「よく、戻ってきてくれましたね、フランツ」
ドクターの薄暗い部屋の中に、ハイネルはドアを背に佇んでいた。
グーデリアンの部屋から無我夢中で逃げ出し、気がつけばここへ来てしまっていた。
白衣を着ていてすらどす黒いイメージのあるドクターの笑みは、太陽の光を集めたようなグーデリアンのそれとは正反対で、ハイネルは知らぬうちに唇を噛んでいた。
長年探しつづけてきた、憎まなければいけないとわかっている相手なのに、どうしても心は彼のもとへいってしまう。
二度と会わないと決めた相手なのに、今すぐにでも彼のいるあの部屋へ走って行きそうになってしまう。
誰よりも、何よりも、太陽に愛された彼。
太陽の光で作られたような黄金色の、獅子の鬣にも似た髪と、太陽のあるべき蒼穹色の優しい瞳。
ハイネルは、瞳を閉じた。
暗い場所に生きる彼にとって、彼は眩しすぎた。
ほんのわずかな時間でも、一緒にいられたことを、感謝しなければならない。
ひんやりとした、ドクターの手の感触がハイネルの瞳を開かせた。
「浮かない顔ですね」
いつの間にか正面に立つドクターに、思わずあとずさったが、背中ごとドアにぶつかり阻まれてしまう。
「そういう顔も、素敵ですけど」
その手はハイネルの頬から耳元、首筋へと動き、ハイネルの、いちばん上まで留められていたシャツのボタンへ移動した。
「あなたは、夜に服を着ているべき人ではないんです」
ゆっくりと、ひとつずつドクターの手で外されてゆくボタンを、ハイネルはどこか覚めたような目で見つめていた。
「所詮、あなたには私のところにいるしか、生きる術はないのですよ」
ねっとりとしたドクターの言葉がハイネルをやんわりと縛り上げる。
「金のために路上に立ち、復讐のために身体を売るあなたに、こんな服は必要ないでしょう?」
グーデリアンがはじめて買ってくれた、ハイネルの瞳の色に近い、わずかに光沢のあるシャツが肩から外され、素肌が外気に曝されてはじめてハイネルは身を竦めた。
「や、め…」
ハイネルのか細い声に刺激されたのか、ドクターの手はそれ自体が意思のあるもののようにハイネルの背筋を撫で上げる。
「唯一愛した男が親の敵と知って、どんな気持ちでしたか?」
やわらかい耳たぶを噛まれ、ドクターの黒髪が鼻先をくすぐる。
「唯一愛した男に抱かれずじまいで、それなのに私にこんなコトをされて、かわいそうに」
首筋を這うぬめった感覚に悲鳴を上げそうになり、ハイネルは手の甲で口を覆った。
「声を、聞かせなさい、フランツ。今まで、数知れずの男たちに聞かせてきたように」
「…い…やぁっ」
脱がされたシャツで両方の腕をまとめて頭の上で縛って固定され、ドクターの片手がそれをドアに固定する。
体全体をハイネルの身体に押し付け逃げられないようにし、足を開かせて不安定な体勢のハイネルのスラックスのボタンを器用にはずしてそのまま足元に落とし、もう片方の手が直接敏感な個所に触れてくる。
体中のいたるところから湧き上がる不快感を散らそうと身を捩るのに、ドクターの手は執拗にハイネルの肌の上を這いずり回り、気が狂いそうだった。
「ジャ……ク……」
喉の奥に塊が詰まったようで出てこない声を振絞ったハイネルの口からもれたのは、太陽の名前だった。
ハイネルの姿を飲み込んだドアを、グーデリアンは呆然と眺めていた。
どうしてすぐに気がつかなかったのだろう。
ハイネルに出会ってしまったのは偶然だとしても、ドクター・ナグモの話を聞いたときに、どうしてあれほどの憤りをすぐに思い出すことができなかったのだろう。
それは多分、被害者の側から語られたからだ。
そして何より、ドクターの話を信じていなかったからだ。
彼の話が、すべて彼の都合のいいように変えられていると、そう思い込んでいたからだ。
そのときふと、ハイネルの残していった写真立てが目に入った。
