Gargoyle 8
噛み切られた肩口の傷をハイネルの舌が何度もぬぐう。血の噴出は傷の深さに比してかなり少なく、彼が唇を離した時には奇妙な赤黒い穴が突如出現した闇のようにぽっかりと口を開けているだけだった。
「うっ・・・うっ・・・・う・・・・・・」
低いうめきを何度もあげ、男は長い放出を経たあげく果てた。それと共に体から力が抜け、ベッドに倒れ込む。
今この場に踏み込む者がいれば、この光景を何と思っただろうか。肩口に噛み千切られたとしか思えぬ傷を負ってベッドに沈んでいる男。だが着衣のまま精を繰り返し吐き出したことが容易に見てとれ、表情はむしろ穏やかである。
そして深い眠りの縁にある男を見下ろす影。彼が造り出している淡い影がベッドの白いシーツと、その上に横たわる男を覆っている。それさえも彼の愛撫ととり快楽の礎とするのか、意識のない男の欲はわずかに張りを取り戻していた。
まばたきさえせずに見下ろす緑の瞳は冷たく、何の感情も見えない。
端然とした顔は白く静まり月に冴え、人としての息吹さえ疑われた。
忍び込んだ柔らかな夜の風がわずかに乱れていた栗色の髪を揺らし、そこで初めて彼は呼吸をすることを思い出したかのように胸を大きく喘がせた。
「・・・・っ」
氷のように冷たい夜気が熱い体をわずかに醒ます。新鮮な空気を胸腔に満たすと、口の中に嫌な感触が広がった。舌に残るざらついた粘液と鉄の匂い。
血だ。
それを意識した途端に憎悪とさえ呼べる不快な感覚が背中から這い上がり、彼は恐慌をきたさぬよう理性を総動員させねばならなかった。ひたひたと背筋を這いのぼってくる焦燥と不快感をこらえ、彼は心の中で繰り返す。
大丈夫、やることは決まっている、分かっている。
まず男の体をベッドに横たえ、シーツをかける。乱れたシャツやネクタイはあえてそのままにしておいた。次に彼がしなければならないことはアルコールの確保である。男が滞在するスイートには簡易なバーシステムが設置されていたため、そこから男が好みそうなワインやウイスキーを取り、中身を幾らか流しに捨てた後ベッド脇のナイトテーブルに置いた。
彼がしなければならないのはこれだけである。
アルコールと快楽。与えておくのはこれだけでいい。
快感と痛みの狭間にあって半ば以上意識を飛ばしていた男は、それでもおぼろげに今夜のことを覚えているかもしれない。彼が男を操れるのは悦楽と恭順さのみであり、記憶まで支配できるわけではない。
しかし人というものは奇妙な生物で、自分が実際に経験したことよりも『常識』の二文字に縋りつきたがるものだ。
明日目覚めた時、男は驚愕するだろう。肩には野性動物にでも食われたかのような尋常ではない怪我を負い、精を放ち続けたせいで半身は惨憺たる有様だ。
だが一体誰が信じるだろうか。彼が、あのフランツ・ハイネルが獣のように肩の肉を食らい、その血を啜り、その感覚だけで何度も男を絶頂に押し上げたなどという話を。
そんな話を信じる者など一人もいないに違いない・・・・この男自身を含めて。男はやがてナイトテーブルにアルコールの瓶を見つけ、そこでようやく論理的帰結を得て安堵するのだ。昨夜はあまりにも放埓な女、あるいは男を買って羽目をはずしすぎたのだろうと。
しばらくの間、男は残された傷に苛まされるに違いない。痛みよりも、むしろその刺激がもたらすえも言われぬ感覚に。快楽の残り火に。
男は焦がれるだろう。涙し、渇望するだろう。影のように自分を追いつめ、包み込み、支配つくしたあの快感を。あり得ぬ背徳の一夜を。
そして、その一夜はけして再び訪れない。
ハイネルにとって、それは儀式だった。まさに神の打擲だった。
時が満ちると彼の体は飢える。これは彼の体に刻まれた呪いである。
そして彼に課せられた呪いは吸血ではない。彼にとってはそれさえも代替行為に過ぎなかった。
あの日。ピット裏で淫らな行為に耽っていた二人の姿を目にしたあの日。
初めて激しい飢えを知ったあの日からこれまで、彼が血を貪った数は多くない。鉄の理性で気休めにしかならぬ薬にすがり、何とか自分を抑えてきた。この先も人としての枠を越えずにやり過ごしていけるはずだった。
彼が人の血を口にしたのは先日のパーティー会場が初めてだった。口にしたアルコールが悪かったのかあるいは毒気にあてられたのか、あの時はただでさえ効用のない薬が全く役に立たず、何とか気を鎮めようと逃げ込んだレストルームにまでしつこい男が後を追ってきたので瞬間的に我を失ってしまったのである。
