レースウィーク中ともなれば、どれほど偉大なレーサーであっても重圧感や焦燥感から逃れることはできない。だが、少なくともそうした心情を全く周囲に気取らせないことの出来る人間はいる。グーデリアンはその一人だった。
マシンのセッティングが上がって予選アタックに出るまでのわずかな間。緊張の極地にあるはずのレーサーは、ウェーブした長い金髪が美しい、典型的なアメリカ人美女を片手に抱えてほがらかに談笑していた。忙しげに立ち動くスタッフたちが誰一人として目をむかないことからすると、こんな光景も日常と化しているのだろう。
しなやかで細い女性の指がグーデリアンのがっしりとした肩口から二の腕、肘のあたりを意味ありげに辿っている。レーシングスーツの上からでも分かる堅く引き締まった筋肉の感触に、彼女は感嘆したような声をあげた。
「あら、ジャッキーの腕って本当に太いわね。私の腕なんて簡単に折られちゃいそう」
「オレの腕は、君みたいな女性を愛しむためにあるんだ。傷つけるためじゃない」
「それはどうかしら?」
艶やかな笑声が零れ落ちた。チェリーレッドに彩られた唇が笑みの形に引き上げられ、上目遣いにグーデリアンを見つめている。
「知りたい?オレの手がいかにレディーを優しく扱うのか」
「ふふ、・・・でもワイルドでもあるんでしょう?優しいだけの男ならいらないわ」
「それはもう、お望みのままに。なんなら泣かせてやることも出来るぜ。・・・ベッドの中でね」
わざわざ聞き耳を立てられるほどの余裕がある者はいないとは言え、せわしくスタッフが行き交うピットで堂々とこんなセリフを口にできるのはこの男くらいのものだろう。
際どいセリフを耳元で囁くと、芝居じみたものではない、本物の吐息が彼女の唇からもれた。それと同時にセッティングがほぼ完了したようである。
女性のくびれた腰にしっかりと腕を回しつつもその様子を目の端で捕らえていたらしいグーデリアンは、贖罪のキスをこめかみに落としてから柔らかな感触を楽しんでいた腕を放した。立ち上がりざまにこちらに目を向けていたハイネルと目が合う。「さっさとマシンに乗り込まんか!」という叱咤の声を覚悟して肩を竦めたグーデリアンだが、予想に反して彼はさっと身を翻し、一度は絡んだ視線を自分から外した。まるで後ろめたいことでもあるかのように。
「今回はお前の希望していたセッティングを試す。シミュレーション上では最適値を示していたからな。だが、今回投入したステアリングデバイスは信頼するに足る十分な情報を得ることが・・・」
「お前は相変わらず心配性だな、ハイネル。ここまで来たら細かいことは気にせずにもっと鷹揚に構えてろよ。監督だろ?」
「・・・ああ、そうだな」
データで埋め尽された手元の書面に目を落としていたハイネルの視線が上がる。視線の先のグーデリアンは、これからマシンに乗り込んでコンマ一秒のために命を賭ける戦いに出ていく男とは思えぬほどリラックスしているように見えた。声にはハイネルをからかってみせるような響きさえあった。例えこれが表面的なポーズに過ぎないにしても、彼には対外的な自分を装うだけの余裕があるということだ。
パブリック・イメージほどには子供じみていない、成熟した一人の男。
光と影の差し方で容易に色を変える青い瞳のように、グーデリアンという男そのものもすぐに底が見えそうでそうではない。この男の気安い雰囲気に惹かれて軽い気持ちでのぞけば、そこには思いもかけない程深い縁が広がっていることに気づくだろう。
その意外さに引き寄せられ、深さを見極めたくて身を乗り出せばすぐにバランスを崩し、溺れてどこまでも深い縁に引き込まれていくことになる・・・・・。
「ハイネル、どうしたんだ?」
「いや・・・、すまない、何でもない」
声をかけられ、夢から醒めたようにハイネルのグリーンアイズがまたたいた。
伊達だというのにしっくりと収まっているメガネのブリッジに中指を添え、押し上げる。間をもたせたい時や緊張した時、思案している時に見せる彼のクセだ。グーデリアンの乗車を促すスタッフの声がやけに遠くに感じられる。
「しっかりしろよ監督。頼りにしてるぜ?」
グーデリアンは笑いながら、ハイネルの顔をのぞき込むように言った。
相手を心配する中にもいたずらっぽい好奇心を織り交ぜたグーデリアンの声、表情。いつもの彼の姿だ。誰もが知るジャッキー・グーデリアンの姿。青い瞳は晴れ渡った空のように明るい光をたたえてその中心にハイネルの姿をたたえている。
耐火マスクをつけ、ヘルメットを装着すると、男はレーサーとなる。手馴れた仕草で一連の儀式を終えると、グーデリアンはマシンに乗り込む前に一度だけ振り返ってハイネルを見た。
レーサーのジャッキー・グーデリアン。ヘルメットの向こうから見つめてきた目は、角度的なこともあるのか先ほどよりはずっと深いブルーに見えた。
予期せずハイネルの背筋をざわりとした感覚がはしった。一瞬だけ目にしたグーデリアンの瞳の青さは、普段は努めて考えまいとしている類の記憶を彼に想起させるのだった。
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今回のレースは、中途で起きた軽微なシステムエラーで順位を落として表彰台は逃したものの、手堅くポイント圏内に留まって終えることができた。
