ニューロンの情動
人気のないピット奥でキスを交わす時には、いつも苦い背徳感と、それと同じだけの甘い快楽を得る。
「ん・・・・・っ」
相手を牽制するために、ハイネルは掴んでいたシャツの裾を力の入らない手で引っ張った。
それに気付いているだろうに、相手は・・・・グーデリアンは構わずにキスを深くしていく。
グーデリアンのキスは巧みで、すぐに理性を絡めとられそうになってしまう。
頭の芯からしびれるような感覚に襲われながら、それでもハイネルは粉々になりそうな理性の欠片を必死の思いでかき集めて思考を構築しようとしていた。
ピットには自分とグーデリアンの二人しか残ってはいない。だが、誰かが忘れ物を取りに戻るかもしれない。自分を探しにくるかもしれない。グーデリアンに用のある女性がいるかもしれない・・・・。
同性との恋に溺れているという自覚が生み出す罪の意識。それが恋の熱情に流されそうになるハイネルの意識をいつも冷ややかな現実に立ちかえらせる。
どんなにグーデリアンの与えるキスが甘く、抱きしめてくる腕の強さに酔おうとも、完全に理性を手放してはしまえない理由がハイネルにはあるのである。
「グーデリアン・・・見られるかもしれない、から・・・」
長く深いキスの合間に、それでも呼吸を乱しながらハイネルはグーデリアンに訴えた。レーシングスーツの上を脱いだグーデリアンの厚い胸板の感触が薄いシャツ一枚を通して伝わってくる。
「見られるかもしれないから?だから?オレは見られたって構わないぜ、誰にだって」
ひどく真摯な青い目に見つめられながらそう言われると何も返すことができなくなる。甘い呪文にからめとられてしまったかのように、ハイネルは再び苦く甘いキスに没頭していった。
CFはレース開催がかなり特殊なため、今回のように次のレースまで1ヶ月以上のスパンがあくことも珍しくはない。だが、もちろんその間完全にレースの呪縛から解き放たれるわけにはいかなかった。
シュトロゼックプレジェクトは本日で一週間のマシンテスト日程を終え、明日から二週間近くのオフに入ることが決定している。その後再びマシンテストを経た上で新たなレース会場へと足を運ぶこととなっていた。
もちろん監督であるハイネル以下、レーサーであるジャッキー・グーデリアンを含めてレースを愛して止まない者たちばかりではあるが、やはり久々にまとまってとれるオフが目前に迫っているだけあって多少浮き足だっていたのは否めない。
ハイネル自身、さすがに二週間というわけにはいかなかったが、それでも一週間ほどはゆっくりと休息を取ることができる手筈になっていた。
グーデリアンがあれこれと休暇の計画(もちろん二人で共に過ごすのである)をあげていくのを呆れたようにいなしながら、だが彼も楽しみにしていたのだ。
・・・・・・・・・・一通の封書が彼の元に届けられるまでは。
グーデリアンとハイネルが共に休暇を過ごすことを選んだのは、アメリカの片田舎にあるグーデリアンの持ち家の一つだった。
ハイネルはヨーロッパでの滞在を強く主張していたのだが、彼に仕事を完全に忘れさせるには欧州よりもこの地の方が向いているだろうとグーデリアンが判断したためである。
「ハイネル!見てよこれ。ファンの女の子がオレ宛にって届けてくれたんだってさ。いや〜、モテる男はツライね!」
CM撮りがあったせいで後から現地入りをしたグーデリアンは、両手いっぱいのバラの花を抱えて現れた。くすんだ金髪に信じられないほど青く澄んだ瞳。ただでさえ派手な色彩をまとう彼には花がよく似合う。
鮮やかな真紅のバラに負けないほどの存在感を放っているのはこの男ならではだといえるだろう。
「真紅のバラの花言葉は”熱烈な愛”・・・・オンナの子にモテようと思ったら花言葉の一つもたしなんでなきゃな。・・・・ハイネル?」
上機嫌でリビングへと顔を出したグーデリアンは、ソファに腰かけて自分を見つめているハイネルの表情が硬く強張っているのに気がつき、いぶかしげに青い目をすがめた。
「ハイネル?どうしたんだ?」
「私たちのことがどこからか漏れた」
「え!?」
ハイネルが言っている意味がわからず、グーデリアンはバラの花束をテーブルの上に置くと、自分もハイネルのすぐ横に腰かけた。
見ると、ハイネルの白い指には便箋が握られている。目線だけで読んでもいいかと促せば、うなづきが返ってきた。
その便箋からは、グーデリアンが抱えてきた花束と同じ香り・・・つまりバラの香りがほのかにした。洒落た趣味のヤツなんだな、と皮肉な思いでグーデリアンは便箋を開く。
内容は極めて簡潔かつそれゆえに冷酷なものだった。宛名はグーデリアンとハイネル、両名宛になっている。PC入力されたらしい言語は英語。これはグーデリアンに合わせたのか、あるいは本人に英語の素養しかなかったせいなのかは分からない。
