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「信じられない、信じられない、信じられない!!」
ハイネルは肩をいからせ、足音も高く街を行きながら考えていた。
後から後からいろんな思いがポップコーンみたいに弾けて頭の中をぐしゃぐしゃにかきまわす。
何もかもが信じられなかった。
グーデリアンとのキス。そのシーンが脳裏にひらめいてはハイネルの頬を勝手に熱くする。
グーデリアンの唇は思っていたよりもずっと柔らかく、思っていたよりもずっと優しく自分の唇に触れてきた。
彼のキスは想像よりも甘く優しく、でも抵抗する意思さえ忘れさるほど巧みに意識をさらっていった。優しいようでいて自分の意思は貫き通す、そんな所だけはいかにもグーデリアンらしいと思う。
・・・・・・・・・『思っていたよりも』?
「バカな!それじゃあ私があいつとキスするのを以前から想定していたみたいじゃないか。私があんなバカとキスをする想像なんて、日が西から昇ったってありえるものか!」
ただでさえ頭の中がぐしゃぐしゃに混乱しているというのに、そんなことを考えてしまったばかりに自分で自分の思考に腹をたて、余計に頭に血がのぼっていく。
グーデリアンと「また」キスをした。
どんなに否定したくてもそれは事実だ。・・・それも、明らかに友人同士が交わすような軽いものではないキスを。
それだけじゃない。それだけで済めばまだ良かったのに。
・・・・アマンダという女性にキスをしているグーデリアンを見て、一気に目の裏が赤く染まった。
あの時の気持ちをどんな風に表現すればいいのかハイネルにはよくわからなかったが、見る者が見れば考えるまでもなく即座に「やきもち」の一言で結論を下しただろう。
とにかくあの光景を目にした時に、ハイネルはそれまでに感じたことがないほどの激しい感情が一瞬にしてわきあがってくるのを感じたのだった。そして、いつでも自分が理論的で冷静でいられる人間だと信じていたかったハイネルに、あのシーンは容赦なく反旗をひるがえしてきたのだ。
フランツ・ハイネルは自分でそう望み、周囲がみなしているような冷静沈着なマン・コンピュータなどではなく、ささいなことでひどく感情を揺さぶられることのある血の通ったただの人間にしか過ぎないのだと。
・・・そう、どんなに冷静でいたくても、彼の心は簡単に波うち、かき乱される。感情の波に溺れそうになってしまう。
ジャッキー・グーデリアンというたった一人の少年がこの世に存在する、ただそれだけのことで。
どうしてあんなに。
夜風が心地良い冷たい手でハイネルの頬に触れていく。ようやく少しだけ常の平常心を取り戻した彼は、どこか途方にくれた思いでぼんやりと考えた。
・・・・どうしてあんなに、グーデリアンに感情をかき乱されてしまうのだろう。
ぼんやりとした答えが胸の奥で形を成しそうになっているのが自分でもわかる。でも、まだそれをハッキリと見すえる勇気は彼にはなかった。
今の彼にハッキリとわかっている事実は、一つだけだった。たった一つの事実。
嵐が来ている。
ハイネル自身の思惑も意思も理性もすべて無視して、圧倒的な力を持つ嵐がやってくる。
そして、その嵐はジャッキー・グーデリアンという少年の形をとっていた。
次の日、レース場でハイネルは極力グーデリアンを避けた。今回のレース、グーデリアンと彼のピットはわずかチーム2つ分しか離れていなかったというのに、わざわざ遠回りしてグーデリアンのチームのピット前は通らないようにする徹底ぶりである。
だが、土台同じレースに出場する予定のレーサー同士がまったく顔を会わせずに済むと考えること自体が間違いだった。
ハイネルの『せめて今日1日くらいはグーデリアンと顔を合わせずに済みますように』との願いは、ものの15分ほどではかなく砕け散ることとなったのである。
「・・・・・」
ハイネルがカフェで紙コップ入りのコーヒー(もちろんグーデリアンが飲んだら一発で吹き出しそうなほど濃いヤツだ)を購入してピットに戻る帰り道。彼はこの世で最も顔を合わせたくない人物を発見してしまった。
