穏やかな日が続いた。
平日はグーデリアンは勤めがあったから、ハイネルはほとんど1日中、寝るためでなく、とどまるところを知らない知識欲を満たすために図書館で日を過ごしていた。
「そういえば、幼いころは本を読みすぎだと、父親に叱られたことがあったよ」
苦笑しながらそう、途切れ途切れの記憶の断片をグーデリアンにもらしたこともあった。
それもなるほどと思えるほどハイネルは読書を好んでおり、目につく本を片端から読んでいるようで、いずれは辞書や電話帳まで読み始めるんじゃないかとグーデリアンは笑った。
天気のよい週末は、ふたりで生活に必要なものを買い揃えに街へ出かけた。
キッチンはあってもフライパンはなく、洗濯機はあっても洗剤がないようなグーデリアンの生活ぶりだったから、こまごましたものからすべて買わなくてはいけなかったが、それはそれでけっこう楽しかった。
食器を選ぶ時、グーデリアンはハイネルの瞳の色の皿を頑として譲らず、ハイネルはグーデリアンの目の色のカップをどうしても手放さなかった。
そんな些細なことすらも、今まで感じたことがないくらい幸せだと綺麗に微笑むハイネルを、グーデリアンは公衆の面前だというのに抱きしめたい衝動に耐え切れなくて困った。
そうでない日は、窓ガラスを通して聞こえる雨音をBGMに、ふたりで寄り添って過ごした。
ハイネルはグーデリアンのことを聞きたがり、グーデリアンは問われるままに離れて暮らしてはいるが仲のよい家族のこと、今回の引越しの元凶である転勤も含めた仕事のこと、時間さえあればドライブに出かけるのが趣味であるということなどを答えた。
そして、その一方でハイネルは、『そこにあったから』とさも当り前のように料理の本もしっかりと目を通しており、数週間の間に驚くほどの料理のレパートリーを増やしてグーデリアンを喜ばせた。
「ハイネルって、すごいよな。一度目を通しただけでこんなものまで作れちまうなんてさ」
そう言ったグーデリアンの目の前に並んだ皿は、高級レストランのテーブルの上が似合いそうなほどに豪華なもので、明日のランチ用にと余分に作った分までグーデリアンは平らげ、ハイネルを苦笑させたほどだった。
「忙しい両親に代わって私が妹の面倒を見ていたから。けっこう身体は覚えているものだな」
およそ家庭のことなど縁がなさそうな綺麗な白い手を見て、昔のことを思い出すのはつらいんじゃないのかとグーデリアンは心配したが、ハイネルは首を振って、幸せだった日々を忘れてしまうことの方がもっとつらいと、さびしそうに笑った。
「じゃあ、これからは俺と、何があっても忘れられないくらい幸せな思い出を作ろう」
すらりと長い指先にキスを落としてグーデリアンが囁けば、ハイネルはうっすらと陶器のように白い頬をそめた。
「…気障だな」
だが、ようやくそう言ったハイネルの緑柱石色の瞳は、かすかに潤んでいた。
「久しぶりですね、フランツ」
すっかり空気が暖かくなったころ、相変わらずハイネルは図書館通いを続けていたが、ある日、にこやかに近づいてきた人物を見て、息をのんだ。
「ドクター…」
「挨拶もなしにいなくなるから、探しましたよ」
あくまでも笑顔のままで、だが必要以上に小声で、しかもハイネルの耳元に口を近づけるようにして言うドクターに、我知らずハイネルは身体を硬くした。
「ここではゆっくり話もできないですからね、どこかでお茶でもしませんか」
「お断りします」
即座にそう答えたものの、ドクターの顔に張り付いた薄笑いは消えなかった。
「そうですか。それは残念ですね。せっかくジャッキー・グーデリアンのことでとても大切なお話があったのに」
突然に出てきた名前と、口調は穏やかだがその裏に隠された有無を言わせぬ強い響きに、結局ハイネルは抗うことができなかった。
図書館内では飲食が禁止されて入るものの、その周りにはコーヒーショップからレストラン、テイクアウト専門の店などが建ち並び、芳香を漂わせている。
その中の、なるべく人通りから外れた1軒の喫茶店を選び、ドクターはコーヒーをふたつオーダーした。
