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 何だかよろよろとした足取りでピットまで戻ったハイネルは、ぼんやりとした表情でキビキビと立ち働くクルーたちの様子を視界に入れていた。だが、視界に入れているだけで脳はその様子を把握してはいない。
 彼の脳裏に再生されているのは、この上もなく印象的なグーデリアンの青い瞳、それだけなのだった。
 グーデリアンの青い瞳は、世界中のありとあらゆるものが突然色を失ってモノクロになってしまっても、変わらずあの色をしているのだろうとバカげた想像をしてしまうほど鮮やかな色をしている。
 その色は幸福を運ぶと言われる蝶の羽をハイネルに思い起こさせたし、いつか見た野山に無造作に咲く花のようでもあったし、もっと単純に空や海の色をも連想させた。


 これまでずっとハイネルは目の色なんて肌の色や髪の色同様、単に人を区別する上での特徴の一つでしかないと思ってきた。自分自身の容姿を含め、人の美醜にさほどの興味を持たないハイネルにとって、その人間が持つ色彩上の特徴など、それこそデータの一部にしか過ぎないのである。


 グーデリアンの青い瞳。


 あんな風に、何の前触れもなくこちらの心臓に直接切り込んでくるかのような衝撃を与える色には、一度だって会ったことがなかった。
 だから、・・・それだからなのだとハイネルは思う。自分がキライなはずのジャッキー・グーデリアンをどうしても無視できず、彼の言動の一つ一つに振り回されてしまうのは。
 ・・・・・・それだけだ。


「・・・・あの目だけは、あの色だけは・・・気に入ってるんだ」


 自分に言い聞かせ、言い訳をしているかのような言葉がハイネルの口からもれた。
 それでも素直に『グーデリアンの目だけは好き』だと言い切らないのが彼らしい。それを言葉にしてしまうのは、グーデリアンに対する負けを認めてしまうことになるような気がして何だか悔しいのだ。

 ただでさえグーデリアンがいる時には彼にペースを乱されてしまうというのに、彼がいない時でさえ彼のことを考えてしまう自分がハイネルには信じられなかった。

 いつでも家族や友人以外ではマシンのことしか考えられなかったはずの自分の心の中に、一体いつの間にあの無礼で闊達で少年のような笑顔と鮮やかな青い瞳を持つ男が入り込んでしまったのだろう?

 どんな人間も、こんな風に容赦なくフランツ・ハイネルという人間の内部へと切り込んできたりはしなかった。


 グーデリアンが。ジャッキー・グーデリアンという人間だけがフランツ・ハイネルという人間を容赦なく揺さぶる。
 穏やかだった日常に嵐をもたらし、以前と同じではいられなくしてしまった。もうグーデリアンと出会う前のフランツ・ハイネルには戻れない。

 まるで、マシンやレースとの出会いがハイネルの人生を変えてしまったように、ジャッキー・グーデリアンという少年も彼の中の何かを徹底的に変えてしまった。

 ・・・・その『何か』がいったい何を差しているのか、まだハイネル本人にはハッキリと把握できてはいなかったのだけれど。















「ハイネル、マシンの用意はバッチリだぞ。いつでもプラクティスに出ていいからな!・・・・ハイネル?」


「あ、は、はい!」


 
 ヒルにいぶかしげに名前を呼ばれ、ハイネルは慌てて顔をあげた。ずいぶん長い間ぼんやりと物思いにふけってしまっていたらしい。

 普段から何事にもきっちりとしていてスキを見せないハイネルだが、ことにレース期間ともなるとピリピリとした空気に包まれていてチームクルーですら声をかけるのがはばかられるほどだ。
 そんな彼がクオリファイ当日のプラクティス直前にぼんやりしていたという事実は、彼をよく知っているヒルにしてみれば驚愕に値する出来事だった。
 らしくない様子を見せてしまったことを自分でも自覚しているのだろう。ハイネルは白い頬にうっすらと朱をはいている。咄嗟にうまく言いつくろうこともできずに戸惑った顔をしているハイネルは、いつもの大人びた冷たい印象がなりをひそめ、年相応の少年そのままに見えた。
 いつでも沈着なハイネルから、こんな風に瑞々しい少年そのものの部分を引き出すことのできる人間を、ヒルは一人だけ知っている。
 脳裏にあの強烈な印象を与える青い瞳を思い描きながら、ヒルは口元に浮かんでくる笑みを抑えることもせずに言った。


「ハイネル、お前はいつでも冷静沈着な『サーキットの精密機械』でいたいんだろうけどな、ホントは人並み以上の情熱家で感情の起伏が激しいんだよ。別に外見とは正反対に熱い性格をしてるのを隠さなくたっていいじゃないか。オレたちチームクルーは、みんなハイネルのそんなところが大好きなんだからな。・・・かわいいのなんのって。ムリに冷静を装ってるとこなんかたまんないな。そのツンツンとがった頭をぐりぐりなでまわしたくなっちゃうもんだ」

