Gargoyle 9


『飢えてるんだろう?』

 囁くような声だった。
 残酷で優しい声。男が発する声が耳に届くだけで、
ハイネルの首筋をぞくりとした戦慄がはしる。乾ききった喉に注がれるワインのように、その声は甘い誘惑に満ちていた。

『男が欲しいんだろう?』

一度乾きを満たすことを知った体は、その甘い雫を一口取り入れれば理性や道徳の鎖など易々と引きちぎり、貪欲に全てを求めるだろう。
 夜のない砂漠を思えばいい。熱砂に灼かれ、乾ききった体に水を差し伸べられれば、それが毒を含んでいると知っていても口に含まずにはいられまい。
 現に声を聞いているだけだというのに、体の内側からじわじわと拡散していく熱を持て余したハイネルは片手で自分の体を抱きしめている。自らの腕を傷つけるかのようにきつく立てられている爪が、唯一彼の肉体と精神の葛藤を物語っていた。


『男を欲するお前の飢えを』


 この男が初めて彼の体内で精を放った時、彼の体中が歓喜してこれを受け入れた。繋がっている熱い場所から迸った精が細胞の一つ一つにまで浸透していくあの感覚。


『・・・お前の飢えを鎮められる男はオレしかいない』


 この男の声は、彼の体の奥深くにまで入り込んで熱を放ち、その熱で理性をも溶かす。何度も注ぎ込まれた時の生々しい感触を思い出し、彼の体が大きく震えた。


『ハイネル』

「私の名を呼ぶな!」

 立ち上がりざま手にしていた携帯電話をテーブルに叩きつけると、鈍い音がして彼の生活に必要不可欠なその機器は永遠に沈黙した。


「はあ・・・・っ」

 
 喉が乾く。
 汚らわしい男の血を啜っていたわずかな間だけは満たされ、抑えられてていたはずの体の欲望が明確な主張を始めている。

 男達の生命の証。原初の雫。

 熱い精を体に取り込むことをフランツ・ハイネルの体は欲している。彼の体は定期的に他人の・・・男の生命の脈動を取り入れねば飢える呪いにかかっている。本能のままに浅ましく体を交わらせ、歓喜の声をあげ、他者の精を、命の証を体内に取り込みたいと願う欲望。それは獣の呪いだった。
 月の満ち欠けと共に彼を狂わせる、呪われた律。


 他者の精を。

 それが叶わぬのならせめて血を。


「薬・・・・薬を・・・・・」


 今や慰めにもならぬと分かっている白い錠剤にすがるべく、幽鬼のようにふらふらとした足取りでバスルームに向かいながら、彼は必死でスラックスに忍ばせた瓶を探り、蓋を取り去った。
 燃えるように熱い体に比して指先は死人のように冷たく、感覚がない。自らの体の内から沸き上がってくる衝動を抑えつけるのに心奪われていた彼は、自分以外の影の存在に気づけなかった。

 長い影。

 その向こうに一人の男が立っている。



「お前が男を欲しがるのは一種の病なのか?」

「!」

「急に応答が無くなったから心配したんだぜ」


 そう言い、男は自分の携帯電話をニ、三度彼に向けて振ってみせると、急に興味が失せたかのように無造作に床に放った。
 ニ、三ボタンが開けられて胸元ののぞいている白いシャツと、紺色のスラックス。
 男にしては簡素な装いではあったが、間違えるはずもない。バスルームへの道を閉ざすかのように立ちはだかっていたのは、フランツ・ハイネルの意識が誰よりも拒み、フランツ・ハイネルの体が誰よりも欲している相手だった。手にしていた薬瓶が足元に転がったことにさえ気づかずに彼は呆然と男を見つめていたが、やがてその視線を厳しいものに変えていった。
 錐のように鋭い視線の切っ先を向けてきた彼の意図を汲んだのだろう。男はいつものように少し口元を緩め、笑いの気配を漂わせた声で種明かしをした。