「今日は、突然に私の前から消えてくれたお礼に、あなたにいいことを教えてあげようと思いましてね」
コーヒーが運ばれてきて、ウェイトレスが去ってゆくまでふたりは一言も声を発しなかった。
熱いだけでインスタントであることが明らかな味にドクターは顔を顰めもせず、ミルクだけを入れてすすったが、ハイネルはカップに手をつけることすらせず、ドクターの一挙一動を眺めている。
うららかな陽気とは裏腹に、そこだけ季節が真冬に逆戻りしたように張り詰めた雰囲気がわだかまり、しぜん、周りの人は席を立ったり変えたりしてふたりから離れるようにした。
「あなたの家族を死に追いやり、あなたをも殺そうとしたのは、グーデリアンという人ですよ」
まるで今日の天気の良さを誉めるような口調でさらりと投げかけた言葉は、ハイネルの意識に届くまで、数秒を要した。
「…まさか」
澄んだ録玉の双眸を見開き、ハイネルはドクターを正面から見た。
「信じたくありませんか。無理もないでしょうけどね」
あきらかにハイネルの反応を楽しんでいる口調でドクターは続ける。
「世の中に、どれほどの人がグーデリアンという姓を持っているかは知りませんが、このあたりでは珍しいですし、きっと彼は何らかの関係者でしょうねえ」
薄造りの淡紅色の唇を色がなくなるほどに噛み、震える両手をしっかりと膝の上で握り締めるハイネルに、ドクターは囁いた。
「嘘だと思うのなら、毎日通っている図書館で、新聞でもなんでも調べてみるといいですよ。その上で、あなたを助けた私を信じるか、それともたった数時間を共にしただけであなたを連れ去った彼についてゆくか、決めるのはフランツ、あなたの意思ですよ」
そこでわざと言葉を切り、ハイネルの血の気がひいて、むしろ青白くすら見える白い顔をいわくありげに覗き込んだ。
「ひとつ、考えるための鍵をあげましょう」
ドクターの、低くささやき声よりも小さい声が、ハイネルの頭の中には警鐘のように大きく響いていた。
「あなたが私のもとを去ってから、彼があなたを抱いたかどうか。それが答えとなるはずですよ」
そのままドクターは手のつけられていないハイネルの分のコーヒー代もテーブルにおいて去っていった。
だが、それすらもハイネルの沈んだ暗緑色の瞳にはうつっていなかっただろう。
「どうしたんだ、電気もつけないで」
仕事から帰ってきたグーデリアンは、外から見えるリビングの窓が、いつもならついている明かりが今日は暗いままになっていたから、たまにあるように、今日もハイネルは本に熱中しすぎて図書館から戻るのが遅くなっているのだと思ったのに、入口のドアを開けたらまだ1足しかないハイネルの靴はちゃんと揃って並んでいた。
万が一熱でも出して倒れていたら大変だと、慌てて部屋中の電気をつければ、ハイネルはリビングのソファ――つい先週末に買ったばかりのハイネルの瞳色の布がかかったアンティークデザインの大きなものだ――に縮こまって座っていた。
グーデリアンが近づいてもその体勢は変わらず、ハイネルの足元に片膝をついて俯いたハイネルの瞳を覗き込むようにしたとき、ハイネルはやっと顔をあげた。
「…抱いてくれ、ジャック…」
だがその声は身体と同様に強張っており、グーデリアンは聞き間違えたのかと思った。
「ハイネル?」
「抱いてくれ、今すぐに、ここで、私を」
それが、いつものように、抱きしめて甘いキスをねだるものではないとさとり、グーデリアンは戸惑った。
「できないだろう?」
それを、ハイネルはどう受け止めたのか、自虐的な笑みをうっすらと頬に浮かべてグーデリアンを見上げた。
「愛してもいない、それも男の身体なんて、抱けるわけはないんだ」
いぶかしむグーデリアンに、ハイネルは言葉を綴った。
「私の家族を陥れ、絶対的な地位を築きながら、生き残った私を手に入れてどうするつもりなんだ?可哀想にと憐れみを与えているつもりなのか?」
「ハイネル?」
グーデリアンには、ハイネルの言っている意味がわからない。
まるで他の言葉を忘れてしまったかのようにハイネルの名前だけを口にするグーデリアンに、ハイネルはなおも詰め寄った。