動揺のあまり男をそのままその場に残してきてしまったが、男はやはり酔い故の混乱と自分を納得させたようだった。
唯一の誤算は、それを見た者がいたことである。
あの、冷たい青い瞳で・・・・・。
「・・・・・っ、は、・・・・・・」
軽い眩暈に襲われ、ハイネルは額に手をあてた。男の血を啜っていた時には血の気の感じられなかったそこに、今や熱のせいでじわりと汗がにじんでいる。
後始末を追え、ほんの少しリビングで休んだらホテルを後にするつもりだった。自室に戻り、薬を飲み込んで眠りに入ってしまえばとりあえず今回の飢えはしのげるはずだったのである。
「血を取り入れたばかりだというのに・・・」
リビングのソファに倒れ込むように体を沈め、ハイネルは苦く吐き捨てた。体がゆっくりと、確実に熱を育てつつあるのが分かる。
「もう・・・飢えが・・・」
青い目をした男にあの日抱かれた。ジャッキー・グーデリアンに。深く交わり、声をあげ、すがって懇願した。初めて男の体を受け入れ、精を受け、歓喜の涙を流した。
それ以来飢えはますます強まり彼を苛んでいる。もはや薬は気休めにもならず、抑えていても数ヶ月ごとに激しい衝動が発作のように訪れて吸血行為を促した。他人の血を啜るなど彼にとっては唾棄すべき行為だったが、それでも自分の体が欲するものをそのまま取り入れるよりは数倍マシだった。
正確に記するならばフランツ・ハイネルが飢えるのは血にではない。彼は男の精を欲して飢えるのである。その時が来ると体の内側から細胞という細胞が乾ききり、意識の一部が焼き切れそうに熱くなる。
男の精を。・・・それが叶わぬのならせめて血を。
もちろん心はこれ以上ない程嫌悪する。しかし体はそれを求める。体の飢えと、精神の迷い、憎悪、困惑。肉体と精神の葛藤。彼は疲弊し、それでも自らを律してきた。
それをジャッキー・グーデリアンが粉々に打ち砕いたのである。
実際に彼に抱かれ、貫かれ、精を注がれてハイネルはこれ以上ない程満たされた。飢餓が激しい分その充足感はすさまじかった。
そして一度満たされることを知った体は際限なく次を欲してくる。熱い精を注がれることをこの体は渇望している。
取り込んだ血が体の飢えを、昂ぶりを鎮めてくれるのは一時のことだ。それはまやかしの類に過ぎないとあの男は体でハイネルに教え込んだ。
「ダメだ・・・・薬を・・・・・・・」
眩暈で視界が揺らぎ、ハイネルが薬を常に忍ばせているスラックスに手を伸ばそうとした時だった。場違いに高い音が鳴り響いて彼を驚かせる。
闇を切り裂く雷光のように、唐突に大気を震わせたのは電子音だった。小さな音だが、静まりかえった部屋ではやけに響いて鼓膜を打つ。
ハイネルは音を放っている携帯電話を取りだし、画面を見つめながら一気に体が冷えていくような感覚を味わっていた。強張る指で、それでも通話ボタンを押す。とたんに耳に吹き込まれた声に我を忘れそうになった。
『いい夜だな、ハイネル』
「・・・・・グーデリアン・・・・」
『ああ、見ろよ、今夜は月がキレイだ。お前はまだ男の部屋にいるのか?』
「お前には関係ない」
精一杯冷たい声を出したつもりだったが、耳に押し当てた受話器の向こうの声は忍んだ笑いを零していた。少し抑えた、低めの声。この声を耳に注がれるとぞくりとした感覚が背筋を走る。いっとき忘れていたはずの熱さが足元からじわりと這い上がってくる。
『どうせ鎮まらないんだろう』
優しささえ感じられる穏やかな声で男は言う。
『無理をするな。体が命ずるままに振る舞えばいい。・・・・オレが抱いてやるよ』
「・・・・冗談ではない」
『もちろん冗談じゃない。オレは優しかっただろう?』
こんな風に、と言って男は舌で送信口を舐めあげた。
『オレは舌でお前の耳を、首筋を、胸を、そして欲望を高めただろう?お前は泣きながら何度もオレに縋って言ったぜ。"もっと"ってね』
体をたどるグーデリアンの舌は熱く淫らだった。
『指を滑らせて・・・』
シャツ越しに乳首を舐めあげられ、固く尖ったそこを指で押しつぶされてハイネルは熱い息をもらしてグーデリアンの首に回した両手に力を込めた。
『オレはお前を犯した。お前は何度もオレに犯された。・・・覚えてるだろう?』
「・・・・っ」
覚えてなどいないと言えぬ自分が腹立たしかった。