Gargoyle 2


 カツカツと冷たい床に甲高い靴音が鳴り響いている。ハイネルは何かに追いたてられるかのように無人の回廊を急いでいた。途中、無意識のうちに何度も白い指で口元をぬぐいながら。
 
 甘く、体の芯から蕩けていきそうな陶酔。しかし一瞬の酔いから醒めてみれば、後には地獄が待っている。

 行為を終えた後はいつもそうであるように、この時も喉が熱かった。まるで熱の固まりを無理に流しこんだかのようだ。
 この熱い奔流は血液の流れにのってハイネルの体中を駆けめぐり、血肉と一体となり、やがて新たな飢えを引き起こす。そして彼は再び呪われた儀式を繰り返すのだ。



 靴音だけが鳴り響いていた廊下に異質な音が混じり始めた。ゆるやかなピアノ曲、憂いと嘆きのノクターン。パーティー会場に近づきつつあるのだ。
 だが、ハイネルは再び虚飾に満ちた談笑の輪に戻るつもりなどなかった。一刻も早くホテルの部屋に帰り、一人の時間と空間を得たかったのである。
 行為と、そしてじわりと浸透していく薬のために落ちつきを取り戻しつつはあったが、それでも危険な状態であることには変わりがない。
 喉の渇きは癒えたわけではなかった。ただ、行為と薬によって自制が効くようになっただけだ。

 パーティーに参加している人々が談笑しているらしい様子が時折扉ごしにハイネルの耳にまで届いてくる。
 会話とワインに酔った人々に見咎められる恐れはなかったが、それでも彼は心持ち靴音を抑え、重い樫材で造られた大きな扉の前を行き過ぎた。
 このパーティーには高名な実業家やモータースポーツ関係者が集まっているため、扉には監視を兼ねたホテルマンが立っているはずだ。しかし彼らは予想以上のパーティーの盛況ぶりにオードブルやシャンパンの準備に駆り出されているようで、先ほどから姿が見えないのがありがたかった。

 あと少し。あとほんのわずかでパーティー会場の横を擦り抜け、エレベーターホールに出ることができる。ハイネルの部屋はこのホテルの最上階にあるので、そうすればすぐに一人になれる。自己嫌悪と後悔の海に溺れるのはそれからでいい。

 カツ、と一段と高い靴音が響いた。

 角を曲がり、ハイネルの姿がその向こうに完全に呑まれるその直前。彼の袖元を強く引いてそれを押し留めた者があった。
 ハイネルの意識は危機感のせいで急いている。無視して振り切ろうとしたのだが、袖を捕らえた力はあまりに強く、腕を引かれたせいでかえって相手に向かって体をかえすことになってしまった。
 まだ潤みを残した緑の瞳がきつく相手をにらみ据えた。

「ハイ。そんなに急いでどこに行くんだ?今夜はあいさつもまだ交わしてなかっただろう、マイハイネス」

「離せ、無礼者」

「こんなパーティーにはふさわしい、素晴らしいあいさつだな。由緒正しき欧州貴族の流れを汲むお坊ちゃまは、アメリカ産の野性馬には興味がないって?第一、礼儀を失してるのはどっちだ?」

 ハイネルの腕を強く握ったまま、声をかけてきた相手・・・ジャッキー・グーデリアンは、にらみつける緑の瞳をものともせずに見つめ返している。口調には笑みのさざめきが浮かんでいたが、青い目は少しもふざけていなかった。
 レース関係者が集まったパーティーなので、この男も同席していることは当然予測できたはずだ。だが、自分の内側から沸き上がってくる渇きと戦うことで手一杯だったハイネルがそれを失念していたのは明らかな失敗だった。

 薬が効きはじめてから完全に落ちつきを取り戻すまでは妙に精神が揺らぐ。そして、こういう状態の時目にするグーデリアンの青い瞳は、恐怖に近い衝動を自分に与えることをハイネルはよく知っていた。

 この時も軽い恐慌状態にきたされたハイネルは、取りつくろう言葉も何もなく、ただ本能が告げるままにグーデリアンの腕を振り切り、逃げようとした。しかしグーデリアンはわずかに拘束する手に力を込めただけで難なくその抵抗を抑えつけてしまう。
 逆に腕を引いて自分の元に彼の体を引き寄せると、グーデリアンはその耳元に素早くささやきを流し込んだ。

