「すまないが、頼みごとをしてもいいだろうか?」
データを繰っていた手を止め、ハイネルさんはふと僕を見てそう口を開いた。仕事関連のことだったら絶対阻止してやる!と内心で決意しながら僕はグリーンアイズを見返す。でも、しょせん僕もシュトルムツェンダーのスタッフ。つまりハイネル監督にはすこぶる弱いということだ。この緑の瞳に見つめられながらお願いされたら、たいていのことは聞いてしまうだろうという自覚はあった。
ハイネル監督自身のためだ。負けないぞ!・・・と、決意だけはする。だけど、ハイネルさんの頼みとは僕が予想し、構えていたものとは違っていた。
「テストコースに戻ったら、グー・・・・スタッフたちに、私は大したことはないから心配しないでくれと伝えてくれ。元気そうでピンピンしていたと。本来ならば私が自分で伝えたいくらいだが、さすがに昨日の今日で医者からの外出許可は出そうにないからな」
私には前科があるから、と言ってハイネルさんは彼には珍しく少しいたずらっぽい目をして笑った。恐らく、シュトロゼック時代、過労で倒れたにも関わらず本戦に駆けつけた時のことをさしているのだろう。彼はレースに関して、時に規則や道徳さえも踏み越える情熱をみせて僕達スタッフを驚かせることがある。見た目の冷静さとは裏腹に情熱的なところのある人なのだ。
「ハイネルさん・・・」
ハイネルさんはすでに僕から視線を転じ、再び書面に目を落としている。音にはならなかったハイネルさんの言葉が、僕にははっきりと聞こえていた。
・・・グーデリアンに、私のことなら心配ないと伝えてくれ。
「監督。必ず伝えますから安心して下さい」
僕が心から言うと、ハイネルさんはまた顔をあげ、ありがとう、と小さくつぶやいた。やはり顔色は悪かったが緑の瞳はいつもと同じように強い光を浮かべていて、そのアンバランスさがなんだか少しだけ切なかった。
急いで病院を後にした僕がピットに到着すると、グーデリアンさんは午後すぐに始まった60周の長いテストランをまだ終えていないとのことだった。途中で伝えて動揺させてしまうよりは、今日の行程が全て終わってから伝えるべきだとの判断がなされたのだろう。
一週間を予定しているマシンテストは、残すところ今日と明日の二日だけとなっているにも関わらず結果は相変わらず芳しくなく、ピットにもなんとなく停滞ムードが漂っていた。チーフなど上のものには既にハイネルさんに関する報が届いているはずだが、これが全員に知れ渡ったらと思うと少し怖い気がする。ルイザさんももちろん大切なドライバーだが、やはりシュトルムツェンダーはハイネルさんとグーデリアンさんが屋台骨となっているチームなのだ。
60周ものテストランを終えてピットに戻ってきたグーデリアンさんの前髪からは汗がしたたり落ちていた。このテストコースはかなり一周が長いので、60周ということはほとんどレースディスタンスと変わりがない。
いつも『いかにもアメリカン』といった明るく陽気なキャラクターのグーデリアンさんだが、マシンに乗り込む直前と、そしてマシンから降りた直後だけはいつもの彼と少し違う。野性味というか、・・・どんなに普段と同じようにしていても一種の凄みのようなものが漂っている気がする。それは本当にわずかな時間で、すぐにいつもの彼に戻ってしまうのだけれど。
僕は広報担当だから普段間近でグーデリアンさんがマシンを走らせる機会を目にすることはほかのスタッフほど多くない。未だにこんな時のグーデリアンさんには声をかける時ためらってしまう。だけど今はそんなことを言っている場合じゃない。
「グーデリアンさん!」
ドライバーにつられてか個性豊かなキャラクターが多いチームスタッフの中では、僕はどちらかというと大人しい方である。その僕がものすごい勢いで駆けよって声をかけたので、豪胆なグーデリアンさんもさすがに驚いたようだった。
「よう、お前か。どうした?お前確か今日ハイネルと一緒じゃなかったっけ?」
僕が声をかけたとたんに陽気なアメリカンに戻ったグーデリアンさんは、気安い笑みを浮かべながらそう声をかけてくれた。勢いこんで話しかけてはみたものの、なんと言って切り出していいものか迷う。
「あ、その・・・あの、ハイネルさんが」
それだけでグーデリアンさんは何かを察したらしい。眉を引き絞ったせいで、普段は軽薄ととられがちな彼の表情に精悍な風情が漂った。
「ハイネルが?また倒れでもしたか?」
