Gargoyle 7



 これは神の打擲である。





 初めてフランツ・ハイネルがその衝動を覚えたのは遠い昔ではない。わずか1年ほど前、そう、あれはジャッキー・グーデリアンという若くしてインディの覇者となったレーサーがハイネルの所属するサイバー・フォーミュラに移籍して間もなくのことだった。あるレースの予選前日、プラクティス時のことである。
 その日は急な天候の変化により路面状態が思わしくなく、ハイネルのチームはマシンのセッティング変更を余儀なくされていた。プログラムの書き換えにはディスクが必要となる。彼はそれを入手すべくピットの裏手を急ぎ歩いていた。


 どのチームも準備に追われて慌ただしく動きまわっている時である。ピットの喧騒とは裏腹に、ハイネルが行く裏手に人の気配は感じられなかったが、不意に飛び込んできた耳慣れない音が彼の足を止めさせた。レースの合間に耳にすることはない、柔らかな音の波動。歩を止めた彼は、無意識のうちに耳を澄ましていた。
 マシンがサーキットを駆け抜ける音の合間に届けられる密やかな空気のさざめき。ほどなくして彼はそれが女の笑い声であることに気づいた。ひそやかで甘く気だるい、毒を仕込んだ蜜のような声だった。


「・・・・・・・ふふ、・・・・」


 ハイネルは反射的に声がした方に視線を飛ばし、次の瞬間にはそのことを心の底から後悔していた。

 彼の視線の先、ピットとピットの合間の影に隠れ、女は男と口付けを交わしていた。
 女はハイネルにも見覚えがある。彼のチームのレースクイーンの一人だ。忍んだ笑い声を零しながら、女は男の唇に自分のそれを押し付けている。


 そして、男は確かにジャッキー・グーデリアンだった。


 今にして思えば、何事もなかったかのように立ち去れば良かったのである。目の前の女と男からまぶたを閉ざし、ざらりと神経を刺激する音を耳に入れなければ良かったのだ。彼が救われるにはそうするしかなかった。目を、耳を、そして精神を眼前の光景から閉ざすことしか。
 だが、その時の彼はそうすることが出来なかった。ハイネルの足は凍りついたように地面に張り付き、呼吸さえも忘れてその場に立ち尽くしていた。



 女の太腿と男の太腿が深く絡みあい、戯れに舌と舌が触れ合う。くすくすと洩れる女の笑声。細い指の先に乗せられた色は毒々しいブラディー・レッド。その爪が男の太く逞しい首をくすぐり、厚い胸板を辿り、女の太腿の影へと潜り込んだ。そのまま指が妖しく蠢きはじめる。

「・・・・・、・・・」

 男が唇を寄せ、女の耳元に名前らしき音を吹き込んだ。はっとしたように顔をあげる女。ハイネルと目があった。
 そこでようやく呪縛を解かれたハイネルは弾かれたように顔をそらし、その場を離れた。
 元より人目など気にならないのだろう。すぐにまた女の押し殺したような、あの毒々しい笑声が零れてきた。


 足早に立ち去るハイネルを激しい耳鳴りと困惑が襲う。脳が沸騰しそうなほど頭は混乱し、体の奥底から何か得体の知れない感覚が沸き上がってくる。

「・・・・」

 一度だけ振り返った彼を、男の青い目が貫くような視線で見つめていた。


















 それが引き鉄となったのかは判然としないが、フランツ・ハイネルの病が発現したのはその日が初めてだった。

 以来彼は定期的に襲いくる激しい衝動との戦いを強いられている。それは狂おしいまでの飢餓であった。細胞という細胞が乾ききり、体内を駆け巡る血は沸騰し、行き場を求めて激しく荒れ狂う。

 理性と規律の化身であるフランツ・ハイネルを蝕む、飢えという名の病である。月が満ちては欠けていくように、彼はこの理(ことわり)から逃れることはできない。

 今夜は満月だ。
 
 この日も涼やかな仮面の下で、彼は体のうちを狂おしく駆け巡る熱を持て余していた。





「・・・君のような品格のあるレーサーは全く少なくなった。嘆かわしいことだ」


 男は大仰に嘆息しながらそう言った。身につけたスーツと手にしたワインを見れば、男がそれなりの地位を築いていることはすぐに知れる。
 今夜のスポンサーはモータースポーツのファンだと公言して憚らないヨーロッパ屈指の服飾メーカーの社長だった。だが、口さがない者達は影で囁きあっている。この男が出資しているのはチームにではなく、フランツ・ハイネル個人に対してなのだと。中にはわざとハイネル本人に聞こえるように口にした者さえいる。