唯一の、グーデリアンと出会う前から持っていた、ハイネルのもの。
シンプルなシルバーのフレームはもうずいぶんと古いものらしく、すっかり黒ずんでいる。
その中に挟んである写真を見て、グーデリアンは不覚にも胸に熱い塊がこみ上げてくるのを止められなかった。
色の褪せた写真は、ハイネルの家族らしきもの。
両親と妹に挟まれて、はにかみながら立っているハイネルは、まだ幼い。
そして、その横、ちょうど妹とハイネルの間に、上から挟まれていたのはグーデリアンの姿だった。
どこかの雑誌に載っていたものらしきスーツを着たグーデリアンの切り抜きが、ハイネルに並ぶように入れられている。
「ハイネル…」
言葉少なだったハイネルが、グーデリアンのことをどれほど想っていてくれたか、これが示していた。
グーデリアンは、ハイネルの親の敵だ。
それを知るまでは、だけど幸せだった。
だから。
『おまえの命は、私が次におまえを見つけるときまで、あずけておいてやる』
だけど。
それでもやっぱりグーデリアンを愛しているから。
グーデリアンを死なせたくないから。
『二度と、私の前に現れてくれるな』
ハイネルの、写真立てに込めたメッセージは、グーデリアンの胸に酷く痛かった。
そしてグーデリアンは、パソコンを立ち上げ、企業のトップだけが知るシークレットコードをタイプしたのだった。
初夏の蒸し暑さを孕んだ空気はハイネルは好きではない。
朧にしかない記憶の片隅で、ガスにまかれた時期が今であると告げている。
その上、日いちにちごとに遅くなる日没が、ハイネルが客を求めてさまよう時間を遅くし、その分、ドクターと過ごす時間が長くなる。
あの日、グーデリアンのもとから逃げ出した日以来、以前よりもドクターがハイネルの身体を求める回数が増えていた。
特に、ハイネルが客を取った後は執拗だった。
ドクターの部屋へ来るときもあれば、ハイネルの部屋ですることもあり、ベッドの上でもテーブルの上でもお構いなしだった。
今日もドクターに呼ばれ、逃げる術を知らないハイネルが地下の薄闇の中で体を強張らせ、ドクターが手を差し伸べてくるのに導かれるように一歩、踏み出した時。
いきなり荒々しい音と共にドアが開かれ、廊下の光が差し込んできて、暗さに慣れていたハイネルは目が細まった。
「あんたがあの名雲京志郎だったとは、俺もたいがい迂闊だったよ」
突然に聞こえてきた声は、ハイネルにとっていちばん聞きたいものだった。
大地のように暖かい、すべてを包み込むグーデリアンの声。
だが、その中には今、剛剣のような響きがまざっていた。
「…ジャック……なぜ…?」
ハイネルの細い声にグーデリアンからの返答はなく、だが腕を力強く引かれ、ハイネルの一段と細く骨ばった身体はグーデリアンの厚い胸板にぶつかった。
「久しぶりだな、ドクター・ナグモ」
左腕でしっかりとハイネルを抱き、右腕には小型の銃がドクターの胸に照準を合わせて静止している。
「うちの社の裏の部分を牛耳り、いわれるままに容赦なく相手を叩き潰すその手段は冷酷で残虐。だが、誰もその彼の素顔を知らない」
まるで、書いてある文を読み上げるような平坦さで言われた言葉に、ドクターは唇の端を引き釣り上げた。
「ハイネル家の社を潰したのも、おまえだな」
そのひとことに、ハイネルの身体が跳ね上がる。
「ドクターっ!?」
「ばれてしまっては仕方がありませんね」
それでも堂々とした態度は崩さず、ドクターはグーデリアンに向き直った。
「それで、私をどうしようというのです?そんな物騒なものを向けられるほど、私はあなたの社に不義理をした覚えはありませんが」
ぬけぬけと、とはこういうことを言うのだろう。
「そうだな。だが」
グーデリアンは触れているハイネルの身体ががたがたと震えるのを感じた。
「ハイネルにした仕打ちは許されることではないだろう?」
