女性達が滞在しているホテルまではすぐだ。その短い距離を行く間にもグーデリアンは実に多彩な話術を披露してみせ、彼女達から嬌声を引き出さない時がないほどだった。

 柔らかく闇の輪郭をにじませるオレンジ色の灯り。星明かりと街灯に照らされてグーデリアンの髪は甘い蜜色に染まり、女性達が身につけた華やかな色合いの服飾とあいまって、その一角だけが浮き立って見えた。男が何か口にするたびに、彼女達の唇から高い歓声が上がる。

 わずかに距離を置いて歩を進めていたハイネルはまさしく観客の心地を味わっていた。手を伸ばせば触れるほど近い距離にあっても、そこには厳然とした境界線が引かれている。
 役者も舞台も完璧なのに、その世界に入り込めないでいる観客。

 『取り残された気分』とはこういうことを言うんだろうな、とぼんやりと頭の隅でハイネルは考えた。なぜか胸に断続的な痛みともつかない鈍い違和感を覚えていたが、それは体の隅々までいきわたったアルコールのせいだと自分に言い聞かせながら。

 ホテルの前で、彼らは先ほどから束の間の別れを惜しんでいる。撤収は明日の予定なので、数時間後にはわずかではあるが顔を合わせる機会もあると言うのに。


「ねえジャッキー。今度は絶対に最後まで付き合ってね、約束よ」

「もちろん。何ならホワイトアウトとペンを渡しておこうか?」       ※ホワイトアウト=修正液

「どうして?」

「君のためならいつでもオレのスケジュールを書き替えるから」

「ジャッキーったら!」


 小さな、叫びにも似た声をあげると、リディアはグーデリアンの首に抱きついて唇を奪った。挨拶にしては少し長く深いキス。
 もちろん女性の好意には丁重にお応えするのがこの男流の礼儀である。積極的に応じるわけではなかったが、優しく彼女の腰を取り、離れ際に頬へと音のするおやすみのキスを送った。
 残ったミシェル、マリーとも次々と甘い抱擁とキスを交わしていく。

 ハイネルも彼女達と別れの挨拶を済ませたが、軽い握手のみだった。ハイネルはヨーロッパの人間だ。挨拶としての頬へのキス程度なら慣れていたし、そもそも社交界とのつながりが深い家の血を分かたれた者の宿命として、彼もそれなり以上に女性の扱いというものをたしなんでいる。だが、さすがにグーデリアン達の様子を見て毒気を抜かれたのかもしれなかった。


「バイ、ジャッキー。おやすみなさい。ゆっくり休んでいい夢をね」

「オレがいい夢を見ることが出来たら、君はゆっくり休めないな」

「なぜ?」

「オレにいい夢を見させるために、わざわざ夢の中でまでオレに会いに来てくれるんだろう?」

「ふふ、あなたには夢より現実で会いたいものね」

「オレもだよマリー。おやすみ、君もいい夢を」

「ええ、あなたの夢を見るわ」

 
 今日だけで何度目になるのかも分からない優しいおやすみのキス。そして名残惜しそうにゆっくりとドアが閉ざされた。途端に静寂が舞い戻ってくる。

 古いが格式のある、信頼出来るホテルだ。フロントで別れることも出来ただろうに、グーデリアンは最後の一人まできちんと部屋の前まで送り届けた。きっと彼にとって、こうした行為は呼吸をするように自然なことなのだろう。




 彼女達を送り届ける任を果たしたことで華やかさが失せ、幾分物憂い夜の静けさに包まれながらようやく自分達が滞在しているホテルまで辿りついた時には、二人の間に交わされる言葉数もほとんど無くなっていた。
 完全なプライベートの時グーデリアンの口数が少なくなるのが珍しいことではないとハイネルは知っていたが、女性達の前では口にしていなかった煙草を取り出して(グーデリアンが女性の前で煙草を吸っているのをハイネルは見たことがなかった)立ち上がる煙の行方を追うともなく前を見つめている鈍い青色の瞳を見つめていると、自分が未だに場違いな舞台に立っているかのような感覚に陥るのだった。

 華やかな舞台は派手なカーテンコールで終わりを告げ、主演男優は誰もいなくなった舞台の上でようやく訪れた一人の時間を味わっている。そこに紛れ込んだ一人の闖入者。舞台の幕が上がっている間はその世界に入り込むことも出来ずに疎外感を味わいながら芝居を見、幕が降りれば降りたで奇妙な居心地の悪さと違和感を感じている。その感覚を引きずったままホテルに辿りついた時には、体にこもっていたはずの酒精もすっかりと抜けきっていた。


 グーデリアンの部屋はハイネルの向かい。ここで別れを告げ、ドアを開けて別々の部屋に入り、熱いシャワーを浴びて短いが深い眠りにつく。それで今日という日の長い夜は終わるはずだったのに、自室のドアに手をかけながら、ハイネルは自然とこちらを見守るかのように立ち止まっていた男に声をかけていた。

