最後の魔法



「ふーむ……」
 壁一面に張られた古い地図を見ながら、フランツ・ハイネルはあごに手を当てて深いため息をついた。
 ここは『緑の王国』の中で最も伝統があり、かつ名も通っている剣士・魔導師養成学校『S.G.M(”School Of The Great Magic”)』だ。下級部の最上級生であるハイネルは、今週は学長室の掃除当番だった。
 ハイネルは学長室の掃除が大好きだった。そもそもハイネルは年頃の青年の割にはきれい好きな一面があり、掃除はもちろんのこと、整理整頓も自分から率先して行う質だ。
 だが、学長室の掃除が好きな理由はそれだけではない。この部屋には、壁一面に緑の王国がある大陸や、その周囲の海まで描かれた大きな地図が張ってあるのだ。
 それを見ているだけで、ハイネルの心は浮き浮きしてくる。
「この世界には、私がまだ知らない魔法や理、見たこともない風景がたくさんあるのだろうな。学校を卒業して一人前の魔法剣士になったら、ぜひこの世界を旅してみたいものだ……」
 ハイネルは地図に触れ、うっとりと目を閉じた。瞼に浮かぶのは長いマントをまとい、魔法の媒介となるブレスレットや宝玉などを身に付けた、つまり一人前の魔法剣士となった自分の姿だ。
 白い馬の手綱をとり、荒野を歩いている。
 その隣には、一人の男がいた。
 がっしりした身体を旅装用のレザーアーマーで包み、腰に大きなクレイモアを下げているところを見ると、どうやら剣士らしい。好き勝手に伸びた麦穂色の髪を真っ赤なバンダナで抑え、笑うとただでさえ下がり気味の目尻がよけいに下がって、剣士というより子供のように見える。
「だーーーっ、な、何であいつがっ!」
 自家製の整髪剤で立ち上げた髪をくしゃくしゃにしていると、背後から声を掛ける者がいた。
「ハイネル、掃除は終わったかな?」
「が、学長!」
 黄金色の長い髪をなびかせ、深緑色のローブをまとった男がゆっくりと部屋へ入ってくる。
「どうした? 随分と熱心に地図を見ていたようだが」
「いえ、べ、別に」
 慌てるハイネルに微笑みかけながら、学長はゆったりと席につく。
「ところでハイネル」
「はい」
「おまえは今でこそ下級部最上級生だが、既に上級部生に劣らぬ能力を有している。なのに何で飛び級もせず、宮廷に仕えることも拒否してるのだ?」
「……私はまだ、ここで学びたいことがたくさんありますから」
「ふうむ」
 学長は長い髪を一振りすると、含みを持たせたいらえを返す。
 ハイネルの能力は下級部の中では飛び抜けていた。S.G.Mでは上級部で魔法の講義を受けるなら、下級部の間に『サイレントスクリーマー』という魔法を会得しなければならない。それすらとっくの昔に習得している。
 能力的には下級部である『ZIP』よりも上級部である『シュトロゼック』、本人が希望すれば研究院である『シュトルムツェンダー』に進級できるだけのものを既に持っているのだ。
 さらには、もしハイネルが承諾すれば、S.G.Mは彼を宮廷お抱えの魔法剣士見習いとして推薦してもいいとさえ思っている。
 だがハイネルは、それらをがんとしてはねのけている。
「それはもしかして、あの剣士候補生のせいなのかな?」
「って、何、を……?」
「ハイネル〜、ハイネル、いる〜?」
 ハイネルが狼狽していると、廊下からばたばたというとてつもなくうるさい足音と大声が聞こえてきた。
「グ、グーデリアンっ!」
 ハイネルが振り返るのと、真っ黒な塊が学長室へ飛び込むのとはほぼ同時だった。「あ〜いたハイネルっ! ねえねえ、ヒーリング魔法、かけてよ〜」
 黒い塊は、どうやら全身焼け焦げた人間であるらしかった。ハイネルに抱きつくと、まるで仔犬がご主人様へするようにすりすりと顔をなすり付けてくる。
「グーデリアン! そ、そんな格好で学長室へ来るんじゃないっ!」
 ハイネルは黒い塊を必死に引き剥がそうとする。だが敵もさるもの、たくましい腕をハイネルの細腰へ巻き付け、一寸たりとも離れようとしない。
「久しぶりだなジャッキー・グーデリアン」
「あれえロペ、いたんだ」
「当たり前だろうここは学長室だ! しかも貴様、学長に対して何て口のきき方をするのだっ!」
「ああごめん。俺、ハイネルしか目に入ってなかったから」
 煤けた顔で、そこだけ空のように青い瞳がきらりと光る。
 グーデリアンをぼこぼこと殴りつけていたハイネルがふと手を止め、頬を染める。
「なあロペ、もう用事済んだんだろ? ハイネル借りてってもいいかな?」
「グーデリアンっ!」