多分、グーデリアンさんはこうなることをある程度予想していたんじゃないかと思う。ここのところハイネルさんの顔色が優れないのは明らかだったから、グーデリアンさんが気づいていなかったはずはない。
「・・・・はい」
「あいつもムリするからな」
グーデリアンさんはため息とともにその言葉を吐いて、レーシングスーツのジッパーを下げながらピット奥に向かった。僕はバカみたいに突っ立ってその背中を見守り、次のグーデリアンさんの挙動を待っている。
グーデリアンさんは上半身のスーツをすべて脱いで腰元にしばりつけ、上半身をさらした。もう12月だというのにシャツが汗ではりつき、たくましい体つきを浮かび上がらせている。
僕はぼんやりとさすがレーサーだな、などとまったく関係ないことを考えていたりした。きっとグーデリアンさんはすぐにハイネルさんの病室に向かうことになるだろう。そうなると僕に話しかけてくるだろうから、それを待っていたのだ。
・・・・・けど。
「なあ、今日のこれからのスケジュールってどうなってたっけ?」
「今日ですか?後はストレッチで終了の予定ですね」
グーデリアンさんは僕の予想通り、近くにいたスタッフの一人にスケジュールを聞いた。どちらにせよ以降のスケジュールはキャンセルになっていただろうけど、元々入っていないのはラッキーだったな、などと思いながらそのやりとりを聞いていると、グーデリアンさんは耳を疑うような言葉を続けた。
「オレは平気だから、明日やる予定だったこっちのセッティングでもう一回走らせてみよう。プログラムはすぐに変えられるんだろ?」
「ええ、まあ、すでにプログラミング自体は済んでますから切り替えはすぐにできますが・・・」
「よし!決まり。15分くらい控え室で休憩してるから、後で呼びに来てくれ。かわいこちゃんをよこしてくれよ!」
そう言うなり、グーデリアンさんはさっさと控え室のある方に足を向けてしまったのである。慌てたのは僕だ。ぼーっとしてる間にグーデリアンさんはかなり先に行ってしまっていたので、はっと気づいた後焦って彼の大きな背中を追いかけた。コンパスが違うから相手は歩いてるだけだというのに大変だ。
「グーデリアンさん!」
「あれ?お前まだいたの?てっきり病院に戻ったかと思ったんだけど」
あなたなしで戻れって言うんですか!?
・・・僕は内心でそう思っていたけれど、口には出せなかった。僕は監督であるハイネルさんや、ドライバーであるグーデリアンさん、ルイザさんにあれこれ口出しできる立場にはない。グーデリアンさんはとても気さくな人で、誰に対しても昔からの友達みたいに接してくれるけど、でもやっぱり僕にとって彼はすごい人で、だからこそ遠慮なく何でも意見をぶつけるというわけにはいかないのだ。
そこで、遠回しに言葉をかけてみることにした。
「あ、あの・・・今日、本当は規定のスケジュールを終了したんですよね?だったら今日はもうあがっても・・・グーデリアンさんにだって行きたいところはあるでしょうし」
「だってハイネル入院したんだろ?」
「はあ」
だからこそグーデリアンさんはこんな所にいるべきじゃないと思うんだけど。
「ハイネルのヤツ、ピットにいたらいたでいろいろうるさく注文してくるけど、いなかったら後で余計にうるさく言うだろ。私がいないとやっぱりお前はサボるんだの何だのもううるさくって!ハイネルが戻ってきた時に文句言われたくないからな」
「え・・・・」
「データを余分にとっとけばハイネルだってうれしいだろ?」
「それは・・・そうかもしれないんですけど」
何となく腑に落ちない気分、というのはこのことを言うんだろう。
喉の奥にのみこみきれない何かがひっかかってるみたいな感じ。違和感じゃない。胃のあたりでもやもやと渦巻いているこの気持ちを感情で分類するとしたら、怒りにもっとも近いような気がした。
「ここで点数稼いどいたら、ハイネルが戻ってきた時に優位に立てるしな」
「・・・」
「そうそう、病院行ってハイネルに会ったらさ」
「・・・はい」
「オレは大人しく仕事してるから、来るのはもちろんだが、電話もしてくるなって言っといてくれ」
「頼まれたってあなたに電話なんてさせませんよ!」
「へ?」
「ハイネルさんに頼まれたって絶対にあなたへの電話なんてさせませんから、心配せずにあなたはここで思う存分シュピーゲルを走らせていて下さい!」
「なんでそんなに燃えてんの。お前そんなキャラだったっけ?」
不思議そうに僕の目をのぞきこんできたグーデリアンさんのキレイなブルーアイズを見ていたらなんだかムカムカと怒りが込み上げてきて、僕は返事もせずにピットを飛び出していた。