「・・・からかわないでください」


 憮然とした表情で言うのがまた少年らしくてますますヒルの笑みは深くなった。ハイネルのことを『かわいい』と評したのはからかいでも何でもなくて彼の本心である。もちろんそのかわいさは、年の離れた弟に対するような感情からくるものではあるのだが。

 とっつきにくいように思われているフランツ・ハイネルだが、その外見や雰囲気にだまされずに一歩を踏み出してみればこんなにも素直で柔らかな一面を持っている。
 そんな彼の一面を知っているのは彼の家族と近しい友人以外には自分たちチームクルーだけだったはずなのだが、いつの間にかそれに傍若無人なアメリカ人レーサーが加わっていた。


 視界に入れば絶対に目をそらせなくなる、強烈な印象を与えるアメリカ人レーサー。彼は容姿も走りも派手で大雑把で、それでいてムダがない。時として鋭い刃のような厳しく鋭い雰囲気をも身にまとうこともある。まさに怠惰にして優雅な獣のような男だった。


 彼の存在が眠っていたハイネルの激情を呼び覚まし、感情をも冷静にコントロールできるはずの彼の、感情豊かで情熱的な本来の姿を引き出した。長年ハイネルと共にレース世界を渡り歩いてきたチームクルーたちの誰もができなかったことを、あのライバルのアメリカ人レーサーがいともたやすくやってのけたのだ。
 そういう意味では、フランツ・ハイネルは確かに特別な相手に出会ったのだと言ってよかった。


 ヒルはそれをうれしく思うと共にさびしくも思う。


 まるで手塩にかけてきた娘をどこぞの馬の骨に横からかっさらわれた父親のようだ、と自分の立場を評してヒルは苦い笑みを口元に浮かべた。あながち外れてもいないあたりがさらに苦々しい。
 かわいい娘をさらわれた父親の立場としては、せめてレースでは憎い(あのキャラクターを心の底から憎むのはヒルにはムリだったが)アメリカ人を一泡吹かせてやりたいものである。

 ヒルは表情を改め、何気ない口調でハイネルに告げた。



「ジャッキー・グーデリアンはもうトラックに出てるぜ。けっこう調子いいみたいだな。狂ったみたいに第二コーナーでもスロットルを開けてるよ」


 その言葉にハイネルの顔がすっと引き締まる。レーサーの顔だった。


「おふざけの時間は終わりです。ヒルさん、すぐに出ますから通達を」


 もちろんヒルは一つうなづき、すぐに他のチームクルーたちにマシンを出すよう指示を出したのだった。
 












 すでに準備ができていたマシンは、いつもと同じようにハイネルを迎え入れた。


 マシンに乗り込み、深呼吸を一つ。


 すう、と音がするほど大きく息を吸い込めば、それだけで肺だけではなく、心まで清浄な空気で満たされていく。
 グーデリアンのことを考えるといらいらとしてきて、自分でも手に負えないほどの混乱に襲われてしまうのだが、そんな雑多な思いがウソのように引いていくのをハイネルは感じていた。

 長いまつげを伏せて視界を閉ざせば、体中の神経がむきだしになったかのように感覚が鋭敏さを増していく。マシンの細かな振動が体中を巡る血を熱くたぎらせ、眠っていた獣の本能を揺り起こすかのようだった。

 ゆっくりと目を開ければ、そこから深い色をした緑の瞳が姿を現す。穏やかに澄んだ湖のような色をたたえている瞳が、今は静かな焔をその奥で燃やしていた。



 自分のどこにこんな情熱が隠されていたのだろうかとマシンに乗り込むたびハイネルは思う。


 体中に感じるマシンの細かい振動が、水素燃料のかすかな匂いが、マシンの中にいてさえも感じるサーキットの熱い空気が、普段は深い底に沈んでいて表にはあらわれないはずの原始の本能を容赦なく叩き起こす。


 それはまさに原始の本能、獣の衝動だった。誰よりも自分こそが速く強い存在なのだと周りのすべてに見せつけたい。己の強さを誇示したい。
 ・・・そのためには、ライバルは強ければ強いほどいい。その方が倒した時に喜びと価値が増すから。


 ・・・・・ジャッキー・グーデリアン。自分のマシンであの青い目をしたアメリカ人のマシンをねじふせ、振り切ってみせたらどれほどの高揚と満足感を得られることだろう。考えるだけでぞくぞくしてくる。


「出ます!」


 短く、鋭い声とともに、ハイネルの操るマシンがピットレーンを飛び出していった。


 



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