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 ハイネルの操るマシンは、なめらかなラインを描いてピットレーンを走り抜けていった。普段から意思の強そうな硬質な光をたたえている緑の瞳が、今は一段と強い光を放っている。意思の煌きが宿ったこの瞳を見るものが存在しないのが残念なほどキレイで目を奪われる色だった。

 制限速度内で走ることが義務づけられているピットレーンをもどかしい思いで通りぬけてコースにマシンが飛び出していく。幸い、他チームのマシンは近くを走行していなかった。他のマシンを視界にとらえるまでは思う存分にマシンを走らせることができる。


『ハイネル、まず一周目は慣らしで様子を見るぞ!』

『わかっています』


 落ち着き払った答えがハイネルの口からほとぼしったが、目は彼の言葉を裏切ってすでに戦闘態勢に入っている。真剣な色だ。
 ・・・・その視線の先には、グーデリアンの駆る派手なカラーリングの施されたマシンがあった。





「ジャッキー・グーデリアン」



 コースに出て一周半。ハイネルの口元がわずかに上がって笑みを形作っている。


 ジャッキー・グーデリアン。


 この名はハイネルに奇妙な感覚を与える名だ。大抵の時はこの名を耳にすればイラつき、時に心を落ちつかなくざわめかせることもある。そして、マシンを駆っている時にこの名を耳にするといつでもこめかみが痛くなるほど体中が熱く焼けつく感覚を味わった。
 ジャッキー・グーデリアンという名に伴うフランツ・ハイネルの感情の動きのバリエーションは実にさまざまであるが、どんな時でも彼の名がハイネルの感情を大きく揺り動かしてしまうことだけは確かだ。

 ・・・・そう。ジャッキー・グーデリアンは、いつも凪いだ湖面のように穏やかなフランツ・ハイネルの心を乱す起爆剤なのだった。


「・・・・ジャッキー・グーデリアン」


 ハイネルの整った口元は相変わらず笑みを浮かべ、目はまっすぐに前を行くグーデリアンのマシンをとらえている。
 当然のように、アクセルを踏むハイネルの足元に力が込められた。







「待ってたぜ、ハニー」

 前を行くグーデリアンは、ミラー越しにハイネルのマシンがすごい勢いで迫ってきているのを目にして楽しげな笑みを見せた。
 相手の存在にこの上もなく煽られるのはグーデリアンも全く一緒である。元より感情的な走りをしすぎると指摘され、自分でもその通りだと思っているグーデリアンであるが、ことハイネルが絡むと事態はいっそうひどいこととなる。『自制心』という言葉がグーデリアンの脳内からのみ、この世から瞬時にして消えうせてしまうのだった。
 マシンに乗り込んでいる時にフランツ・ハイネルのマシンに遭遇すると、とたんに彼しか見えなくなり、彼のことしか考えられなくなる。世紀の大恋愛よりも情熱的で一途な感情だった。


「いつものように、オレのカラダとココロを気持ちよくさせてくれよ。・・・お前のその、ゾクゾクするような走りでね」


 肉食獣そのものの仕草で舌なめずりをし、グーデリアンはまず再びミラーをのぞき込んで後ろから迫ってくるハイネルのマシンの動きを確認した。相変わらずなめらかでブレの少ない走りをする。
 あまりにもその走りが精確でスムーズなので、ハイネルの走りを評して『おもしろみがない』と口にするモータースポーツファンは意外なほど多い。評論家の中にもそう公言してはばからない人間が何人もいる。


 ・・・知ったもんか、とグーデリアンはツバを吐きかけたい思いで心の中で吐き捨てる。

 まず、少しの路面の荒れでもマシンが滑ってしまうコース上で常にブレの少ない走りをすることがどれほど困難で高等な技術を要するのか彼らは根本的に理解していないし、何よりあの、一見害がないように見せかけ、そのクセどこまでも研ぎ澄まされて相手に致命傷を与える時を待ちかねている細身のナイフのような走り・・・少しでも気を抜けばまっすぐに心臓を貫かれてしまいそうなほど容赦のない走りをハイネルがしていることに彼らは気付いていないのだ。

 だが、どれだけ多くの人間がハイネルの走りを誤解しようと、本当にグーデリアンの知ったことではない。

 ・・・・彼の走りの価値は、自分だけがわかっていればそれでいいのだ。









 プラクティスではあるが、グーデリアンとハイネルのバトルは真剣そのものだった。どちらのチームクルーたちも自分たちが苦労してセッティングをしたマシンを壊されるのではないかとヒヤヒヤしながらモニターを眺めているのだが、誰も二人に無益な戦いを止めさせようと口を出すものはいなかった。・・・・・言ってもムダだとわかっているのである。


