「戻ってくるとは、思わなかった」
グーデリアンの姿を戸口に見つけたハイネルの第一声が、それだった。
戸惑いが半分以上を占めた苦笑まじりのその声に、グーデリアンはドアを閉め、努めて明るく笑ってみせた。
「どうして?」
「今まで、ドクターのところに行って、その後ここへ戻ってきた人はいなかったから」
こんな病気持ちだとわかっている男のところへなど、誰が好んでくるものか。
そう言ったハイネルの瞳が暗く翳ったことに、グーデリアンは苛立ちを覚えた。
ハイネルにこんな表情をさせている、あの黒髪のドクター。
ぜったいに、許さない。
「ハイネル、お前は病気などではない。あいつに、騙されているんだ」
立ち上がりかけたハイネルを、ベッドの端へ押し戻して腰掛けさせ、真っ直ぐに視線を合わせてそう言えば、ハイネルは驚いたようにその綺麗な深緑色の瞳を見開いた。
「だけど、ドクターが…」
「あいつは、医者なんかじゃない」
言いかけるハイネルの言葉にかぶせてきっぱりと告げると、グーデリアンは、ハイネルが出て行ってからのドクターとの会話を一部始終を話して聞かせた。
「嘘だ」
だが、グーデリアンの予想に反し、ハイネルは首を横に振った。
「嘘じゃない。あいつは、ハイネルを金のために利用しているだけなんだ」
「違う!」
「ハイネル!」
「彼は、私を助けてくれたんだ。ボロボロだった私の命を、助けてくれたんだ」
頑なにそう言いはるハイネルに、グーデリアンは胸が痛んだ。
こんなにも純粋な心を弄ぶ、あのドクターから、ぜったいにハイネルを離さなくてはならない。
「ハイネル、よく聞いてくれ。あいつは、確かに医学を修めている。だが、それだけだ。あいつはハイネルの客から金を搾り取るために、ハイネルに嘘を教え込んでいるんだ」
ガラスのように脆いハイネルの心の隙につけこみ、いかにあくどいことをあの黒い瞳の奥で計算しているか。
「金だけじゃない。悪くすれば、多分、臓器の売買もしていると思う」
医学を修めているのなら、人体の解剖だってお手のものだろう。
意図して薄暗さを保っているあの部屋の床の隅に見えたどす黒い染みは、グーデリアンの予感が正しければ、乾いてこびりついた血に間違いない。
消毒液の匂いで消してはいるようだが、グーデリアンの鋭い直感は誤魔化されなかった。
「どうして?」
ハイネルは、グーデリアンの蒼穹色の瞳を真っ直ぐに見つめていった。
「どうして、私などをそうまでして?まだ、身体すら合わせていない私などを?」
男娼と蔑まれるのには慣れてはいても、好意を示してくれる人など、ドクターの他にいなかった。
肩肘張って、身体を与えてやっているのだと、こんなところにこなくてはならない奴らを哀れんでやっているのだと思うようにしていなければ、心が押しつぶされそうだった。
だから、たとえドクターが自分を金のために利用しているとわかっていても、労わりの言葉や態度が偽りのものであったとしても、それでもよかった。
「ハイネルが、好きだ」
ゆっくりと、グーデリアンは告げた。
「俺だって、どうしてかはわからない。でも、一目惚れっていうのに、理由はないだろ?」
カッコつけて片目をつむってみせれば、ハイネルの瞳の奥に泣笑いの波動が見えた。
出会いはいつも偶然。
恋に落ちるのも、また偶然。
その偶然が重なったことに、グーデリアンは感謝したいほどだった。
「とりあえず、俺の部屋に来ないか」
ハイネルを、この街に留まらせたくなかった。
何よりも、あのドクターの目の届くところにハイネルを置いておくのが嫌だった。
それが、もしかしたらつまらない嫉妬心かもしれないということも承知の上で、グーデリアンは言った。
「雨も上がったようだし、ハイネルがここから出る道を教えてくれれば、何とかなると思う」
それでもこんな時間だし、公共交通機関もストップしているから、かなりの距離を歩くことになると思うけど。
そう告げたとき、ハイネルの瞳がわずかに揺れたのを、グーデリアンは見逃さなかった。
「いいのだろうか」
長い長い一瞬の沈黙の後、ハイネルはぽつりと呟いた。
「私などが、この街からでても、許されるのだろうか」
返答の代わりに、グーデリアンはハイネルの細い身体を抱きしめた。