自分はお前たち二人の関係を知っている。
・・・・・・言ってみれば、それだけの内容だった。だからどうするとの宣告、あるいはだからどうしろとの要求は何も書かれていない。
すぐに読み終えると、グーデリアンは無言でその便箋をテーブルに投げやった。
隣に座っているハイネルを見るが、彼は整った怜悧な面差しに硬い拒絶の色を浮かべてテーブルの上をにらんでいる。
「モーターホームの入り口に挟んであったんだ」
硬い声でハイネルは簡潔にそう言った。
「普段ならば無記名の手紙などマネージャーを通さずに開けることは絶対にないのだが、久しぶりのオフが取れるということで私も気が緩んでいたらしい」
もっとも、便箋を開く前にマネージャーに連絡を取っていたら、必然的にこの文面も知れることになっただろうからあながちミスジャッジだったとも言えないが、・・・・とハイネルはつけ加えた。
奇妙なことに、グーデリアンの反応は驚くほど穏やかだった。ただ、常に少年のような輝きを宿している青い瞳だけが冴え冴えとした冷たい光に彩られている。
ハイネルが深く息を吸い込んだのが彼にも分かった。
「グーデリアン、私たちはしばらく会わない方がいい」
緊張していることがありありと分かる硬く尖った声で言われた時も、ハイネルがそう切り出すことは予想の範囲内だったのでグーデリアンは驚かなかった。むしろいつ彼がそう切り出してくるだろうかとタイミングをはかっていた節さえある。
想像していたよりも平静を保てている自分自身に対して不思議な気持ちになりながら、グーデリアンは青い目に射貫くような鋭さをこめて恋人を見た。
「お前がいつそういうことをオレに切り出してくるだろうかって、ずっと考えつづけてきたような気がする」
視線の厳しさとは裏腹に、その声は低くはあったが静かで乱れてはいなかった。
ハイネルはただ何かに耐えるように眉をきつくひそめている。
「いつか、・・・どんな状況でかは分からないけど、きっとお前がそういうことを言い出してくるんじゃないかと」
「・・・・」
「ハイネル。お前はオレと別れたいのか?」
ハイネルからの返答はなかったが、強張った横顔には強い拒絶の意志が見てとれた。恐らくグーデリアンが自分たちの関係に対するどんな提案をしても聞き入れる気はないであろう表情だ。
落ちかかっていた前髪をグーデリアンがすくいあげてやろうと指で触れただけで、かわいそうなほど顕著に肩が震えた。
「・・・花、生けてくるよ。折角もらったのにこのまま枯らせちゃかわいそうだろ」
そう言ってグーデリアンが席を立ってもハイネルからの答えはなかった。
真っ赤なバラをシンクに持っていき、適当な器に入れて水を満たす。いつものハイネルならば大ざっぱな彼のやり口に文句の一つも口にするところだろうが、この様子ではグーデリアンが何をしたところで反応を返してはくれないだろう。
甘い芳香が鼻腔をくすぐり、スッキリとした清潔感にあふれていた洗面所が一気に華やいだが、この状況ではやけに空しく、空々しいもののようにも見えた。
「ハイネル」
とりあえず花の処理を済ませたグーデリアンは、リビングの扉に背中を預けた姿勢でハイネルに声をかけた。
緩慢な仕草でハイネルが見動くのが目に映る。わずか十数時間離れていただけで彼がかなり焦燥し、精神的なダメージを被ったのがその青白い顔色からもみてとれた。
「逃げるなよ」
「グーデリアン?」
「お前は今すぐオレと別れて、何もかもなかったようなフリをしようって思ってるんだろ?でもダメだ。オレは全然納得してないし許さないぜ」
「だが、グーデリアン、現実に・・・・」
「まずはこの手紙の差し出し人を割り出さなきゃいけない。だろ?こいつをオレたちに出してきたのが誰で、何の目的があるのかを突き止めなきゃ。それまではオレたちが協力しあった方がいいはずだ。分かるよな?」
グーデリアンの主張は正論であり、彼はフランツ・ハイネルという人間が正当な理論に弱いことを十二分に理解していた。
ハイネルには自分の感情よりも理性や論理を是とし、それに従おうとするところがある。そのことは彼の長所でもあり、同時にアキレスの踵でもあった。
時代が拓けてきたとは言え、それでも特にハイネルが属するような欧州のアッパークラスにおける社会的通念においてはまだまだ同性間の恋愛は異端である。
ハイネルがその通俗的観念に縛られて自分との恋愛に必要以上に臆病になっているのはグーデリアンにもよく分かっていたし、彼の気持ちを考えると強く出られない面もあった。
それでも。
それでも、ひくことのできない時があるのだ。
「・・・この手紙の差し出し人と、その人物の目的が特定できるまでだ」
「上等だぜ」
銀縁のメガネの奥深くにしまわれたグリーンアイズに強い意志の光が宿るのを見届けてから、グーデリアンは満足そうに笑ってうなづいてみせた。