Gargoyle
喉がひどく渇いている。
華奢なシャンパンフルート。
耳障りではない程度に抑えられたざわめき。
けして本心は見せず、上辺だけを取り繕って発せられる言葉のやりとり。
彼は虚飾と欺瞞で飾りたてた社交界という名のこの世界に幼い頃から馴染み、息をするよりもたやすく実のない美辞麗句を口にすることができた。
喉がひどく渇いている。
彼は、・・・フランツ・ハイネルは会話の合間にシャンパンを口にした。話の流れを読み、さりげなく飲食をするタイミングを彼は完璧に覚えている。舌の上で炭酸が弾け、わずかな苦味と甘味が口の中に広がった。
知的で冷静な印象を与える面差しをした彼は、さらに銀縁の眼鏡ときっちりと立ち上げた髪で自らを鎧っている。一分の隙もないブラック・フォーマルに身を包んだ姿は、常の禁欲さをますます際立たせていた。
シャンパンフルートを唇から離すその一瞬、誰の視線からも逃れた位置で彼はちろりと舌で唇を舐めとった。清潔に整った彼の姿に、一種壮絶なまでの淫猥さが漂ったことに気がついた者は誰もいない。
軽い、だが時折毒を含んだ言葉の応酬。口元に張りついた笑み。きっちりと締められたタイ。節度を忘れぬ程度の酔い。
ハイネルは彼にしては早いペースでシャンパンを口に運んでいた。白い頬に酒精の影は落ちていないが、フォーマルな場では徹底的に自らを律する彼とは思えぬペースだった。
喉がひどく渇いている。
はあはあはあはあはあ。
パーティー会場の喧騒から遠く離れ、ハイネルはレストルームの洗面台に両手をかけ、荒い息をついていた。前面に張られた大きな鏡がその様子をあますところなく映し出している。白い額には薄っすらと汗が浮き、眉間には苦悶のあとがくっきりと刻まれていた。公の場ではけして外そうとはしない眼鏡は、深いグリーンの瞳を守る役割を放棄し、眠っているかのように沈黙している。
贅をこらしたホテルだけあって、レストルームにも細やかな神経が行き届いていた。台の端に飾られた薔薇の花はブリザード・フラワーではなく本物で、むせかえるような隠微な香りを撒き散らしてハイネルの鼻腔を満たしている。
大理石でできた洗面台は彼の両手にひやりとした感触を返し、意匠を凝らしたヨーロピアン・テイストのシンクに彼の顎を伝った汗が落ちて水滴と混じりあった。
はあはあはあはあはあ。
ハイネルは苦しい息を吐き、白い指を自らのスラックスに滑らせた。指が冷たく硬い感触に行きつき、乱暴にそれを引き上げる。小さな、白い錠剤が幾つか入った薬瓶だった。
焦るあまりに何度も手を滑らせながら蓋をあけ、3粒を手に取り、一気に仰ぐ。そらされた喉が上下し、嚥下された錠剤が自分の一部となってからハイネルは蛇口をひねり、流れ出た水を両手ですくって飲んだ。普段の彼ならば死んでもしない行為だった。
指の合間から零れ落ちた水は口角を伝い、顎を伝って喉を濡らし、それだけでは足らずに真っ白なシャツにさえ染みをつくった。
はあはあはあはあはあ。
呼吸が荒い。薬が効くまでに悠に30分はかかる。
ハイネルは顔をあげ、鏡に映った自分の姿と対峙した。下からにらみあげるような体制になっているため、目許にわずかに翳りが落ちている。一対の瞳はくっきりとした緑で、炯々とした光を放ってハイネルを、つまり自分自身をにらみつけていた。おかしな話ではあるが、ハイネルは自分の瞳の色がこんなにも鮮やかなグリーンであるのだということを、いつもこの瞬間のみ思い出すのだった。
洗面台に置かれていた両手がいつの間にか移動し、今はシンクの縁を握りしめている。指が色を無くすほど力が込められ、苦悶のあまり何度も眉を引き絞り、荒い呼吸に肩が震えた。
喉が渇く。耐えられないほどに。
ハイネルは何度も自分の舌で唇を舐めあげたが、そうすることでますます喉の飢え(かつえ)がひどくなることは自分でもわかっていた。
ハイネルが激しい餓えと戦っていたわずか3分後に短いノックと共に姿を現したのは、先ほどまで談笑していた男たちのうちの一人だった。まだ若い。あの控えめな、だが有無を言わさぬノックが男が上流階級の人間であることを余すところなく物語っている。
ああいった世界に属する人間はけしてでしゃばらず、一歩ひいたような振舞いをする。だがその振舞いは傲慢な自負と自尊に支えられ、彼らはひく気など微塵もないのだということをハイネルはよく知っていた。
上品そうに笑いながら腹の底には淀んだ黒い血が流れている人種。ブルーブラッド。
案の定男は親切そうな、だが狡猾さを隠しきれない表情を作って言葉をかけてきた。
「大丈夫かい?青い顔をして離れていったから心配して来てみたんだ」
男は紳士然とした態度を取っているが、細められた目に、言葉を紡ぐ唇に、そして差し伸べられた手に欲情の滴りが落ち、醜悪な臭気を放っていた。男の頭の中では、既にハイネルは何度も服を脱いで男にあえがされていることだろう。
馬鹿な男だ。アルコールとドラッグに耽るストリートの若者でももっとマシな口説き文句を口にするに違いない。
だがハイネルは緩慢に首を巡らせ、男を見ただけだった。どうしようもなく喉が渇いていたのだ。
より正確に言えば、それは喉ではなく、体全体から発する渇きだった。
もはや渇きは抑えられないところに来ていた。そして、渇けば渇くほどハイネルの緑の瞳は深い色となり、霧を含んだかのようにしっとりと潤む。
何度も舌で辿る唇は、赤く湿り気を帯びていた。
「・・・どうしたんだい?気分が悪いんじゃないのか。僕はこのホテルの上に部屋をとっている。よかったらそこで休んでいくといい」
はあはあはあはあ。
男が言い、ハイネルは唇を動かしたがそれは言葉にならず、代わりに熱い息が吐き出されるばかりだった。
舌を伸ばし、禁欲的な印象の強い薄めの唇を辿る。
男が唾を呑んだ音がやけに響いた。
ハイネルの腕が男に伸ばされる。緑の瞳からはもはや理性の光は消えうせ、渇きに支配された彼の体は彼の意識の支配を逃れて動いている。
優美な腕が男の首元に巻きつき、ぴたりと胸が合わさった。ハイネルが身につけていた控えめなフレグランスが甘く男の鼻腔をくすぐり、男は幾度となく頭の中で繰り返してきた放埓な夢想を実現させるべく、まとっていた紳士の仮面をかなぐり捨てて獣になろうとした。
そして。
その直後に響き渡った男の絶叫を、遠く離れたホールで歓談している人々が耳にすることはなかった。