結果こそ華々しいものではないが、まだ若く経験数が絶対的に足りないこのチームにあっては、トラブルが起きた上で最後までレースをやり遂げられたという事実は大きい。これからも続いていくレースを戦っていく上でグーデリアン本人はもちろん、監督であるハイネルを初めとしたスタッフ達の自信と支えになってくれることだろう。
自然、レースが終了すると共に行われるようになっていた恒例の打ち上げも賑やかで朗らかなものとなった。モナコや市街地レースなどの特殊な例をのぞき、サーキットは広大な敷地を確保するために都心部から離れた場所に開設されていることが多い。必然的にレース後の打ち上げは今回のように小さな酒場の一角で行われることが多かったが、どんな場所だろうと彼らには全く関係がないらしい。彼らはよく食べ、よく飲んだ。美味い郷土料理とほどよく冷えたビール。後はレースを終えた昂揚感が最高のスパイスになってくれる。
CFのレース開催スケジュールは他のカテゴリーに比べかなり変則的かつ本戦の総数が少ない。次のレースまで一ヶ月半以上あいていて比較的余裕があるせいもあり、どのスタッフも存分にハメを外した。もちろん主役であるグーデリアンも例外ではない。この時ばかりは規律に厳しいハイネルも何も言わず、穏やかな酔いに身を委ねていった。
結局、店の通常の売り上げ一ヶ月分ほどをたったの5時間ほどで費やし、その日の慰労会という名目の飲み会は終わりを告げた。今回は撤収が午後7時頃であったはずなので日づけが変わるか変わらぬかの頃合であるということになる。連日のハードワークで疲労が蓄積している面々では、いくら気持ちが昂揚していてもこの辺りが限度だ。
店を出るとすっかり街は闇に沈んでおり、日中は軽く汗ばむほどだった大気もひやりとして酒精に火照った肌を冷ましていった。疲労が極地に達してかえって興奮気味にあった心と体に少し寒さを感じるほどの夜気が心地よい。星が綺麗な夜だった。
「では監督お先に。どうかお気をつけて」
「ああ、ゆっくり休んでくれ」
チーフスタッフが宿泊先に向かっていくのを見届け、ハイネルはようやく息をついた。
小さなこの街では関係者であってもホテルの確保は難しい。スタッフ達の滞在先もまちまちで、行き先に合わせて彼らが三々五々に散っていくのを最後まで見守ったのは、監督としての責というよりもハイネル自身の性質である。
「私も戻って休むか」
ハイネルは呟き、チーフスタッフとは逆の方向へと足を向けた。
冷たい夜の空気を肺に吸い込むと少しだけクリアな思考が戻ってくる。昼からとは言え明日も仕事の予定が入っている。自分では節制していたつもりだったが、無事にレースを終えた安堵と喜びは大きかったらしく、頬や首筋に明確な火照りが感じられた。早くホテルに戻ってシャワーを浴び、整えられたベッドで十分な休息を取った方がいいだろう。
そんなことを思いながら数歩進んだところで、彼は華やかな笑声が弾けるのを聞いた。
「もうやだわ、ジャッキーったら!」
「本気にするわよ!?」
「オレはいつだって本気だぜ?・・・ようハイネル、遅かったな」
街灯に照らし出された金髪は甘い蜜色に輝いている。ハイネルの姿を認めると、彼は建物の壁に預けていた背中を起こした。その両手には美女三人があでやかに咲き誇っている。
「グーデリアン・・・」
グーデリアンは打ち上げに参加していた女性達と共に真っ先に店を出ていったはずだった。この様子では今日はもう戻らないだろうと踏んでいたのだが。
「こんな時間だから彼女達を送って行ってやりたいんだ。お前も付き合え」
「何故私が・・・」
「お前はオレと同じホテルだろ?どうせ帰る先が一緒だ。彼女達に万一のことがあったらいけないからな」
こう言われて断れるハイネルではない。促されるままに彼らから少し離れた場所で歩き始めたのだが、少しいぶかしげになっていたらしい表情を読んだのかグーデリアンがからかうような声を投げてきた。
「オレがこの子猫ちゃん達と遊びに行くだろうと踏んでたんだろ?ハイネル。オレも本当に残念なんだが、さすがのオレもこれから三人の相手はムリそうだ」
腕の中の美女達からは、その言葉に楽しげな声があがった。
「ジャッキーなら平気よ」
「なら今夜は私とだけ、というのはどう?」
「あらそれなら私と!」
途端に色めきたった彼女達をなだめるかのようにまわした腕に力を込め、グーデリアンは芝居がかった声で言う。普通の神経を持つ男ならシラフでは死んでも言えないセリフだが、彼の場合はもちろん酒の有無など関係ない。
「ああリディア、確かにオレなら平気だろう。君達三人をこれから喜ばせてあげるくらいのことは出来る。だがオレは女の子にはとことん尽くすのがモットーなんだ。男は女性に尽くすために造られた生き物なんだからな。今のオレじゃ、君達三人の相手にはふさわしくない・・・ミシェル、マリー、君達はみんな魅力的だ。君達の中から今夜の相手を一人だけ選べとオレに聞くのは、右足と左足、どちらなら切断しても惜しくないか聞くのと同じだ。分かるだろう?」
締めくくりに彼女達一人一人の頬にキスを落とせば、稀代のドンファンの小劇は淑女の感嘆の吐息と共にカーテンコールを迎えた。唯一の観客であるハイネルは一人その世界から取り残され、半ば感心すらしながらその舞台を見つめていたのだった。