「大したものだな。もしあの場でモリエールが主演男優を探していたら、お前を目にした途端泣いて感激しただろう。演じさせるまでもなく稀代の遊蕩児がここにいる、とな」

 皮肉というよりも、むしろここまでくると本物の感嘆に近い。ハイネルの言葉には素直な響きがあったのだが、それでもグーデリアンが小さく苦笑したのが分かった。

「監督サンとしては、『レースもこれくらいソツなくこなして欲しいものだ』ってとこかな?」

「そうは言っていない。そんな言葉が出るのはお前自身がそう思っているからだろう」

「相変わらず手厳しいのネ、監督サン。レースが終わった直後くらいもっとドライバーを労わって欲しいもんだぜ」

 そう言いつつグーデリアンは全く気を悪くした様子もなく続ける。芝居っ気たっぷりに肩をすくめる仕草が彼にはよく馴染んでいた。紫煙をくゆらせている時の、精悍な横顔を見せる寡黙な男はここにはいない。

「お前は美しい女性達に十二分に労わってもらっているだろう。私まで甘やかしたら釣り合いがとれん」

「自覚がないんだな」

「なんだ?」

「いや、・・・」

 ハイネルには意味の取れない大人びた笑みを口元に一瞬刻むと、グーデリアンは再びいたずらっぽい表情を浮かべて言った。


「上が姉貴で下が妹だろ?自然に女の子の扱いも覚えるもんだよ」

「姉と妹がいるだけで全ての男がお前のようになったら、世の女性は危なくておちおち外も歩けん」

「お前もだな」

「?」

「世の中の男がみんなオレになったら、みんながお前にしようとするだろ?」


 
 こういうことを。



 言葉尻は重ねられた唇の向こうに吸い取られた。

 ホテルの廊下は心配りが行き届き空調もきいていたが、アルコールに火照った体を長らく夜の大気にさらしていた身には芯まで寒さが染み渡っていた。軽く触れ合った唇はそれほど熱を持っていたわけではなかったのに、ハイネルはその熱に驚いたかのように緑の瞳を見開いた。体さえ何度も重ねているというのに不意に口付けられただけでうろたえた自分を見せまいとしたのか、相手を牽制するかのように無防備だった視線を厳しいものに切り替える。
 だがそもそも深い意味のある行為ではなかったのか、グーデリアンはすぐに体を離し、面白そうな表情をしてハイネルの顔をのぞき込んできた。華美にならぬよう、上品に抑えられた廊下の照明を背にした彼の青い瞳に昼の明るさはなかったが、それでも無条件で人を惹きつける力に満ちている。


「オレみたいな男がいたら気をつけろよ、ハイネル。今みたいなことをされないように」

「こんな下らないことをしてくるのはお前くらいのものだ」

「・・・お前はホントに自覚がない」

「何!?」

「これもこっちの話」

 背をかがめてわざわざ下からのぞき込むようにしながらいたずらっぽい目を向けてくる男の仕草はいたずらの反応をうかがう少年そのままだ。だが、すぐにその目がわずかにすがめられた。

「・・・少し疲れてるな」

 グーデリアンの表情から先ほどまでのからかうような色が払拭され、低く優しい口調の言葉と共に指が伸ばされてハイネルの目尻に触れた。連日睡眠時間を犠牲にしてマシン調整を行っていた彼の目許には拭いようのない疲労の影が刻まれている。
 グーデリアンの節太い指が、そこをいたわるようにゆっくりと撫でていく。

「早く寝た方がいい、ハイネル。オレもさすがに疲れたから、今夜だけはカワイコちゃんのぬくもりがない冷たいベッドでもぐっすり眠れそうだ」

「・・・貴様はベッドどころか床で寝ても熟睡だろう」

「お前が暖めてくれればよりぐっすり眠れる・・・・が、今日はやめておいた方が良さそうだな。お前も疲れてるだろう?」

「当たり前だ。どこかのドライバーの世話に手間がかかって仕方ないからな。・・・・おやすみ」


 "おやすみ"は通常別れのあいさつだ。


 グーデリアンの部屋は向かいだが、ハイネルがそう声をかけても動こうとはしなかった。それはいつものことで、彼がこうしてハイネルをその時々の家やホテルに送り届ける時には、ドアがきちんと閉まるまで動こうとはしなかった。それが彼なりの誠意や儀式であるかのように。

 送り届けてもらった後、一度だけどうしても気になって部屋の窓からグーデリアンをうかがってみたことがある。
 グーデリアンはまるでハイネルがそうすることを知っていたかのようにこちらを見ており、すぐに目があった。それからひょいと手をあげてあいさつを送り、男はその飄々とした背中を向けて去っていったのだった。何故かその時のやりとりがどうにも気恥ずかしく感じられて、以来ハイネルは部屋の窓から外をうかがってみたことはない。

 きちんと最後まで責任を持って相手を送り届ける。それはとてもグーデリアンらしいやり方だった。彼はさりげなく、相手の負担にならないように思いやりを形にするのがうまい男だ。
 だが、今日一日でわかったことがある。