 だが、ハイネル自身はその風聞を全く気にしたことがなかった。何故なら、それが噂などではなく事実であることを告げられるまでもなく知っていたからである。

 この男はフランツ・ハイネルに欲望を抱いている。言葉の端々や不自然な距離感から、この男がハイネルに何を望んでいるのかは明白だった。

 そのこと自体はハイネルに何の感情ももたらさない。ハイネルは男に一滴たりとも意識を向けていなかった。嫌悪の情さえ。男が彼に対してどれほど醜く劣悪な衝動を覚えようが、それは彼の感知するところではない。
 男が脳裏に思い描いている醜悪な行為を実行に移そうとした時点で、完膚なきまでに拒絶すれば済むことである。


 しかし、今宵は月が満ちている。星の瞬きさえも打ち消す晧々とした青白い光が柔らかな闇色のヴェールを彩っている。

 この日は事情が違っていた。







 端然と整った白い顔。だが体のうちには皮膚を突き破りそうなほど激しい流れが渦巻いている。
 流麗な仕草でナイフとフォークを操っていた手を止め、しなやかなその指はワイングラスに伸ばされた。少量を喉に流し込み、芳醇な香りを楽しむ。
 白い喉がさらされ、ワインがそこを通っていく様を男がどんな目で見つめているかなど、見るまでもなく判りきっていた。
 男は今や食事の手さえ止めて彼の一挙手一投足に魅入っている。
 それがどういう効果をもたらすのか十二分に意識した上で、ハイネルは男を見た。熱のない傲慢な視線である。
 彼と目があっただけで男が息を飲んだのが分かった。

「アルコールが入ったせいでしょうか、少し熱くなってきましたね。それに、申し訳ありませんがこのところ予定が立てこんでいたせいで少々疲れているようです。そろそろここを辞して体を休めたいのですが・・・」

 ハイネルの言葉に、男が勢い込んで話をついできた。

「わ、私もそう思っていたところだ。幸い、私のホテルの部屋はこのすぐ下の階だ。つもる話もあることだし、少しそこで休んでいったらどうかね?」

 ハイネルは落ちついた、優雅な仕草でグラスをテーブルに置いた。グリーンの瞳は燃えるような輝きを宿し、口元には淡い笑みが浮かんでいる。きつい眼差しのせいか、その笑みは酷薄でさえあった。

 けれどハイネルはそれさえも良く知っている。こういう男達は、自分の冷たささえ情欲の炎の糧とするのだということを。











 ホテルの部屋に辿りつき、扉を閉めたところで男は前を歩いていたハイネルの肩に触れてきた。逸った気を隠すことなく伸ばされてきたその手を容赦なく打ち落とし、焦らすかのようにゆっくりと振り向いてハイネルは男の前に立った。
 彼が今日身につけていたのはシンプルなブラック・フォーマルである。細身で長身を包み込む黒は、彼のしなやかな体のラインを一層際立たせていた。凛然とした立ち姿を目にした男がごくりと唾を呑み込んだのが分かった。
 ゆっくりとした、美しい発音が彼の唇から発せられる。

「ベッドルームはどこに?」

 ハイネルの短い問いに、男は慌てて頭を振った。

「い、一番突き当たりの奥だ。だが、そこにソファが・・・・」

 男の声は滑稽なほど興奮で上ずっていたが、切羽詰っている男のことなど当然のように切り捨ててハイネルは奥へと歩を進めた。

 恐らくこの男は、これまでに何度もその権威と金で自らの欲望を満たしてきたのに違いない。今夜の相手がフランツ・ハイネルでさえなければ、男は相手を今この場で床に這わせていただろう。
 男は荒くなっている呼吸を隠そうともしていなかったが、凛然とした彼の佇まいは手荒な行為を無言で戒めていた。
 
 辿りついたベッドルーム。柔らかなルームライトで浮かび上がったその空間はひっそりと静まりかえっている。
 ハイネルは無言でライトを消し、代わりに厚いカーテンを左右にひいた。窓を押し開けばひやりと肌を刺す夜気と共に月の光が音もなく忍び込み、白いシーツに淡い陰影を作った。


「ここに腰掛けて」

 ハイネルに命ぜられるまま、男はベッドの縁に腰をかけた。ぎしり、と自重でスプリングがきしむ。
 ハイネルは窓を背に立っているので、月光によって生まれた影が彼の前に座らされている男の上に落ちる。 薄い闇の中から緑の瞳が見つめてくる。