遠くからでもこの上なく目立つ黄色い頭に真っ赤なバンダナ。派手なガラのレーシングスーツ。言うまでもなくジャッキー・グーデリアンその人である。相手の方もハイネルの存在にすぐ気がついたらしく、視線の先でわずかに青い目が見開かれたのがわかった。
すぐに回れ右したい衝動にかられたハイネルだったが、そこはフランツ・ハイネル。生来の負けん気が顔を出してきびすを返しかけていた足を止めた。視線を険しくしてテキが近寄るのを待つ。
当然ながら、グーデリアンの方もひく気は全くないようだった。
あと10メートル。5メートル。3メートル・・・・・・そしてグーデリアンの足がぴたりと止まる。
ハイネルに鋭い目でにらみつけられていながら、グーデリアンは軽くいなすように肩をひょいとすくめただけだった。それから、わざとらしく軽い口調であいさつの言葉が告げられる。
「ハイ、Mr.fuddy duddy!調子はどうだい?あいさつのキスをしたいとこだけど、ショックで卒倒されると困るからやめとくよ。残念だけどね」
わざわざハイネルの使うイギリス発音をまねてイギリス的言い回しをしてきたグーデリアンに、ハイネルのしなやかな眉がつりあがった。
平たく言えば、彼はハイネルに『こんにちは、時代遅れさん』とあいさつをしてきたのである。
こんなヤツに返す言葉はないとばかりに無言でにらむ力を強くすると、相手はまたもや肩をすくめた。今度は皮肉げな仕草だった。
ハイネルを斜め上から見下ろすようにし、元々のアメリカ英語に切り替えて吐きすてるように口にする。
「ヨーロッパ育ちの深層のご令嬢は、オレみたいな歴史の浅い国で生まれ育った馬の骨にかえすあいさつの言葉はないってわけかよ」
「誰がご令嬢だ!私はその人間の生い立ちや故郷で人を判断するようなことはしない。お前みたいな礼儀知らずとかわす言葉など知らないだけだ、Mr.rude!!」
ハイネルは常日ごろグーデリアンに対し『これだからガサツなアメリカ人は・・・』と思いっきり人を生まれ故郷で判断したようなセリフを口にしているのだが、高い棚にそれを置き去りにしたまま忌々しそうに言葉を返した。
・・・ちなみに、rudeといえばもちろん礼儀知らずの意味だが、口語では「わいせつな」の意味を含むこともある。わかってやっているのなら対した皮肉だった。
思いもかけず激しい言葉がかえってきて、瞬間グーデリアンは素の表情に戻った。何というか・・・きっとハイネルは自分の挑発を無視して受け流してしまうか、怒ってその場を立ち去ってしまうかするだろうと踏んでいたのだ。
だが、ハイネルは逃げなかった。グーデリアンの言葉をそのまま受けとめ、なおかつ負けないように対峙してきた。
ハイネルの緑の瞳の奥に、めらめらと燃える炎が見えそうなほどである。彼はその目でグーデリアンをにらみつけていた。
今、彼の視界にはグーデリアンしか映っていない。彼の思考を占めているのもグーデリアン一人だけだろう。
そして、・・・・怒っている時のハイネルの瞳は、緑の光彩がキラキラとした光を放って本当にキレイだった。誰にも見せないように閉じ込めて、いつまでも自分一人で見つめていたくなってしまうほどに。
突然黙りこんでしまったグーデリアンに更なるいらつきを感じたのか、ハイネルはあからさまに不快な表情を浮かべたまま、またもや口を開いた。
「・・・・とにかく、お前と関わるとロクなことがない。もう私に近寄らないでくれ」
そのままグーデリアンの横を通り過ぎていってしまおうとする。
考えるよりも先にグーデリアンはその腕をつかんで自分の方に引き寄せていた。
突然腕をとられて後方に引き寄せられたハイネルが、バランスを崩して手にしていたカップを落としてしまう。
だが、そんなことを気にする前に気がつけば彼は両腕をグーデリアンに取られていた。
思わぬほど近い距離にグーデリアンの青い瞳がある。
