Do I have to say the words?
「・・・・・・」
男のキスは苦い煙草の味がした。
唇が触れる前、・・・そして離れた時も、男は何も言わなかった。ただじっと青い目が見つめてくるだけだ。
男の青い瞳。
薄い闇が彫りの深い男の顔立ちにくっきりとした陰影を生み出し、その表情は見えない。日の下では男の存在そのもののように輝きを放つ蜜色の髪も、今は闇に染まって息を潜めている。
すべてが茫洋とした薄闇の中で、男の青い瞳だけが奇妙に鮮明だった。
空のように澄み渡ったブルーは、今は翳って深い海の底を思わせる。
見つめていると引き込まれ、溺れそうになる深い海の色だった。
「何故・・・」
ハイネルが口に出来たのはそれだけだった。煙草の煙が喉の奥深くに入りこんだかのように、その声はひび割れ、掠れている。
オフシーズンの気安さで、FICCY主催のパーティーで久しぶりに顔を合わせたレーサー数人と連れ立って飲みに行った帰りのことだった。社交的に振る舞う必要があればそつなくこなすが、プライベートでは賑やかなことを好まないハイネルがその誘いに乗ったのは、既にパーティーで軽くアルコールが入っていたことと、グーデリアンに強く誘われたからである。
夜が明け、それぞれが帰途につくことになってハイネルがグーデリアンと連れ立ったのは、たまたま宿泊先が目と鼻の先にあるホテルだったからだ。恣意的な成り行きであり、そこに作為はない。
夜が明けたとは言え、まだ街全体が目覚めるには数時間待たねばならない頃合だった。酔って気が大きくなっていたせいか、安宿ばかりが軒を連ねる裏通りを二人は抜けていた。そこを抜け、大通りに出れば彼らの宿泊先はすぐだ。
顔をのぞかせたばかりで低い位置にある太陽は建物に遮られて届かず、衣服の隙間からすり抜けて肌を刺激する冷たいが清涼な大気のみが朝の訪れを告げていた。
冴えた朝の空気を裂いて歩いているうちに酔いの火照りは醒め、何とはなしに互いの口数も減っていった。だが居心地は悪くない。思えば、顔を合わせれば口論だけでは飽き足らず何度も手や足を出して喧嘩をしてきた相手だと言うのに、いつの間にか会話がなくとも気まずい思いをせずに済む間柄になっていたというのも不思議な話だ。
もう少しで裏通りを抜けるというところでグーデリアンは立ち止まり、コートのポケットを探った。自然ハイネルが先を行く形になる。
キャメル色のコートは裾が長くシンプルなデザインで、細身なハイネルの姿勢の良さを際立たせていた。彼らしい規則正しい足音が、冷たく静まった石畳に生のリズムを刻んでいる。
裏通りが途切れる場所で靴音が止んだ。
まるでそこが夜明けの入り口であるかのように、広々とした表通りには既に朝の光が満たされている。
暗いトンネルと、その先に待ち構える光満ちる外界のような光景。
煙草を探っていたせいで未だ通りの半ば過ぎにいるグーデリアンには、今自分が立っている裏道が行き着く先に満ちている薄明が、ぽっかりと口を開けてこの通りを丸ごと呑み込む時を待っているかのように見えたかもしれない。
いつの間にか朝靄が辺りを漂い、下ろされたグーデリアンの右手の先から強い芳香を放つ煙草の紫煙がたなびいている。煙は靄と一つになって交じり合い、朝の大気をたゆたった。
「グーデリアン」
表通りに出るということは、即ち二人がそれぞれの仮の住まいに戻っていくことを意味する。刹那の別離に向け、何かあいさつとなる言葉をかけようと思ったのだろう。ハイネルは立ち止まり、振り返ってグーデリアンを仰いだが、男は下ろされたままだった右手をゆっくりと口元に戻すと深く煙を吸い込んだ。数十分後には白く辺りを包み込むであろう朝日もまだグーデリアンの足元までは届かず、闇に包まれたままの彼の表情は全く読めない。
何故自分がそうしたのか、後から何度その時のことを反芻しても分からなかったのだが、ハイネルはその時自分からグーデリアンへと歩み寄っていた。光の街から、未だ闇からの眠りに醒めていない通りへと。
実際は片手分の長さを隔てて向き合っても特にかけるべき言葉も見つからず、ハイネルは少しだけ逡巡した後「それでは、」とだけ短く呟いた。
踏み出した一歩は別れの一歩となるはずだったのだ。けれどそうはならなかった。
その肩に手を置かれ、気がつけば彼は再び男と向き直っていた。言葉さえ何もなく。
力など全くこめられていなかった。磁力のような、奇妙で目に見えぬ力に操られていたかのようだった。
「グーデリアン・・・・」
その時自分の唇から洩れた相手の名を呼ぶ声が、何故震えていたのかハイネルには分からない。
男の顔が寄せられてくるのを、まるでその時を望んででもいたかのように従順に待っていた理由も。
「・・・・・・」
男のキスは苦い煙草の味がした。
唇が触れる前、・・・そして離れた時も、男は何も言わなかった。ただじっと青い目が見つめてくるだけだ。
青い目を見ていると引き込まれそうになる。
これは海の色だ。深い深い海の色だ。
