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 アッシャーが駆るスクーターの後部座席に乗ってピットに運ばれたハイネルを、心配そうな表情を浮かべたスタッフたちが我先にと争いつつ次々に迎えいれた。
 『精密機械』の名に恥じることなく、フランツ・ハイネルは完走率の極めて高いクレバーなドライバーである。その分彼がクラッシュやリタイヤを演じると、スタッフたちは心の底から彼の身を案じるのだった。・・・・もっとも、スタッフたちが異常なまでに彼を大切にしているのは、彼がチーム内でほとんどアイドル的な扱いを受けているせいもあるのだが、それは本人の預かり知らぬところである。


「ハイネルくん!」
「ハイネル、大丈夫か!?ケガは?」

「大丈夫です、体の方は何ともありません。念のために後でドクターチェックを受けておきますが、まず問題はないと思われます。御心配をおかけしてすみませんでした。マシンの方もフロントを交換すれば何とかいけるのではないかと思います。午後のプラクティスには間に合うでしょう」


 ハイネルは落ちつき払った口調で答えると、自分を運んでくれたアッシャーに礼を言ってスクーターから降りた。もはや完全にいつもの『フランツ・ハイネル』のスタイルを取り戻している。早速テレメトリー担当のスタッフを呼んで、接触時の走行データの分析を指示している辺りはさすがである。
 年齢に見合わぬ、老成したドライバーのような怜悧さと沈着さも、スタッフたちが彼に心を傾けている大きな要因だ。ハイネルがS.G.Mに移籍してきた当時は、彼のその性質がかえってスタッフたちの間にひどい軋轢を生んでしまっていたのだが、それらの誤解や葛藤を乗り越えてきたからこそ、今の彼らの強い結びつきがあるのだろう。
 ・・・・・・グーデリアンに言わせれば、ちょっと強すぎるキライがあるらしいが。

 
「ケン、君は各チームのセクションごとのベストタイムをチェックしておいてくれ」

「分かりました!」

「マクレガーさん、後で右のリヤタイヤの減り具合をチェックしてくれますか。場合によってはミディアムソフトに変えた方がいいかもしれません。エキストラでは右の減りが早すぎるような気がします」

「OK、任せとけ!バッチリいいタイヤを選んでやるからな」

「それから、ティレルさんは・・・・・・・」


 スタッフたちの方を順番に振り仰ぎながら指示を飛ばしていたハイネルは、メカニックの一人であるディレク・ティレルの方に視線を飛ばした。
 緑の目が軽く見張られ、薄く理知的な印象なのに、ともすればとてつもなく艶めいて見える唇がかすかに開かれてわなないている。


「リズ・・・私の客というのは・・・」

「そう、私よ。久しぶりね、フランツ。ケガが大したことなさそうでよかったわ」


 ハイネルにリズ、と呼ばれた女性は、柔らかな微笑を浮かべて手を差し出した。職業柄そんなシチュエーションには慣れ切っている彼は、意識しないうちに右手を差し出し返して握手を交わす。
 前に彼女に触れたのはもう随分昔のことになる。最後に握手を交わしたのは二年前だ。いつ触れても優しく柔らかな感触の手だった。その感触はそのまま彼女のイメージへとつながる。
 ・・・そして、ハイネルは彼女の差し出していない方、・・・・左手の薬指にリングが輝いていることを知っていた。


「リズ、どうしてここに・・・」

「ダンが仕事の出張で一週間ほどこちらに滞在することになったの。あなたがレースでこちらに来るのは分かっていたし、せっかくの機会だから久しぶりにあなたの顔を見たいと思って。そうしたらクラッシュ・・・・本当に何事もなくてよかったわ。あなたがもしケガでもしていれば、おじ様もおば様も心配なさるでしょうから」

 彼女はそう言うと、また笑みを見せた。ハイネルよりも大分年上の彼女は、それでもいつまでも少女の雰囲気を持ちつづけている。緩くウェーブのかかった長い髪と、優しい光をたたえたとび色の瞳。とびきりの美女というわけではなかったが、人の心を解きほぐし、優しい気持ちにさせてくれる女性だった。