「それとも、愛しているといって安心させて甘い夢を見させて、その上でまた地獄に叩き落すつもりか。そうだな、そのほうが衝撃も強いだろうからな。さすがだな、やり口が違う」
「ハイネル?一体何があったんだ?どうしたんだ?」
勝手に思い込んで話を進めるハイネルに焦れて、グーデリアンはハイネルの頬を両手で包み、きちんと視線を正面から合わせた。
「おまえの、縁者なのだろう?数年前に、私の両親の会社を潰したのは」
静かな覚悟を湛えたハイネルの双眸は、いつもグーデリアンが愛してやまない綺麗な澄んだ色ではなく、例えるならば暗く沈んだ絶望色に満たされていた。
「かつてのライバル会社を陥れ、ひとり、何の因果かで生き残ってしまった上に男娼と成り果てた男を、抱けもしないくせに手元において、私にはジャック、おまえの考えていることがわからない」
グーデリアンにも、ハイネルの考えていることがわからなかった。
確かにグーデリアンの両親は、世界中にチェーン店をもつばかでかいスーパーを経営しており、グーデリアンもその所為で、市場調査も兼ねて新しく出店する企画を軌道にのせるためにここに来ていた。
そして、グーデリアンも含め、経営のために数え切れないほどのライバル会社を蹴落としてきたのも事実だ。
だが、ドクターの話を信じるならば、その時はまだグーデリアンは駆け出しの青二才で、そういった裏のことは知らされていなかったはずだ。
「*****」
だが、ハイネルが告げたその名前に、ふいに記憶の糸がつながった。
企業に参画したてで、経営の何もわからなかったころ。
数多あるライバル会社の中でも、群を抜いて強く、少しでも気をぬけばこちらの息の根を簡単にとめかねないほど危なかった。
何とかして相手に打撃を与えようとしていたことは知っていても、当時何の力も持たないグーデリアンは傍で見ているしかなかった。
それでも、その惨劇を知ったとき、正々堂々と挑むことを望む、まだ若かったグーデリアンは、そのやり口の汚さに両親をはじめ重役からすべての役員を詰った。
たとえそれでクビになってもいいという覚悟の上だったが、企業側としては将来大物になる可能性を十二分に秘めたグーデリアンを手放すわけにもいかず、こういう世界にはよくあることなのだと怒り狂うグーデリアンを宥め、結局はうやむやのうちにことが処理されてしまった。
そしてグーデリアンの方も、しばらくは憤ってはいたものの忙しさに忙殺される毎日の中でいつしかその怒りも消え、その出来事は記憶の中に沈みこんでいった。
「あの時の…」
言葉の出ないグーデリアンに、ハイネルは薄く笑った。
それは、なぜかグーデリアンには泣いているように見えたのだが。
「ドクターに命が長さに保証がないと告げられて、それからはずっと家族の敵を討つためだけに生きてきた。ドクターに協力して客をとるくらい、ドクターが調べてくれる情報に比べればなんでもなかった」
「ハイネル…」
「だけど、まさか、ドクターの引きでない、偶然の客だったおまえがそうだとはな…」
細い柳眉を寄せて、ハイネルは呟いた。
「だけど、ドクターがおまえの身元を明かす前に飛び出てしまったのは、私の所為だ。後悔はしていない」
きっぱりと言い切るハイネルの頬に、二筋の光る線が零れ落ちた。
「たとえ、おまえが意図的に私に近づいてきていたのだとしても、それを見抜けなかった私が悪かったのだ」
「ハイネル…」
自分の頬を包む大きな、少し節ばったグーデリアンの手に、ハイネルは白く細い手を重ねた。
「おまえと過ごした時間は、本当に、幸せだった。それが、たとえおまえの作り出した虚妄の産物だったとしても、本当に、私は幸せだった」
そしてそのまま手を掴み、頬からグーデリアンの手を離させた。
「だから、今は見逃してやる」
「見逃すって…」
「おまえの命は、私が次におまえを見つけるときまで、あずけておいてやる」
音もなく、ハイネルはグーデリアンが自慢したいほどになめらかな身のこなしで立ち上がった。
「二度と、私の前に現れてくれるな」
そう言ってハイネルは、グーデリアンが止める間もなく部屋を出て行った。