、それだけお前が好きだからなんだぜ。・・・・感謝して欲しいくらいなんだけどな」

「お前は、本当に・・・・・何を」


 ・・・・・・言い出すのか、と言い終える前にグーデリアンにキスされていた。分かっていて避けることができなかった。・・・・そう、彼はグーデリアンにキスされるのが分かっていて、それでも避けることができなかったのだ。避けようともしなかった。
 ただ、心の葛藤や羞恥がそのまま表れているかのように、彼の整った眉がしなやかに寄せられている。今グーデリアンの両手はハイネルの背中と腰に回され、ハイネルの両手は迷うように揺れていた。
 何度も何度もためらい、それからようやくおずおずと彼の両手が伸ばされ、グーデリアンのレーシングスーツの裾をわずかに握り締めた。そのことが気配で分かったのだろう。彼を抱擁しているグーデリアンの腕の力が強くなる。

「ん・・・・」

 触れているだけのグーデリアンの唇は柔らかく暖かい。一度唇が離れた時その動きにつられて瞳を開けてしまったハイネルは、間近にグーデリアンの閉じられたまぶたを目にして必要以上にうろたえた。一瞬のことだったのに意外と長い濃い金色のまつげが脳裏に焼きつき、慌ててその映像を振り払うかのように再び目を閉じる。
 すると、そのタイミングを見計らったかのように角度を変えて再び唇をふさがれた。今度はそっと唇をついばんでくる。

 ハイネルはすでに自分たちが今どんな状況で、何を話していて、そしてどこにいるのかを全て忘れ去っていた。グーデリアンと触れ合っている唇の感覚だけが今彼が感じている全てで、それ以外のことは彼の優秀な頭から根こそぎ抜け落ちてしまっている。
 あらゆる意味でジャッキー・グーデリアンという少年は、フランツ・ハイネルから理性を奪うようにできているらしい。
 またわずかに唇が離れ、それでも息がかかりそうな距離からハイネルの意識を全てさらった男の声がした。
 

「ハイネル。もっとちゃんとキスしたいからさ。・・・・口開けてよ」


 苦悩しているかのようにますますハイネルの眉根がきつく寄せられ、グーデリアンはその白い額に大きな手で触れると眉間にキスを落とした。そのことでさらに眉間のシワが深くなり、グーデリアンに苦笑を浮かべさせる。
 柔らかくて暖かくて、胸のそこがくすぐったくなるような笑みだった。

 ほんのわずか。・・・・・かすかにハイネルの白い歯がのぞいている。グーデリアンは顔を傾けてゆっくりと近づけていった。

 唇同士が触れ合い、ハイネルのまつげがぴくりと震えた。白い頬はすっかり上気して薄く紅をはたいたようにさえ見える。
 そっと伸ばされたグーデリアンの舌がハイネルの歯に当たった瞬間、・・・・それまで(本人は死んでも認めないだろうが)うっとりとグーデリアンに身をまかせきっていたハイネルの耳が、何かとても不穏な音を聞き取った。・・・・スクーターの稼動音だ。
 マシンでありさえすれば、例えそれがCFマシンであろうがカートであろうが原付であろうが瞬時にしてそのエンジン音を聞き分けるハイネルが、ほとんど条件反射のように緑の目を見開いた。
 その目はキスの名残をまだ色濃く引きずり、春の若葉のように潤んだ瑞々しい色をしている。グーデリアンが目にしたらキスがそれまで以上に深くなること確実の美しい色合いだったが、残念ながら事態はキスどころではない状況にまで逼迫してしまっていた。
 一気に冷水をかぶせられたかのように目覚めた強固すぎるハイネルの理性が、そのスクーターがクラッシュしたままピットに戻ってくる様子のない自分たちを迎えにきたものだとの判断を下す。


「っ!!」


 甘いキスの名残も何もなく、次の瞬間にはハイネルはグーデリアンから大きく離れていた。
 その際かなり強く彼を突き飛ばしてしまったので、グーデリアンは2,3歩よろめいた後『いてえなぁ』などとぼやきながら押された胸あたりをポンポンとはたいている。だが、ハイネルにとってはそれどころではなかった。
 キスまでした仲だというのに(しかも今回に限って言えば抵抗さえしていなかったというのに)、やはり彼にとってグーデリアンは憎たらしいライバル以外の何者でもなく、他の人間に『グーデリアンとハイネルは仲がいい』などと思われるくらいだったら死んだ方がマシだと本気で信じているのである。


「わ、わ、私から離れろ、このバカ!」

「離れろって、もう離れてるだろ。せっかくキスしてたのに」

「そういうことを言うな!」


 ハイネルはとにかく慌てまくり、意味もなく自分のレーシングスーツにチェックを入れたりしている。それから、そんなことをすればかえって赤くなって目だってしまうだろうに、ごしごしと盛大に自分の唇をレーシングスーツのそででふき始めた。やはり頬は赤いままだ。キスの興奮と羞恥と、そして(ハイネルだけの)非常事態に対して緊張しているからなのだろう。
 そんなハイネルとは対照的に泰然としたままのグーデリアンは、チェッ、とすねた子供そのままの仕草で舌打ちをした。だが、それさえハイネルの耳には届いていないようで、ますますグーデリアンはすねたように粗い色の金髪を掻いた。




「ハイネルくん!大丈夫か?」

「あ、アッシャーさん・・・見ての通り大丈夫です。ただちょっと、その・・・・・」


 程なくしてスクーターに乗って現れたのは、ハイネルのチームスタッフの一人だった。もちろん彼はクラッシュしたマシンの影でたった今まで彼らがキスを交わしていたことなど知る由もない。
 顔を赤くしてうろたえている様子のハイネルの表情を目にし、彼は納得がいったと言わんばかりの顔をしてうなづいてみせた。


「分かってるよ。いつもと同じく、そこのアメリカ人レーサーと言い争いになってたんだろ。とにかく、みんな心配してるからとりあえず一度ピットに戻って検査を受けよう。それに、お客さんも来てるからな。顔を見せといた方がいい」

「私に?」


 意外なことを言われて真顔になったハイネルは、アッシャーにうながされるままにスクーターの後ろに乗り込んだ。グーデリアンに対し、ただの一言もかけずに。

 あっという間に視界から去ってしまったハイネルの背中を見送り、グーデリアンは肩をすくめてため息をついた。それから地面に置きっぱなしになっていたヘルメットを手にする。

 遅れて到着した自チームのスタッフに疲れたような仕草で手を振ってみせて、グーデリアンもようやくその場を後にしたのだった。



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