「そうかも知れませんが、あなたにそれを指摘されるのは不愉快ですね」
「ドクター!」
悲鳴のようなハイネルの声に、ドクターは視線をグーデリアンから離し、ハイネルへ向けた。
「そう、初めてあなたの家を偵察に行ったあの時、フランツ、私はあなた一目ぼれしたんですよ。これほど綺麗な人を、自分のものにしたい、そう思いました」
幼子に言い聞かせるように、ドクターの口調はゆるやかだ。
だが、それはハイネルの震えを止めることはできなかった。
「なぜ、両親や妹は死んだのに、自分だけ助かったのか、疑問に思ったことはありませんか?」
あくまでおだやかに、ドクターは続ける。
グーデリアンの手に握られた銃口など、意識にないように。
「私が、あなただけはガスの影響を少なくするよう、細工しておいたんですよ。まるきり無事だと疑われますからね。生死の境をうろつくくらいには苦しんでいただきましたが、一命は取り留めたでしょう?」
まるで自慢話をするようにドクターはにやりと笑った。
「もちろん、あなたの面倒を見たレディは私の祖母ですとも。強力なライバルには偵察を入れ込むことがセオリーでしょう?もっとも彼女はあなたの妹も助けたいと思っていたようですが、そこまでは甘い顔はできませんからね。そのおかげで彼女は多少の罪悪感から、あなたにはつらく当たらなかったはずですが?」
ハイネルは、無言だった。
案黒色の沈黙を破ったのは、グーデリアンの声だ。
「言いたいことは、それだけか」
言葉と同時に、グーデリアンの手の先から、セーフティロックを外すかちゃりという音が聞こえた。
「俺の会社は、もうない」
ハイネルが音がするほど勢いよくグーデリアンを見上げれば、グーデリアンはハイネルのいちばん好きな、太陽のような笑みを浮かべた。
「ハイネルの受けた仕打ちに比べれば、なんでもないことかもしれないが、ちょいと小細工をして社のデータをごっそり全部消してきた。一から出直すには、ちょっときついだろうウィルスも、ばら撒いてきた」
「ジャック…」
「俺はもう、立派な浮浪者だ」
グーデリアンの無骨な指が、トリガーにかかる。
「ハイネルを失うことに比べたら、こんなことくらい、何でもないんだ」
そのままの笑みを、ドクターに向けた。
「ハイネルが苦しんだ分、利子つけて返させてもらうよ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、室内が轟音と共に一瞬だけ明るくなった。
「ハイネル!」
だが、もとの薄闇に戻った室内には、ドクターの悲鳴もない。
グーデリアンは、逸らされた照準の原因を見た。
そこにはハイネルが必死でグーデリアンの腕を掴んでいた。
「いけない、ジャック」
硝煙の匂いの中で、ハイネルが首を振った。
「ジャックは、こんなことをしてはいけない。ジャックは、太陽なのだから」
「ハイネル…」
「だから…」
そしてハイネルはグーデリアンの手からゆっくりと銃をもぎ取り、ドクターに向けた。
「私が、する」
「フランツ!?」
ハイネルは、華奢な両腕を真っ直ぐ伸ばし、ほんの少し足を開いて、ドクターを真正面に見据えた。
「あなたには、感謝しています。あなたが私の命を救ってくれたおかげで、こうしてジャックと出会えたのですから」
そういったハイネルは、儚げに笑った。
2度目の轟音とともに、ドクターの白衣の胸元が、鮮血で染まる。
「許してくれとは、言いません」
かくんと膝を折ったハイネルに向かって、ドクターの顔に初めて透明な笑みがのせられた。
「だけど、どうしても、あなたを私のものにしたかった。陽の当たるもとで育ったあなたが私に好意を持ってくれることなど望みえなかったから、あなたを私の世界へ引きずり込んだ。だけど…」
遠のく意識を懸命に引き戻して、ドクターは告げた。
「これだけは、信じてください。私は、あなたを、愛していた…」