「ああ、部屋はきれいになったようだし、私はもうハイネルには用はないぞ」
「OK〜。んじゃロペ、またな」
「お、おいグーデリアン! 何をする! お、降ろせーっ!」
 ハイネルがわめき散らすのも構わず、グーデリアンはそのほっそりした身体をさっさと小脇に抱え込み、どしどしと学長室から立ち去っていった。
 今の今まで黙っていた黒髪の青年が、学長にぽつりと言う。
「彼らは、仲がいいのでしょうか悪いのでしょうか?」
「そんなことは誰にも分からんよ、日吉」
 学長は腕を組むと、至極無責任な笑顔を浮かべた。




「ってーーーっ! イテーってばハイネル!」
「うるさいっ! なら自分でやれ!」
 ここはS.G.Mのいわば医務室だ。壁に作り付けられた木製の棚には、消毒剤や解熱剤などの基本的な薬に混じって、何に使うのかよく分からない怪しげな薬品まで並べてある。
 ハイネルは全身黒焦げ状態のグーデリアンを椅子に座らせると、まず消毒剤で殺菌してやった。なのにグーデリアンは痛いだのしみるだのと大声でわめき立てる。これではハイネルでなくとも、文句の一つも言いたくなるだろう。
「だって、魔法の傷って薬だけじゃアレなんだろ? でも俺、回復魔法なんかできねえし……」
「貴様は初歩の治癒魔法もできんのに、魔法の練習をしてるのか?」
「仕方ねーだろ! ……ててっ!」
 ハイネルは顔の表情を変えず、グーデリアンの胸にある一際大きな傷に消毒剤をぐりぐりとすり込んでやった。相当しみたのだろう、さすがのグーデリアンも叫ぶのを止める。
 この時代、薬は剣などによる物理的な傷をふさぐには確かに役立っていた。だが魔法で負った怪我は、一見しただけでは肉体のどこまで影響を受けているのか分かりにくい。だから『魔法の怪我は魔法で治せ』が、魔法学の基礎となっている。
「練習してたのは、サイレントスクリーマーか?」
「そうだよ」
「なあグーデリアン。おまえには溢れんばかりの剣の才能がある。だがこう言っては何だが、魔法の能力は小指の先程もない。なのに何でそんなにサイレントスクリーマーにこだわるのだ?」
「だってさあ……」
 筋肉が見事に隆起した腕を差し出してハイネルに包帯を巻いてもらいながら、グーデリアンの目が反抗的にきらめいた。
「サイレントスクリーマーができなきゃ、来年度は魔法の講義が受けられねーんだぜっ! そしたらハイネルと同じ授業に出られねーんだよ! おまえはそれでもいいのかよハイネルっ!」
「グーデリアン……」
 激昂して叫ぶグーデリアンを、ハイネルは唖然として見つめていた。
 S.G.Mでは下級部から上級部へ進学する際、剣士、魔術師、魔法剣士の3つの専攻に分かれる。基本的には各々の生徒の希望に沿って振り分けられるのだが、最終的な決断は教官が適性を見極めながら行う。
 ハイネルが希望しているのはもちろん魔法剣士だ。優れた剣術と同時に高度な魔法をも駆使する、いわばバランスのとれた戦士となることを望んでいた。
 対するグーデリアンは、既に一流の剣士として頭角を現している。今すぐにでも宮廷に仕え、一部隊を任されても不思議はないぐらいの剣技と度胸のよさを備えているのだ。
 剣士になるのであれば、魔法の講義を受ける必要などない。だがグーデリアンは少しでも多くの時間、ハイネルと一緒にいたかった。
 魔法剣士と剣士、専攻が違ってしまえばただでさえ同じ授業は減ってしまう。
 ここでグーデリアンは決意した。上級部へ進学しても、あえて魔法の授業を受けることを。
 だが問題は残っていた。S.G.Mでは上級部で魔法の講義を受けたいのなら、下級部でサイレントスクリーマーという魔術を会得することが絶対条件だったのだ。
 そこでグーデリアンは、このところしょっちゅう魔法自習室でサイレントスクリーマーの練習をしていた。そうして怪我をしては、ハイネルのところへ駆け込んでくる。止血程度の治癒魔法でさえできないグーデリアンと違い、ハイネルは既に最上級レベルの回復魔法をも会得していたからだ。
 とはいえ、さすがのグーデリアンもちょっとした怪我ならともかく、ここまで黒焦げになったのは初めてだった。
「そもそも、何でサイレントスクリーマーの練習で黒焦げになるんだ?」
 サイレントスクリーマーとは『静かな叫び』というその言葉通り、普通なら聞き取れないレベルの超音波を発することで敵を混乱させるという魔法だ。いわば精神に作用する魔法で、火の球や氷の剣、雷の矢などにより物理的ダメージを与える魔法とは根本的に違う。いくら練習中とはいえ、こんな怪我をするなど常識では考えられない。