「まったく、ハイネルさんもグーデリアンさんも、コースに出ると丸っきり子供になっちゃうんだから」


 呆れたように若いメカニックが口にすれば、すかさず横から『グーデリアンのヤツはいつでも子供だけどな』と揶揄の言葉が飛ぶ。周囲から笑声が弾け飛んだ。自チームのドライバーをこの上なく誇りに思い、かわいがっている(かわいがり方は少々乱暴だが)グーデリアンのチームの人間がそのセリフを耳にしたとしても、否定することはできなかっただろう。

「とにかく、コース上で二人がそろっちまったらもうおしまいだ。オレたちにできることは何もない。・・・せめてマシンと二人が無事で戻って来てくれるように祈る以外にはな」

 年嵩のスタッフが口にした一言にその場にいた全員が心でうなづきを返す。モニターの中では、相も変わらず二台のマシンが激しい競り合いを繰り広げていた。いつマシン同士が接触してリタイヤしてもおかしくない走りを続けている。
 マシンは確かに心配だが、それでも二人のコース上でのやりとりを目にしていて心の高揚を覚えないものは一人もいなかった。

 みんなレースが大好きなのだ。熱いバトルを目にして興奮しない人間はいない。ここはそういう者たちの集まる場所なのである。



 グーデリアンとハイネルのマシンが、スタッフたちが見守る中ほぼ並走してコントロールラインを駆けぬけていった。どちらかと言うとグーデリアンのマシンはストレート区間に合わせて設定を施してあるので、ストレートに入るとハイネルを離しかけるのだが、続く連続コーナーに入ると逆にハイネルが後ろからグーデリアンを脅かすのだった。
 グーデリアンが少しでもコーナーでマシンを滑らせれば、すかさずハイネルはマシンのノーズをその空いたわずかなスペースに突き入れてくる。
 そのたびに抜かれる恐怖と接触するかもしれない恐怖とで冷やりと背中が冷たくなるのは確かだが、その感覚さえグーデリアンは愛していた。・・・・ぞくぞくと熱い感覚がわきあがってくる。

 ハイネルは一見冷静に、だががむしゃらに獲物を追いつめるための走りでグーデリアンに向かう。

 グーデリアンのほとんど動物的とさえ言える反射神経とテクニックでかろうじて回避されているものの、普通ならばとっくに二台とも接触、リタイヤしてもおかしくないほどの容赦のない攻めだった。並のドライバーならば萎縮するか激昂するかしているに違いない。


 そのくせ、グーデリアンが『お前の攻めは強引すぎる』と後から文句の一つでも言おうものなら、人形のように整った容姿を持つハイネルがあの美しい緑の瞳を尊大に煌かせて『あれくらいの攻めでひいてしまうくらいなら、今すぐマシンから降りろ。マシンから降りたくないのならそのままタイヤバリヤにでも突っ込んでリタイヤしてくれ。私の走りのジャマになる』・・・くらいのことは言いかねないのはグーデリアンにはよく分かっていた。

 実はナイーブで照れ屋な一面を持つハイネルだが、マシンに乗り込んでいる時の彼は尊大とさえ言えるほど自信家で放埓だ。フランツ・ハイネルという人間は、どんな時にもあらゆる意味でジャッキー・グーデリアンという人間を刺激するようにできているらしい。

 今ももちろんそうだ。ハイネルが自分のマシンを抜こうとピリピリと神経を研ぎ澄ませているのが空間を隔ててさえ伝わってくる。

  前を行くマシンの隙を一瞬たりとも見逃さないその走りに、猫科の動物のような目をして自分のマシンを見つめているハイネルの様子がグーデリアンには手に取るようにわかった。

 ステアリングを握る手に汗。思わず力を込めなおす。グーデリアンはハイネルよりも三周早くトラックに出ていたため、ハイネルのマシンよりもタイヤが厳しい状態になっている。
 ただでさえハイネルはタイヤの扱いがうまいドライバーとして知られる相手だけに、コーナーでタイヤがわずかに滑るだけで致命的な遅れを引き起こしかねない。


 それでも第一、第ニコーナーとハイネルのマシンを押さえつけてグーデリアンが胸をなでおろしそうになった瞬間、ハイネルのマシンが牙をむいてきた。常識で言って相手のマシンにしかけることなどありえない、余分なスペースがほとんどない第三コーナーの入口で抜きにかかってきたのである。
 かなり強引な動きの上、常に気を張っていたグーデリアンでさえ全く予期していないタイミングだったので、彼の対応がほんのわずかに遅れた。
 だが、コンマゼロ1の世界で争うレースの世界では、わずかな時間さえあればそれで十分である。


「あっ!!」


 恐らく、叫び声は同時だっただろう。
 その短い叫びの余韻が消える前に、二台のマシンはもつれあってあっという間にサンドバリアへと突っ込んでいた。
  
 



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