 
「私にはけして触れないように」

 子供に諭すかのような優しい、しかし反論を許さぬ口調で言うと、彼は細く長い指を男のジャケットに滑らせた。そのままボタンを外していく。
 彼はカーペットに片膝をついて行為を進めたので、ベッドに腰掛けている男からは彼の秀でた額と半ば伏せられた瞳が見て取れた。
 無言で男からジャケットを剥ぎ取る仕草には無駄がなく、流麗でさえある。行為に見合わず冷静極まりない動きは、まるでストイックな探究者のようだった。
 どこから見ても清潔に整った青年である。だからこそ汚らわしい劣情を叩き付けたい衝動にかられるのだが。

「ハァ・・・・ハァ・・・・」

 男のジャケットが床に落ちた。ハイネルが投げ捨てたのである。無造作にものを投げる、その動きさえ彼がすれば艶やかだった。
 次に彼は男のネクタイの結び目に指をかけ、滑り落とした。何の感情の色も見せぬままだった。
 ネクタイはベッドに腰掛けている男の太腿の辺りに落ちた。その下の欲望は既に力を持ちスラックスを押し上げている。男の両手はシーツをきつく握り締めていた。耳障りな、熱くこもった息がハイネルの耳元に吹きかけられていたが、彼の表情も動きも変わらず冷やかだった。

 白い指がシャツのボタンにかかる。


「うっ」


 冷やりとした彼の指の感触。
 それを素肌に感じただけで男がうめいた。何度も腰を浮かせ、男は衝動に耐えている。ここで少しでも相手に触れたり、自分の欲に手を伸ばしたりすれば、フランツ・ハイネルは容赦なくこの場から背を向け、この先二度と冷たい一瞥さえ自分に与えてはくれないのだということが男には良くわかっていた。


「・・・いい子だ」


 今にも達してしまいそうな程スラックスの下で育っている欲を持て余す男の耳元にハイネルは言葉を流し込んだ。
 指がボタンを外されたシャツの下の素肌を這う。ハイネルの指は相変わらずひやりと冷たく、月の光のように熱を感じさせなかった。
 しかし、その冷たさが男の体を熱くしていく。放出を許されぬ苦痛が逆に与えられる快楽への期待を高めていく。
 するりと肩を撫でられたかと思うと、シャツが肩から落ちていた。

「貴方は約束を守った。だから私も与えてあげよう」



 これまで知り得なかった、えも言われぬ快楽を。


 
「っっっ!!」


 スラックス越しに彼の指が欲望に触れた途端、男は精を放っていた。
 彼の膝が男の開いた脚の間に置かれ、ベッドがわずかにきしんだ。
 彼が身を乗り出した気配。
 彼の動きと共に、窓の向こうから差し込む月の光と影も揺らめいて姿を変えていった。

 冷たさ。
 
 そのすぐ後から激しい熱が沸き上がってくる。
 次の瞬間男は声にならない絶叫を迸らせていた。


「!!っっ・・・・・っ・・・・・・!!!」


 肩口に食い込んだフランツ・ハイネルの歯。最初の一口で皮の一部を噛み切られ、信じ難い程の苦痛が男を襲っていた。
 肩の肉の一部を食い破られた痛み。しかしそれだけでは説明のつかない、名状し難い痛みであった。まるで神経という神経を無理矢理引き千切られたかのような感覚。

 あまりの痛みに男の意識が一瞬揺らめいて遠のく。

「ーっ!!」

 すぐに苦痛が彼の意識を呼び覚まし、しかし次の瞬間男を包んだのは痛みとは全く異なる感覚だった。


 肩が熱い。熱はそこから広がり、男の体の内を奔流となって駆け巡っている。
 上等の酒精に酔わされている時のように意識は陶然とし、靄がかかっていた。

 限界まで禁じられていた為に長々とした精の放出を終えたばかりの欲望は、ベッドに乗り上げたハイネルの右膝にわずかに触れ、既に張りを取り戻している。既に壮年期に入って久しい男には考えられないことであった。

 肩に、確かに唇が触れているのを感じる。
 そこから甘い疼きとわずかな痛みと、そして信じ難いほどの熱が生まれているのだった。

 舌が傷口を舐め取れば男の欲はますます硬さを増し、歯をあてられれば与えられる刺激の予兆に男の体が震える。 
 
 そして肩から暖かなものが流れ出していく感覚。
 生命そのものの象徴である血液が男の体から流れ出し、フランツ・ハイネルの舌に舐め取られてその体に取りこまれていく。

 それは甘美な快楽だった。




※打擲・・・(ちょうちゃく)

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