「知らねーよ。おおかた俺が呪文を言い間違えたんだろ」
「だろうな」
 ふてくされたように言うグーデリアンを、ハイネルが軽くいなす。
「おいハイネルっ!」
「うるさい。少しの間、黙ってろ」
 ハイネルは先程消毒したグーデリアンの胸の傷に手を当てると、冷厳に呟いた。
「って……」
 ――。
 ハイネルの唇が、未知の言語を呟き始める。
 いや、それは決して未知のものではない。グーデリアンに魔法学の初歩、古代魔法語を解する能力さえあれば、ハイネルが唱えているのが最上級のヒーリング魔法の呪文であることが分かったはずだ。
 だが、残念ながらグーデリアンにはその意味を理解することはできなかった。
 ただ思っていた。呪文を唱えるハイネルの声は本当にきれいだな、と。
 いつまでもいつまでも聞いていたいぐらいに。
 と、ハイネルの手のひらから乳白色の光が発せられた。
 光は傷口を包み、みるみるうちにふさいでいく。
 同時に、グーデリアンは胸から、正確にはハイネルの手が触れた部分から温かなものが伝わり、それが身体中へ広がっていくのを感じていた。
 己の肉体にとって災いとなるものが、それにより全て一掃されるように思える。
「気分はどう……だ?」
 光が消えると、ハイネルはグーデリアンに掠れた声でたずねた。だがそう聞くハイネルの方がよほど疲れていそうだった。
 魔法、それも上級魔法を使えば、それだけ精神的にも肉体的にも疲労する。ハイネルが今使ったのは、ヒーリングでも相当上級に類する魔法だった。サイレントスクリーマーの失敗で発動した魔法がどんな種類のものだか分からない以上、自分にできる最上級の治癒魔法をかけておくのが賢明だろうと判断したのだ。
 だが、その分疲労度も大きかったようだ。
「大丈夫。すげーいい気分だよ。まるでセックスした後みたい」
「き、さ……っ!」
 ハイネルはグーデリアンを殴りつけようとして身構えた。
 グーデリアンは夜になるとしょっちゅう学院を抜け出しては街、それもかなりいかがわしい場所へ遊びに行っているともっぱらの評判だった。
 剣士見習い、魔導士候補生とはいえ、皆年頃である。遊びにもそれなりの興味がある。
 さらに、いざ戦いとなれば、色事というものは案外と戦略的に重要なポイントとなる。そんなわけでS.G.M側も、夜遊びを奨励こそしないまでも黙認していた。この辺り、他の剣士・魔導師学校とは一味も二味も違う。学長が南の地方出身ということも関係しているのかもしれない。
 ハイネルは一度、グーデリアンへ皮肉混じりに言ったことがある。
『そんなに夜遊びしていて、よく体力がつきんな』と。
 それに対する答えはこうだった。
『だって、いつかハイネルからお許しが出たとき、下手くそじゃ恥ずかしいじゃん』
 もちろんハイネルは即座にグーデリアンを殴りつけた。
 その時と同じようにグーデリアンへ殴り掛かろうとした瞬間、ハイネルの身体は力尽きたように崩折れた。
 そのハイネルを、グーデリアンが優しく抱き止める。
「おいおい、魔法使った後なんだからムリすんなって」
「誰のせいで、こんな……」
 ハイネルが悔しそうにグーデリアンを見上げる。
「ん、俺のせいだね。ごめんよ」
 グーデリアンはよしよしと言わんばかりにハイネルの頭を撫でさする。
 医務室備え付けの小さな椅子が、二人分の体重に耐えかねてぎしぎし鳴った。
 何度も言うようだが、グーデリアンには魔法の才能は全くない。
 だが、こうしてグーデリアンに抱きかかえられて優しく頭を撫でられていると、ハイネルはまるで回復魔法をかけられたような、身体の奥から力が沸き上がってくるような、そんな不思議な感覚がしてくる。
 そっと目を閉じる。
「なあ、おまえと同じ授業に出たいっていうのは、そんなに大それた願いなのかなあ」
 グーデリアンはなおもハイネルの頭を撫で続けながら、低い声で語り掛けてきた。
「そりゃ、俺には魔法の才能はないよ。でも、それでもおまえと一緒にいたいんだ、ハイネル。それっておまえはイヤ?」
「私は……」
 ハイネルの白い眦が朱に染まる。
「別に、いやではない、が」
「ホントにっ!」
 喜びも露わに叫ぶと、グーデリアンはぶちゅっと音が出そうな勢いでハイネルにキスした。
 あらん限りの力を振り絞ってハイネルがグーデリアンへ鉄拳を喰らわせるまでにコンマ何秒かかったかは、残念ながら計測不可能だった。なぜなら、この時代にはスイス製超高級時計が存在しなかったのだから。




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