「ハイネルさん、・・・この女性は?」

 おずおずと、しかし好奇心を押さえきれない様子でたずねてきたのは、まだチームに合流して日が浅い若いスタッフだった。すかさず年嵩のスタッフが失礼なことを聞くな、とたしなめたが、内心ではやはり気になっていたのだろう。視線は彼女に向けられたままである。
 ハイネルは一つ悟られないように小さな息を零すと、ひそかに自分たちの方に注意を払っていたスタッフたちへと向き直った。


「彼女はエリザベス・メルツ。父親同士が仕事を通して親しくしていたために知り合った女性で、幼なじみみたいなものです。もっとも、彼女は旦那さんの職業の都合でフランスに移住してしまったので、今では滅多に会うことはないのですが」

「エリザベスか、あるいはリズと呼んでください。フランツ・ハイネルの姉のような存在だと自分では思っています。・・・ね?フランツ。明後日の本戦が行われるまでの短い間ですが、よろしくお願いします」


 そう言ってリズ・・・・エリザベスがにっこりと笑うと、スタッフたちも自然に笑顔を返していた。
 レース世界には絶対的に女性が不足している。ありとあらゆる分野に女性が進出してきたとは言え、まだまだ女性の比率が少ないのが現状だ。
 レース場において一番華やかで目につく女性はキャンギャルたちだが、エリザベスの清楚な女性らしさはそんな彼女たちとはまた対照的な魅力があり、スタッフたちの心をいっぺんにつかんだのである。

 だが、そんな明るい雰囲気に満ちたピット内で、一人だけ浮かぬ表情を浮かべた人間がいた。・・・言うまでもなくハイネルその人である。もともと感情が顔にでにくいタイプである彼の様子を(グーデリアンが絡んできた時だけは別だが)、いぶかしむ者は一人もいず、彼は内心でそのことに深く感謝しながら両のこぶしに力を込めた。


「では、私は一度失礼します。・・・・ドクターに診てもらわなくてはならないので」


 スタッフたちにそう言うと、ハイネルは努めて平静を装い、ピットを後にした。ハイネルのことを信頼しきっているスタッフたちは、彼の言葉を全く疑う様子もなく、それをきっかけにしてそれぞれの仕事に戻っている。
 それに気づいているハイネルは彼らに対する罪悪感にも似た苦い思いを抱えつつ、足は止めないでいた。・・・・彼が向かっているのは医療室などではなく、モーターホームだ。

 ・・・・・・・誰もいない所で、一人になりたかったのである。




 
 
 唇を噛み、眉間を険しく寄せて足早に歩いているハイネルの姿は、恐らく周囲からは怒っているように見えることだろう。
 だが、彼は怒っているわけではなかった。ただ激しく動揺し、その心の衝撃に耐えようとしているだけだ。

 彼はいつも悲しいことや悔しいことがあった時、こうして真っ直ぐ前をにらみつけるような表情をする。自分の心の弱さを厭い、それに挑むための表情だった。どんなに心が揺さぶられることがあってもピンと伸ばした背筋は崩さない、それがフランツ・ハイネルという人間なのである。
 
「リズに・・・こんな時にこんな所で会うなんて」
 
 無意識のうちにそんな声が漏れ、それさえ厭ってハイネルはさらに眉間のシワを深くした。自分を厳しく律する彼にとって、ここまで自分が動揺しているのは許せないことなのだ。


 彼がエリザベス・メルツに会ったのは実に二年ぶりのことだった。・・・・彼女の結婚式に出席して以来だ。

 ハイネルとエリザベスの間に特に何があったわけでもない。ただ、恋愛とも言えないような淡い感情を彼がエリザベスに寄せていた時期があっただけだ。
 彼女は昔から優しく知的で、物腰も静かな女性だった。父親同士が仲がよかったこともあり、一度冗談混じりでハイネルとエリザベスを婚約させようという話が出たこともあった。まだハイネルが14才、彼女が20才の時のことである。
 年が多少離れているせいもあってエリザベスは全く本気にしていなかったようだったが、ハイネルはそれでも構わないと思っていた。
 彼女には心を奪われている恋人の影も見えなかったし、控えめで引っ込み思案な所もある彼女は異性を苦手としている節さえ見えた。
 そんな彼女が自分に対しては屈託なく振る舞ってくれることで、彼は彼女にとって自分の存在が特別なのだと感じるようになっていたのである。彼女が自分のことを特別に好きでいてくれるのだと。