「ハイネル。・・・オレのレーサーとしての地位や知名度は、お前が思っているよりは高そうだぜ?」

 その返答に何かを察し、細められたハイネルの瞳が更に鋭い光を発する。自然、問いただす声は厳しいものとなった。

「・・・自分の名を利用してここを探りあてたのか」

「人聞きが悪いな。スポンサーとの折衝でホテル暮らしが続いているレーサーはお前だけじゃないんだぜ?オレのファンだと言うこのホテルのオーナーが、聞いてもいないのに教えてくれたのさ。同業者と親睦を深めて欲しいとの親切心かららしい。オレは親切には報いる義理がたい男なんだ」

「何が親切だ!ならば何故貴様はここにいる?この部屋の名義は私ではない!」

 彼がそう口にした瞬間、男の口元からかりそめの笑みが消えた。急に両手首を取られて乱暴に引かれたハイネルが痛みにうめいたが、男は構わずその体を引き寄せると、透き通るようなグリーンアイズを間近にのぞき込みながら問いかけた。

「お前こそ何故ここにいる?他の男名義の部屋に」

 薄い闇のせいでダークブルーに染まった瞳が、抗いがたい底光りをたたえている。

「私は・・・・!」

「フランツ・ハイネル。お前は男に抱かれないと生きていけないのか?」

「違う!!・・・・・んっ」

 
 急に男の片手で顎を取られたかと思うと、次の瞬間にはもう唇を塞がれていた。言葉を発しようと口を開いていたために相手の舌の侵入を容易に許したハイネルは、突然呼吸を妨げられた息苦しさにあえいだ。

「んん・・・・・!」

 初めから奥深くにまで入り込んだ舌に口蓋を探られ、ハイネルの背中がぴくりと震える。
 抗議のために伸ばされた彼の両手は、男のシャツの肘あたりをつかんだ。熱い舌が絡みつき、吸い上げ、生き物のように蠢いていく。濃度の高いアルコールを飲まされているかのように、口中がかっと熱くなっていった。

「う・・・・んう・・・」

 跳ね除けるために伸ばされたはずの彼の手は、やるせなく男の肘にすがって皺を作った。男の唇がずれ、ようやく呼吸の自由を許された時には何度も胸を上下させて熱い息を吐いた。

「はあはあはあ、・・・・・あ、」

 男の唇が耳の裏に触れ、耳朶を含んだ。
 彼が吐き出す息と同じように熱い男の吐息が言葉と共に流し込まれ、彼の背筋を震わせる。

 乾いた砂に水は瞬く間に浸透していく。

 いつしかハイネルの両手は男を拒むためではなく、受け入れるために男の太い首筋に巻きつけられていた。彼の両足を割って男の足が差し入れられただけで、彼の唇から色のついた声が洩れた。


「男が欲しいんだろう?ハイネル」

「違・・・う・・・・。あ、」

 男に押されるようにして自分達が移動していることにもハイネルは気づけないでいた。陶器のように白く鎮まっていたはずの頬が上気し、目許が朱を刷いている。
 
 そうして辿りついたのは、ハイネルだけが知るはずの儀式が行われた場所だった。



 







 ハイネルの目の前で、男はまだ浅く深い眠りの縁を漂っている。時折獣のうめきにも似た声が洩れるのは食いちぎられた肩の痛みゆえか快楽の熾火ゆえか判然とはしない。恐らく両者が渾然となり、男は苦痛と快感の狭間を行き来しているのだろう。



 それは奇妙な光景だった。



 ベッドの上には男が一人横たわっている。身につけた服は乱れ、肩口にはひどい噛み傷、そして着衣のまま何度か吐精した跡も見られるが表情はむしろ穏やかである。時折うわ言のように人の名らしき言葉を呟きかけるが、それは必ず最後までは音にならず、男は再び眠りの縁に引き込まれるのだった。すぐ脇のナイトテーブルには開栓されたアルコール瓶が並べられており、まだ部屋にも酒精の香りが残っていた。