「エレベーターホールに向かう回廊を逆に向かった端に、レストルームがある。レストルームなら会場のすぐ隣にもあるから、パーティーに来てるヤツらがわざわざ足を運ぶことはない場所だ。さて、不思議な話だが、今その個室に男が一人伸びてる。・・・ハイネル、お前がついさっきまで言葉を交わしていた、お前の体を露骨な目で舐めまわしていた男だ。どういうことなんだろうな?」

「・・・なんのことだ」

 ハイネルの声はかすかに上ずり、かすれていた。
 いつの間にかグーデリアンに腕を取られてエレベーターホールに引きずられ始めていたが、彼はそんなことにさえ気づいていなかった。

 忘れかけていた喉の渇きがまた沸きあがってくる。こめかみが痛む。
 フォーマルなスーツをまとっていても、グーデリアンの体からたちこめている気はいつもと同じ、野性の男のそれだった。

 チン、とその場の重さにそぐわない妙に軽やかな音がした。何か重いものが移動しているかのような機械の稼動音。

 腕を強くつかまれている痛みさえあやふやになる。こめかみはズキズキと刺激を発している。痛い。喉の奥が熱い。
 平衡感覚が揺らぐ。足元からたちあがるわずかな浮遊感。足場が不安定だ。

 気づけばハイネルはエレベーターに押しこめられていた。まだ動いてはいない。
 ワイヤーで吊り下げられた小さな箱の中で彼らは対峙している。ハイネルは追いつめられ、グーデリアンの両腕で壁に縫いとられていた。

「オレは今日素晴らしい美女とパーティー会場で知り合った。グラマラスなロシア美女だ。言葉は通じなくて閉口したが、やがてオレたちはボディで語り合おうということで合意に達した。会場を人知れず出たわけだ」

「・・・」

 こめかみは間断なく痛みを与えることでハイネルの意識を苛み、白い額にはじんわりと汗が浮かんでいた。グーデリアンは続ける。

「オレはボーイにチップを払って場を外すように言い、空いてる部屋にそのロシア美女を押しこめた。念のため廊下の人影を確かめようとドアを開けた時、この世のものとも思われない絶叫が響いてきた。オレは何事かと思ったが、悲鳴がとどろいたのは一瞬で、そのあとは沈黙ばかりなり、だ」

 エレベーターの扉は開いたままだった。開閉ボタンにグーデリアンがコインを噛ませてあるのだ。このフロアそのものを貸しきっているのでまず人が通りかかることはないはずだが、可能性はゼロではない。
 ハイネルはそのことに気をまわすだけの余裕がなく、グーデリアンはもとより気にしてもいなかった。

「オレは事故直後の現場ほど危険な場所はないっていうことをイヤになるほど知っている。レースでも、現実でもな。ロシア美女を濃密なキスで落ちつかせ、なだめて、十分な時間がたってからオレはドアを再び開けた。高い靴音をたてて廊下を急ぐ誰かさんの見慣れた後ろ姿が視界に入ったが、それは後においておこう。それ以外廊下に人影はなく、危険はなさそうだった。オレは声が聞こえた方・・・つまりレストルームに向かった。個室のドアが半開きになっている。オレは逡巡したが、結局軽くノックしてドアを押しあけた。そこにいたのは・・・・」


 そこにいたのは、便座を下ろしたままで上に腰かけ、壁にぐったりと体を預けている男の姿だった。悲鳴から予測していたような惨状はそこにはなく、男は酔っ払ってただ眠ってしまっているかのように見えた。胸が呼吸に大きく上下し、表情にも苦しげなところは少しもない。むしろ満ち足りたおもむきさえあった。タキシードに包まれた上半身が少し乱れていたが、酒が入った席で、しかもレストルームとなればまったく奇異ではない。
 悲鳴をあげねばならないような事態に陥っていた男にはとても見えなかった。


「・・・・とすると、さっきの悲鳴はオレの知ってるあいつがあげたものか?緑の目に栗色の髪、さっきすれ違ったヤツがあげた悲鳴か?いや違う、ヤツの声はあんな耳障りなダミ声じゃない。あの悲鳴は、確かにこの男があげたものだ・・・。男の服を脱がす趣味はないが、オレは乱れていたシャツの襟をひっぱって開いた。肩口にはやけに情熱的な噛み跡があったぜ」

「・・・その男も、お前と同じようにパーティーを抜け出して不埒な行為に耽っていたのだろう。汚らわしいが、よくある話だ」

「そう、よくある話だよな・・・肩の肉が一部食いちぎられてさえいなければ」


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