 だが、すぐ次の年に、それは思い違いだったのだと思い知らされた。彼女は笑ってハイネルに恋人だという男性を紹介してきたのだ。

 もちろんエリザベスにとってハイネルは特別な存在だった。特別な・・・・・心を許せる友人。
 二十歳の成人した女性が、当時14才にしか過ぎなかった自分を異性として意識することは難しかったであろうことは今のハイネルには分かっている。まして当時の彼はまだ背もそれほど高くはなく、整った容姿ともあいまって中性的なイメージさえまとっていたのである。恐らく彼女は、彼が淡い恋心のような憧れを自分に寄せていたことにさえ気づいていないことだろう。
 だが、そのことがかえって深く彼の意識を傷つけた。

 もちろんグーデリアンほど華やかな遍歴ではないが、ハイネルもそれなりに恋をしてきた。結局はレースやマシンに対する興味や愛情の方が勝ってどの恋も完全には成就しなかったが、それでも不器用ながら誠実な恋愛関係をいくつか築いたことはあったのである。
 時間の経過とともに彼女のことは完全に吹っ切ったつもりだったのだが、二年前に彼女の結婚式に招待された時、彼はその時の傷が生々しい痛みを伴ってよみがえってくるのを感じた。


 結婚の儀式。互いの魂が互いのものであることを誓いあう儀式。・・・・・自分のものになったかもしれない存在が、他人のものになる瞬間を見せつけられる儀式。


 一度ふさがって癒えたはずの傷が、再びじくじくと痛みだす。古い傷は鈍く絶え間のない痛みを心に与え続けた。痛みを忘れていた期間が長ければ長いほど、再び痛みだした時の衝撃も大きい。傷が完全に治ったと思った頃にいつでもエリザベスは姿を現し、ハイネルを苦しめた。
 彼女に対する恋しさなどもう自分の心のどこにも存在しないのは彼自身にもわかっている。もともと彼が彼女に対して持っていた気持ちさえ、恋と呼ぶにはあまりにも幼すぎるだろう。

 ただ、彼女の存在は亡霊となってハイネルを呪縛しつづけているのである。元々人に心を開くのが得意ではない彼を、彼女との思い出がさらに臆病にしてしまっているのだった。病巣は彼の心の奥深いところに根深く巣食い、容易なことでは癒されないだろう。

 
 ・・・・・彼は恋をするのを心のどこかで恐れているのである。
 心を寄せた相手に去られることを。自分の心を開け放つことを。・・・そして、自分に向けられる好意を素直に受けいれることを。

 人を好きになり、人に好かれることで、いつかまた傷つくのを深く恐れている。




「明日はレース予選だというのに、こんな精神状態じゃダメだ」


 別のチームのモーターホームの角を曲がりつつ、ハイネルは頭を振って自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
 恐らくそのせいで意識が散漫になっていたのだろう、彼にしては珍しく向こうからやってきた相手に軽くぶつかってしまった。
 慌てて顔をそちらに向けて謝罪をしようと開いた唇が止まる。そして、彼は謝罪とは別の言葉を唇にのせていた。


「グーデリアン・・・・」

「よ、ハイネル。お前、医者にちゃんと診てもらったか?オレは今行ってきたとこ。・・・・・・ハイネル?お前顔色がすごい悪いぜ?」

 
 ぶつかった相手はつい先ほどまで騒ぎを起こしていたグーデリアンだった。鼻の頭にバンドエイドが貼られている意外は目立った変化はない。彼も大事には至らなかったのだろう。
 そのことに対しては安堵したのだが、なぜだか彼の顔を見ているのが辛くて、ハイネルはそれだけを確認するととっさに顔をそらした。それを体調が悪いことを悟られたための動揺だと受け取ったグーデリアンは、彼の手をとって顔をのぞき込んでいた。




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