薄暗い部屋の中にいたのは、アジア人と思しき黒髪の男だった。
同じ建物の中の地下にあるその部屋には電灯はなく、机の上に蝋燭が3つ、置いてあるだけだった。
特有のアルコール臭に満ちているにも関わらず、どこか薄汚い観のぬぐえない空間で、グーデリアンはそれが窓がないせいだと思い込むことにした。
ハイネルと共に入ってきたグーデリアンの姿を見るその男の視線に、一瞬だけ、わずか以上の刺を感じたものの、ふたりを招き入れるその声は親しさのみで構成されていたため、そのまま招じられるままに、おざなりに置いてあった椅子に腰掛けた。
「ドクター・ナグモ、彼がジャッキー・グーデリアンです」
ハイネルの部屋を出る直前に連絡を取っていた相手らしく、名前を告げただけでドクターと呼ばれた男はすべてを了承したように頷いた。
「久しぶりのお客さんだね。わかった、彼と話をしたいから、フランツはちょっと席を外してくれるかな」
それがいつものことらしく、にこやかに話すドクターにハイネルは素直に従い、先ほどの部屋にいるからとグーデリアンに言いおいて出て行った。
「さて、ミスター・グーデリアン」
ハイネルの姿がドアに隠された直後、それまでのおだやかな微笑みががらりと一変した。
顔の造り自体は変わっていないのに、まるで悪魔でものりうつったような、そんな豹変の仕方だった。
だが、それでグーデリアンはあることに確信をもてたことも、事実だ。
「フランツは君にキスをするなと、そう言ったにも関わらず君は守らなかった。だが、それに対する代償が君の命であるというのはあまりにも高すぎると、あの甘い坊やは言うのだが、どうだろう?」
親しくハイネルのファーストネームを呼ぶドクターは、だが、肩にかかるほどの長さの艶やかな漆黒の髪と端整な顔立ち、穏やかな口調であるのにどこか冷たい印象をぬぐえないのは、爬虫類を連想させる切れ長の目から放たれる視線に陰気さの成分が過多な所為か。
「嘘なんだろ?」
まだるっこしい話法が苦手なグーデリアンは、端的に訊いた。
「嘘ではないよ。君の命は遅かれ早かれ、失われることになる」
むしろ、残念そうな口ぶりだった。
それは、グーデリアンの命に対するものではなく、彼の思ったようにグーデリアンが反応しないことに、だった。
グーデリアンが、泣いてわめいて命乞いをすることを彼が期待しているのは明らかで、それだけでもグーデリアンは殴りとばしたい衝動にかられた。
「そのこともだけど、あんたが医者だってことが、さ」
「どうしてそう思う?」
だが、ここでドクターを殴るのは得策ではないし、肯定も否定もせず、そう訊いてくることにますます怪しさを感じつつ、グーデリアンはどうしても彼と話をしなければならなかった。
「あんたからは、医者の匂いがしない」
「匂い?」
「そう、どれほど白衣を着ていても、消毒薬の匂いを纏っていても、あんたからは医者らしさがかんじられない。もっと…」
「もっと?」
「…残虐な匂いがする」
そこではじめて、ドクターの口元がゆがめられた。
「たとえば?」
「たとえば?ふん、それがわかれば俺はここにはいないよ」
鼻を鳴らしたグーデリアンに、ドクターは喉の奥で笑ったようだった。
「それはともかく、まだ君の答えを聞いていないよ。君は、自分の命を救いたいのかい?それともいつくるとも知れぬ死の恐怖にのたうちまわりたいのかい?」
「それも、嘘なんだろ?」
「『も』っていう言い方は気にいらないね。どういうことかな?」
「ハイネルは、病気なんかじゃない」
きっぱりと言い切れば、ドクターの黒い瞳が細められた。
「そういう根拠は、もちろんあるんだろうね?ドクターとしての私の見立てにケチをつけることになるんだよ」
そんな脅しに乗るグーデリアンでは、もちろん、ない。
「はん。ちょっと考えてみればわかることじゃないか」
当然のこととばかりに言うグーデリアンに、ドクターは細めた目をもっと細くした。
「だってそうだろ?唾液感染するほどの病気が、いくらスキンだのなんだのを着けたとしても、性行為をしてうつらないはずがないじゃないか」
ドクターは、微動だにしない。
「だが、ハイネルはキスだけと言った。おおかた、あんたがそう教え込んだんだろう」
ふと、ハイネルの透き通った深緑色の瞳が脳裏に浮かんだ。