 ・・・・この男のその優しさや思いやりは、ただ一人に向けられるものではないのだ。あの女性達にもそうであったように。




 ハイネルが物思いに沈んでいたのはわずかな間のことだった。
 カードキーを差し、ライトがグリーンに変わったことを見届けてから改めてドアを開く。カチリという微かな音が夜の静寂にあってはっきりと響いた。
 ドアを引き、体を滑り込ませる。うつむいたままだったので視線が合うはずもなかったが、それでも男が動かずに見守っていることをハイネルは知っていた。
 そのままドアを閉めていく途中、細くなっていく視界の先を一瞬だけ確かめた彼は、そこで厚いドア一枚で隔てられた向こうの世界に佇んでいた男と目があった。あと少しで閉ざされていたはずのドアが止まる。まるで男の青い目に動きを止められてしまったかのように。


「ハイネル」


 小さな、これほどの静けさの中にあってさえ聞き逃してしまいそうな声だった。グーデリアンの唇が何かを口にしそうに動いたがそれは音にはならず、変わらず同じ位置に立っている。
 男の目を見ているうちに、ハイネルはほとんど衝動的に閉じかけていたドアを開け、その名を呼んでいた。

「グーデリアン、・・・その、」

 そこまで口にして、だが続きが出てこない。もともと何かを伝えたくて呼んだわけではなく、ただその名が口をついて出ただけなのだ。だが、それに背を押されたのか、グーデリアン

「・・・・・ハイネル、・・・そばにいてもいいか?」


 強引なこの男らしくない、密やかな口調。ため息のように吐き出された言葉にハイネルは何も言わず、ただ彼のために更にドアを大きく開いた。





 疲れてるだろうから何もしないよ、そう言っていたグーデリアンは、約束通り同じベッドに入ってシーツを分け合っている時もただ暖かな腕を回してきただけだった。筋肉で固くしまった腕の充実した重みは、ハイネルにとって既に慣れ親しんだものだ。

「今夜は少し冷えるから」

 彼はそう言ったが、体温を分け合わねばならないほどの寒さではなかったはずだ。それでもハイネルは何も言わず、伸ばされてきた腕に身をまかせた。大きな手が労わるための動きでシャワーを浴びてすんなりと伸びたままの栗色の髪や白い額に触れていく。

「早く眠るんだ。ぐっすり寝て、オレの夢を見ればいい」

「・・・そしてお前は先ほどの女性の夢を見るのか?」

「お前の匂いに包まれながら、お前だけの夢を見るよ」

 ウインクと共にすぐに返された言葉。キザなセリフだ。だが彼がこういう言葉を口にする時の口調は軽く、深刻な響きが込められていることは決してない。だからこそ女性達も彼の甘い言葉に嬌声をあげつつ、動揺したりはしないのだろう。舞台に立ちながら主演男優に甘い言葉を囁かれ、愛に心乱されて取り乱す女優がいないのと同じだ。

「ハニー、オレが今夜お前に触れないからって、どうかお前にそういう魅力がないとは思わないでくれよ。オレはお前の眠りを守るために、なけなしの理性を総動員してるんだ。けなげな努力に表彰状が欲しいぜ」

 おどけた風に言いながらハイネルの眠りをうながすべくまぶたに優しく触れてくるグーデリアンは、やはりどこか喜劇のプレイボーイを思わせる。彼自身が「オレはハンフリー・ボガードにはなれない」と冗談混じりに言っているのを何度も聞いたことがあった。確かにボガードを気取るにはあと十年ほどの時間が必要そうだ。

「表彰状を手に入れる努力ならレースでしてくれ。・・・今は必要ない」

 そう遠くないうちに眠りに引きこまれることが分かっていたが、唇を寄せていったのはハイネルの方だ。緩く舌を絡ませあいながらグーデリアンは穏やかに体制を入れ替え、ハイネルを軽く組み敷いて上からのぞき込んだ。
 無言で見つめてくるグーデリアンは何か問いたげに見えた。唇が開きかけ、音にならずにまた閉じる。ハイネル自身もまた唇を開いたが、何の言葉も出てきてはくれなかった。
 唐突に最後に別れたマリーは言葉の通りグーデリアンの夢を見ているのだろうか、という思いがハイネルの脳裏に浮かぶ。・・・・そうかもしれない。そしてこの男は彼女の夢の中でも甘い、それこそ夢のような言葉を彼女の耳元で囁くのだ。

 上から見つめてくる青い瞳と視線が絡む。

 こんな風に上からのしかかられると、物理的ではないひどい圧迫感を感じる。体にではなく、精神に。
 なにか胸がやわやわと押し付けられるような、グーデリアンとこうするまでは感じたことのなかった圧迫感だった。口を開いて言葉を音に変えれば少しは胸が軽くなるような気がする。けれどどんな言葉を口にすればいいのかは分からない。

「・・・・・」

 グーデリアンの唇が下りてきて唇をふさがれる。ハイネルはそれに心から安堵した。


 こうして唇をふさがれていれば、自分でも予期していない言葉が零れ出してしまうこともないだろうから。



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