 その男の膝元あたり、ベッド脇に青年の手の甲が見える。細く長い指はシーツを絡みとり、かき乱し、そこに細かな波を作った。時折負荷がかかるのかベッドに置かれた青年の手が深くシーツに沈み、ベッドがぎしりと音をたてて揺れる。


「あ、あ・・・もう・・・」

「まだダメだ」


 ベッド脇に手をついた青年、ハイネルの背後に影のように重なった男の、・・・グーデリアンの手は、前に回ってスラックスの下に潜り込み、直接彼の欲望に刺激を与えていた。わずかな愛撫で見る間に形を変えていったそれは、グーデリアンの手の中で着実に熱を育てあげ、解放の時を待ちかねている。
 足の長いベッドとは言え、長身の彼が力の入らない両足を伸ばしたまま半身を折ってベッド脇に手をつく姿勢はかなり辛いに違いない。すぐに膝と肘から力が抜けて床に崩れ落ちそうになるが、そのたびに背後から伸ばした腕で男が彼を抱きかかえ、けしてそれを許さないのだった。
 まるで今は意識を失っているベッドの住人が、いつ目覚めてもいいように準備を整えているのだとでもいうかのように。


「ああ・・・」


 敏感な先端を指の腹でこすりあげられ、鼻から抜けるような声が漏れた。半ば啜り泣くかのような響きが声に混じりはじめている。
 体が密着しているので背後にいるグーデリアンの欲望もとうに昂ぶっているのが彼にはよく分かっていた。衣服ごしにでさえ感じられる、その覚えのある逞しさと熱さに神経が焼き切れそうになる。


「・・・・・」


 囁くような声に命じられ、ハイネルは足を開いた。
 緩められていただけのベルトが引き抜かれ、下着ごとスラックスが落とされる。直接外気に触れた足が冷やりとした冷たさを感じ、熱を孕んでいる欲望の熱さをさらに意識せずにはいられなかった。

 湿気を含んだ夜の濃密な大気がわずかに乱れる気配。グーデリアンがわずかに離れたのが分かった。安堵と、そしてわずかな失望の吐息が彼の唇から吐き出される。・・・次の瞬間。


「ああっ!」


 鋭い悲痛な声が緩慢に対流していた夜気を切り裂いた。両手から一気に力が抜け、肘をベッド脇についてかろうじて自らを支える。
 背後から男の大きな手がかかり、力を込めて左右に開いたかと思うと、何の施しもせずに男の凶器が入り口に突き立てられていた。

「あ・・・あっ・・・・う!」
 
 肘をついて上半身が沈んだ分、下半身は男に突き出されるような姿勢になっている。痛みと衝撃に混乱し、拡散する意識を拾い集めて何とか体制を変えようとするのだが、わずかにでも動く予兆を見せるとそのたびに男が尻にかけた両手に力を入れて自分の方へ引き寄せる。そうすることで更に深く男の欲望を体内に突き入れられることになった。息さえも上手く継げることが出来ぬまま、男の思うままに体を揺さぶられる。

「あっ、あ、あ、っ」

 抑えようとしても漏れる声は、男が腰を進めるたびに口をついて出るものだった。

 何の準備も施されていない男の体が、別の男の欲望を受け止めることなど不可能に近い。
 だが、男は巧みに腰を揺すりあげ、硬く反りたった欲望で彼の中を穿っていく。熱い欲で自分の体を切り裂かれるような感覚にハイネルの眉間には深い皺が刻まれ、こめかみには汗が伝っている。


「っ!ああっ!」


 男が首筋を舐め上げた時にはしったぞくりとした甘い感覚と、更に結合が深くなる時の衝撃や圧迫感。相反する二つの感覚が彼に声をあげさせている。
 ハイネルがあげる声は、野性の獣に食われていく哀れな犠牲者の苦鳴を思わせたが、同時に望むものを与えられた者が発する喜悦の声でもあった。



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