この街に相応しくないほどに澄んだ彼の素直な心は、ドクターの言うことをそのまま鵜呑みにしてしまったに違いない。
グーデリアンは立ち上がり、ドクターの顔を覗き込んだ。
「目的は、何だ?金か?」
数秒にも数十秒にも思われた沈黙の後、ドクターはため息をついた。
「なるほど、君は今までのヤることしか頭にない輩とは多少違うらしい。フランツが血相を変えたのをはじめて見た理由も、分かるような気がするよ」
あくまでしらを切りとおすかと思っていたグーデリアンは、あっさりと認めたドクターにかえって違和感を覚えたが、彼の話すに任せることにした。
もともとフランツ・ハイネルは、かなり裕福な家に生まれた良家の子弟であり、頭脳明晰で語学を能くし、幼いながらにその将来を嘱望された身だった。
だが、父親の会社がライバル会社に陥れられ倒産し、失意に打ちのめされた両親は、ハイネルと、まだ幼かったその妹も道連れに、ガスによる一家心中を図った。
だが、すでに全員解雇されていた使用人たちのうちのひとり、代々にわたってつかえてきた年配の女性が心配で戻ってきてその異変に気づき、慌てて通報はしたものの、両親はすでに手遅れで中毒死しており、ハイネルと幼い妹は直ちに病院へ収容されたが、その妹も残念ながら数時間後に息をひきとり、辛うじてハイネルだけが残された。
だが、そのハイネルも生死の境を彷徨った後に目を開けた時は、それまでの記憶を一時的に一切なくすという状態だった。
断片ながら記憶を取り戻したその後もしばらくは、家族を無くしたショックと後遺症の所為で動くこともできず、発見してくれた人のもとで植物人間のような生活をしており、その人も老衰してこの世から去った後は、ハイネルは身寄りもないままに路頭へ彷徨うことになった。
そんな彼が、いつしか生きるために身体を売るようになったとしても、何の不思議もないだろう。
「私と初めて会ったときには、生きているのが不思議なくらい痩せこけていたね」
そう言って、ドクターは懐かしそうに視線を遠くへ逸らした。
「あの日も、そう、ちょうど今夜のような冷たい雨の日で、フランツはぼろ雑巾のように道端に横たわっていたよ」
医学を学び、それなりの成績は修めたものの、いくつかの病院に勤めながらなぜか実践では失敗が続いて解雇され、結果、同じ時期に卒業したものたちから遠く差をつけられることになり、何をやってもうまくいかない世の中を怨んでいたドクターは、はじめはハイネルのことなど放っておこうとした。
自分のことだけで手一杯で、他人を助けるような心の余裕は皆無だったからだ。
だが、虚ろに開いていたその宝玉のように美しい双瞳を見た瞬間に、今まで自分を踏みつけにしてきた人たちを仕返しすることを思いついたのだ。
「フランツは、面白いくらいにわたしの意のままに動いてくれたよ」
ドクターは、愛おしそうな表情をした。
彼が意識を取り戻した時に、彼が病気であると告げ、偽りの労わりを示せば、あっけないほどにハイネルはドクターを信じた。
彫刻のように美しい彼にキスをしたいという衝動に耐え切れるものなどほとんどおらず、また、この街にくるものは、どこか後ろ暗いものが多い。
契約でキスをしないと決めても、それを守りきれるほどの者はこの界隈をうろつくはずもなく、ドクターの言う『患者』は後を絶たない。
命を助けると言えば、かなりの大金であっても払おうとしたから、いとも簡単に金は手に入った。
そのたびにドクターは、人々の浅はかさをほくそえんだものだ。
「それで?」
ドクターの話を信用したわけでもないグーデリアンだが、先を促した。
「なんで俺にそんな話をするんだ?」
「君が思っているほど、フランツは綺麗じゃないことを教えてあげようと思ってね」
そう言って、ドクターはにやりと笑った。
だが、グーデリアンだってハイネルがこれまでにどれくらいの男に足を披いてきたかというのは、承知の上だ。
「そのフランツが、君を助けてほしいと言ったんだ。これがどういう意味か、わかるかい?」
鼻先でせせら笑うようにドクターは続けた。
「自分の命の長さを保証できないと聞いたときですら、表情ひとつ変えなかった彼が、君を助けたいと、そう言ったんだ。出会ってまだ、数時間も経っていないという、君をね」
ひとことひとこと区切るように言うドクターの声からは、グーデリアンは臭気すら感じたような気がした。