ハイネルの荷物は、本当にわずかだった。
身の回りのものといっても、数枚の服と写真立てがひとつあるだけだ。
稼いだお金は封筒にきちんと揃えて入れてあり、それがかなりの厚さがあることに、グーデリアンはかえって胸が痛くなった。
それらを小さな紙袋に入れ、鍵のない部屋を後にする時は、さすがにハイネルは名残惜しそうにした。
「ここは、ドクターに拾われてからずっといたところだから」
コートに腕を通しながら、そう、ハイネルは微苦笑した。
家族と暮らした家の記憶はすでになく、あるのはハイネルを世話してくれた老女の部屋だけで、だがそれも、その当時のハイネルは人形同然だったから、家というよりも部屋しか覚えていない。
そのあとはその日暮らしで、路上で夜を明かすことすらあったから、ここがハイネルにとって、初めて自分の居場所と思えるところだったという。
湿った夜の空気の中を、まるで散歩をするように歩くふたりの長身の男たちの姿を、この夜客を捕まえそこなった娼婦たちが物珍しそうに見送った。

華街を出ると、ハイネルはかなりしっかりした歩調でグーデリアンの覚えのある通りまで歩いた。
その迷うことのない足取りに、グーデリアンはわずかに首をかしげた。
「昼間は、図書館へ行っているんだ」
はにかみながら、そうハイネルは説明した。
「俺には縁のないところだったなあ」
もし、一度でも行っていれば、ひょっとしたら、誰にも邪魔されない至福の時間を膨大な図書に囲まれて過ごすハイネルの姿を見つけられたかもしれない。
そうしたら、こんなふうではなく、もっと普通に出会えたかもしれない。
グーデリアンがふざけながら嘆いてみせれば、ハイネルもようやく無理してつくったものではない笑顔を見せた。
「それは無理だろう」
「どうして?」
「私はそこで仮眠をしているのだから」
夜に客を取るハイネルだから、それが当り前なのかもしれない。
客と過ごす部屋でひとりきりでいるのには、耐えられないのかも知れない。
「…その話はよそう」
避けなければいけない話題ではないが、やはりグーデリアンは触れたくはなかった。
途中で24時間営業のコーヒーショップで熱いココアを買い、ハイネルはその甘さに慣れないのか綺麗な柳眉を少しひそめながら、それでも飲んだ。
グーデリアンのアパートに着いたときには、すでに東の空がうっすらと明るくなり始めており、ふたりの呼気を白く染めた。
「ごめんな、疲れたろ?」
鍵を取り出しながら聞けば、ハイネルは初めて訪れる街に興味を隠しきれないらしく、あたりを見回してから、首を振った。
部屋の中はハイネルの部屋ほどではないにせよ、あまり家具はなく、がらんとしていた。
が、テーブルのない床の上には服や新聞、スナック類の袋などが散らばっており、グーデリアンに片付けてくれるような人がいないことを顕著に表していて、ハイネルは思わずくすりと笑った。
「まだ越して来たばっかりなんだ。ちょっとずつ物をそろえてるけど、まだまだ不便が多いよ」
朝日色の頭をガシガシかきながら、散らばったものを足でどけ、ハイネルの座るスペースを作った。
「とりあえず、座ってて。パンとハムエッグくらいしかできないけど、朝食を作るから」
「…ありがとう」
部屋自体はまだ新しいらしく、しかもかなり広いつくりになっていた。
ハイネルはキッチンで格闘するグーデリアンの広い背中をしばらく眺め、それから南向きの出窓に腰掛け、昇る朝日を眺めた。
空っぽの胃に、量だけは多い朝食を、ハイネルの好みにはちょっと薄い目のコーヒーと共に入れ、実は寝相が悪いんだと告白したグーデリアンのダブルベッドの上で毛布にくるまった。
「初めてだ」
グーデリアンの肩にもたれながら、ハイネルがぽつんといった言葉を、グーデリアンは聞き返した。
「誰かと一緒にいて、身体を合わせないで眠るのは」
高くなりつつある日の光の中で、安心したようにあくびをして瞳を閉じたハイネルのダークブラウンの髪が金茶色に煌いた。
「おやすみ」
「…おやすみ」
そしてグーデリアンも、挨拶を返してくれる人がいるということにささやかな以上の幸せを感じながら、今日の空のような色の瞳をまぶたの裏に隠した。

そして、そのころ。
「いい覚悟ですね、フランツ」
もともと物の少なかったハイネルの、だが今はクローゼットすらも空になった部屋を眺め、ドクターはシニカルな笑みをその唇に乗せたのだった。


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