うっかりその目と目を合わせてしまい、ハイネルは自分たちが置かれている状況をすべて忘れてその目に見入ってしまった。
ここがサーキットで、しかも今はレース期間中で、自分たちのほかにレーサーもクルーたちも話題に飢えている記者たちさえも跋扈しているのだという事実は、グーデリアンの青い目を視界に入れた途端に吹っ飛んでしまった。
青い、青い瞳。レースをしている時の空のような、心が休まり、そして同時に心騒ぐどこまでも澄んだ海のような色。
・・・いや違う。この青い色は空のものでも海のものでもなく、ジャッキー・グーデリアンという一人のレーサーのものだ。ジャッキー・グーデリアンというただ一人の人間だけが持つ、ただ一つの色。
この目に見つめられるとくらくらする。
体中がざわついてきていてもたってもいられないのに、このままじっとしていつまでも見つめられていたいような気もする。
・・・・自分が自分でわからなくなる。
怒ることも忘れ、息を呑んでハイネルがその目を見つめていると、グーデリアンが口を開いて意外な言葉を口にした。
「ハイネル。お前はオレのことを忘れたいんだろう?」
「・・・なに、何、を」
いきなりグーデリアンが何を言い出したのかがわからなくて、ハイネルはあえぐような声を出してしまった。青い目に胸をわしづかみにされてしまい、呼吸の仕方さえ忘れてしまったような錯覚に襲われている。
「お前はオレのことを、・・・・オレが口にしたことや、お前にしたことを忘れたいんだ。オレがお前に好きだって言ったことや、キスしたことを」
「なに・・・こんな、こんな所でいきなり何を言い出すんだ!!」
こんな場所で口にするにはあまりにもキケンなセリフに、今度こそハイネルは我にかえって自分の腕を拘束していたグーデリアンの手を振り払った。
グーデリアンのセリフなどを間に受けて真っ赤になってしまった自分自身の反応が忌々しかったが、どうしようもない。
今度こそ自分が怒っているのだということをグーデリアンにわからせるべく乱暴な仕草で相手のたくましい胸を押し返し(渾身の力を込めたつもりだったのに、グーデリアンが2歩よろめいただけで持ちなおしたのがまたシャクにさわったのだが)、その場を去る決心をする。
今度はグーデリアンが実力行使でハイネルを引き止めることはなかったが、その代わりに声がかけられる。
「ハイネル!!」
これが最後だ、とばかりに眉間に深い皺を刻んだハイネルが首だけを巡らせて振り向くと、少年そのものの屈託のない表情をしたグーデリアンが、少年そのものの伸びやかな声を張り上げて言葉をかけてきた。
「ハイネル、お前がどんなにあがいたって、お前はオレを無視できないんだぜ!オレにはわかってる。レースでも、それ以外でも、お前は絶対にオレを無視できないんだ。オレをお前から切り離すことなんてお前にはできやしないんだ。オレにはわかってるんだぜ、ハイネル。お前はオレから目が離せないんだ!」
その言葉に不本意にも胸をわしづかみにされたような感覚を覚えながらも、かろうじてハイネルはその感情を表情にあらわさずに済んだ。こんな時には自分が感情表現豊かな方でなくてよかったと心から思う。
「・・・何を根拠に、そんなバカなことを」
「オレがそうだからさ!」
ハイネルが冷たい口調で言ったというのに、かえってきたのは底抜けに明るいグーデリアンの笑顔と声だった。
本当に、太陽よりもまぶしい笑顔を彼は浮かべていた。
「オレがハイネルのこと大好きで、レースでもそれ以外でも意識せずにはいられないから。だから絶対にハイネルもオレを意識しないではいられないはずなんだ」
グーデリアンの青い瞳は対象物をまっすぐに貫き、屈託のない笑みを浮かべた口元はすべての人間の視線を奪う。伸びやかな明るい声は聞く者の胸を騒がせる。
太陽の熱に焼かれたように、胸の一部が熱く熱くなったような気がした。
だが、それをグーデリアンに悟られるわけにはいかない。ハイネルは内心の動揺を押し隠してつとめて冷静そうな表情を浮かべ、自分に訪れたわけのわからない衝動に耐えなくてはならなかった。