足を踏み入れ、自分を見失えば、後は溺れていくしかない。
通りの出口に光が差し込むと、一帯が朝日に彩られるのに長い時間はかからなかった。
足元。藍色のコート。いつの間にか煙草の消えた右手。厚い胸元。広い肩幅。
男の体が下からゆっくりと日の色に侵食されていく。がっしりとした首筋と、襟足の長い蜜色の髪。
そして表情は・・・・表情はなかった。どんな時でも鮮やかな印象を残す男にしては奇妙なほどに。
「・・・・」
男が、グーデリアンが口を開いて何かを言いかけたが、それは言葉にはならなかった。代わりに彼は一度うつむいて表情を隠すと、やがて顔を上げて別の言葉に音を乗せた。
「・・・お休み、ハイネル」
その時のグーデリアンの静かな声と、口元に浮かんだ不思議な淡い笑みと、そして光が斜めに差し込んで揺らぐ海面のようにも見えた青い瞳が長らくハイネルの胸から離れず、折りに触れては寄せては返す波のように彼の意識の表層に浮かんできては漂い、彼からかすかなためらいや慄きの感情を引き起こしたのだった。
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あれから数年がたって、グーデリアンとハイネルはレーサーと監督として同じチームに所属している。あの当時は誰も、もちろん本人達を含めて夢想だにしていなかったことが現実になっていた。
いくつか年を重ね、変わったことも変わらないこともある。二人を取り囲む環境、立場、そして彼ら自身。
変わったことの一つには、グーデリアンとハイネルの間に恋人めいたやりとりが交わされるようになったことがあげられる。
変わらないこと。その一つは・・・。
「もう行くのか」
同じシーツを分け合っていた白い背中がみじろいたのに気づき、グーデリアンが短い声をかけた。栗色の髪は数時間前の情事で乱されたまま白いうなじを覆っている。
「ああ。二時間後に社の会合がある」
答えるハイネルの声は掠れており、行為の濃密さを容易に伺わせた。
いつもそうであるようにダメージを意識させない滑らかさでするりとベッドを抜けだし、彼はバスローブを着込むとシャワー室に消えた。
そしてやはりいつもそうであるように、グーデリアンは彼を見送った後ベッドサイドを探って煙草を手にする。プロのレーサーとして厳しく自分を律することを知るグーデリアンが煙草を口にするのは決まってハイネルに会っている時なのだと、ハイネル自身は知っているのだろうか。
デジタル時計は既に朝が来ていることを告げていたが、厚いカーテンの内部ではその気配はまだ伺えない。
光源はナイトテーブルに置かれたライトスタンドのみで、淡いオレンジ色の光の中をグーデリアンがくゆらせる煙草の煙が横切っていった。
ゆっくりと煙を吹かしていると、手早くシャワーを浴びて身支度を整えたハイネルがやがて姿を現す。いつもと同じきっちりと整えられた髪に身繕い。完璧な、一分の隙もない姿だ。
ハイネルはスーツケーツに手を伸ばしながらグーデリアンに声をかけてくる。この時彼はけしてグーデリアンと目を合わせようとしない。
「支払いは私が済ませておくから、お前はゆっくりしていけばいい」
二人で過ごした次の朝、ハイネルはことさらこういう言い回しを好む。初めて同じベッドで朝を迎えたのは遠い昔ではないが、それでも初めての時から今まで、ハイネルのこうした振る舞いは全く変わらなかった。
「サンキュ。折角だから羽を伸ばさせてもらおうかな!ハイネルの奢りだって言うし」
何本目かの煙草を灰皿でもみ消したグーデリアンは、彼とは対照的に明るい声を出した。これもいつものことだ。
「私がいないからと言って調子に乗ってハメを外すなよ」
「オーライ、分かったよ。ハメは外さない。アイプロミス。外すのはオンナの子のボタンだけにしておく」
ハイネルからの返事はなかったが、グーデリアンは「冗談だよ」とどこまでが冗談なのか全く分からないトーンで付け加えた。
けしてグーデリアンの方を見ようとしなかったハイネルが出ていくために寝室のドアに手をかけると、そこで彼の肩にグーデリアンの手がかけられた。これまでに何回となく繰り返された行為。
ここでようやくハイネルはゆっくりと振り向いてグーデリアンと相対する。
ハイネルの視線は足元から膝元、シーツをおざなりに巻きつけた腰、鍛え上げられた腹筋と上に上がっていき、やがて青い目と視線が絡んだ。
この瞬間はいつも呼吸を忘れる。
二人だけの親密な時間を持つようになって初めて知ったのだが、グーデリアンは静かな表情をする男だった。もちろん相変わらず騒々しい男ではあるのだが、驚くほど静かな顔の出来る男でもある。
そしていつも。
必ず彼は何か言いかけるのだが口を閉ざし、少したってから別の言葉を口にするのが常だった。
「またな、ハイネル」
穏やかな言葉と表情と、深い青い瞳。
すぐに出てきてくれるはずの辛辣な言葉は音になってくれず、ハイネルはただ無言でうなづくと自分の責を果たすために寝室のドアを開けるのだった。