ロクサーヌ

華やかな大通りからたった1本、奥に入っただけで広がる、淫靡な街。
一夜の悦楽を求めるものが彷徨う、快夢の街。

ロクサーヌ。
伝説の人となったのは、誰よりも綺麗な人だった。



霧のような雨が間断なく降り続き、寒さを凌ぐためのコートも水分をぐっしょりと含んで重く、足先は感覚がなくなるほどに冷たくなっていた。
まだ住みはじめて間もない上にまるで東洋の墨絵のようなこの天候の所為で、どこかで道を間違えたらしく、いつの間にか見慣れた店や通りからはなれてしまった。
「やべーな」
目の前に見える光の群を見ながら、男は呟いた。
都会の白っぽい明るさとはあきらかに違うネオンが続いている。
華街。
淫靡な快楽の街。
うわさに聞いて知ってはいたものの、足を踏み入れるのはこれが初めてだった。
収穫直前の稲穂色の髪の下から見える男臭さと少年の表情を微妙にブレンドした人好きのする笑顔、道行く人よりも頭半分以上ある上背に、鍛えられてがっしりとついた筋肉、そして何よりも蒼穹を思わせる深い色の瞳を、女たちは放っておかなかったから、さびしいと思う間すらないほどにそういった誘いはあり、わざわざ足を運ばなくとも相手に不自由をしていなかったからだ。
それでも来てしまったものは仕方なく、とりあえず、雨だけをしのげるところを探そうと視線を彷徨わせ、だが、幾ばくもしないうちに男の目はある一点で止まってしまった。
天候の所為かまだ時間が早い所為か、人通りもまばらな通りの片隅、ふたり、三人と固まって小声で談笑しつつ道行く男たちに媚を売る娼婦の中で、ただひとり、視線を伏せたままで、明かりの届かない暗がりにその人はいた。
先入観からか、空気までよどんでいる錯覚に陥りそうな雰囲気の中で、そこだけ凛と澄んでいるようにさえ見えるほど、他人を寄せ付けない何かがあった。
霧雨に遮られていたその姿も、数歩近づけば、白磁の肌、ココアブラウンの髪は、ムースか何かで固めていたのだろうがそれも雨で半分ほど崩れ、それよりも少し濃い目の眉は細くしなやかなラインを形取り、薄作りの唇は寒さの所為か多少色がくすんではいたがそれでも口紅のような不自然さはない紅さが見え、そして何よりも男の気配に気づいてあげたまぶたの奥から現れた緑柱石の双瞳が男の目を奪った。
深い海の底で鍛えられた真珠よりもなおひそやかに、しかし見たものを捉えて離さない強さを秘めた不思議な色合いに男は呼吸を早め、細かい露をのせた長い睫の影が頬に落ちるのを見て、我知らず唇を舐めた。
近づくにつれ、そのほっそりとした体躯が露わになり、小さな頭と薄い肉付きの所為で華奢に見えがちではあるが、かなりの長身であることが分かった。
だが、腕を伸ばせばその身体に届くという距離まできた時、その人物が声を発した。
「おまえ…」
男が近づいてくる間、瞬きほどもそらされなかったその視線は、不審の色がありありと浮かんでいた。
「こんなところで、何をしている」
ほんの少しかすれ気味のテノールが、その人物の性別を顕著にした。
「男…」
一瞬、詐欺だと思った。
今まで抱いてきた、数知れずの女たちなど比べものにならないほど綺麗なこの人物が、自分と同じ男だとは。
遠い昔はご法度であったと聞く同性同士の性交も、現在では当り前に行われる。
何よりも、避妊の必要がないことがいちばんの理由らしいが、そんなものは建前であるに過ぎない。
よって、娼婦たちと同数、いや、それ以上に男娼も増えたが、まさか彼がそんな立場に甘んじているようには見えなかったのだ。
「ここは、おまえのような奴のくるところではない。さっさと己の住む場所へ戻れ」
これほどの美人なら、男であれ女であれ、いちど見れば忘れそうにないはずで、男は自分の記憶回路をかなり丁寧に見直したが、この人物に今日より以前に会ったという覚えはなかった。
「何で俺のことを知っている?」
つい、素直にそう訊けば、彼は2ミリほど唇の端を上げた。
それが自嘲気味に笑ったのだと気づく前に、元の位置に戻ってしまったが。
「こんなところに来るような人物か否かくらい、目を見ればすぐにわかるさ」
そうか、と、つい頷きそうになってから、男は慌てた。
「いや、俺は別にそう言う意味でここへ来たわけじゃなくて、ただ、こんな天気だし、ちょっと雨をしのげる場所を探してたら迷い込んじまっただけなんだ」
ほんの少し時間を潰せるようなところを知ってたら紹介してくれ、と続けたが、鼻先で笑われた。
「この界隈で、連れもなしには入れるところなんぞ、どこにもない」
そうか、困ったな、とすっかり濡れて色の濃くなった髪を男ががしがしと掻いたとき、彼が何かを早口で呟いた。
「え?何?」
「おまえさえその気なら、私が付き合ってやってもよいと、そう言ったのだ」
青白くさえ見える頬にうっすらと赤みがさし、それで男も何が言いたいのか了解した。
「どうせ宿を探さねばならないほど、帰るべきところは遠いのだろう。それならば…」
言いさしてふっと口をつぐみ、
「ただし、おまえが男を抱けるなら、だが…」
ふいと逸らされた視線を追いかけるように、男は顔を近づけた。
「試したことはないけど」
息がかかるくらいに囁けば、彼の瞳がゆっくりと戻ってきた。
「それでもあんたが構わないのなら」
「それなりの金さえ払うのなら、この身体はおまえの好きにしていい。だが」
近づきすぎた男の顔を避けるように首を振り、言葉を切った。
「キスだけは、しないでくれ」
「なに、恋人に操でもたててんの?」
ふざけた口調で聞けば、
「そんなものは、いない」
とだけそっけなく返ってきた。

「名前は?」
男が想像していたよりも、つれられて入った部屋は質素だった。
きらびやかな電飾もカーテンも何もなく、小さなキッチンに小さな冷蔵庫、清潔なバスルームとベッドと、普通に男が暮らす部屋と置いてあるものはそれほど変わるものでなく、内心ほっと息を吐いた。
冷え切った身体をまずは温めるべく、軽くシャワーを浴び、備え付けのバスローブをまとって、置いてあった缶ビールに口をつけた。
「おまえは一回限りの相手にいちいち名前を聞くのか?」
ちょうどバスルームから出てきた相手は、思いっきり怪訝そうな顔をした。
暗がりで見ていたときよりも蛍光灯の下で見る彼は、一段と輪郭が際立ったようにシャープなラインだった。
ゆるく締めたバスローブの合い間から形のよい鎖骨がくっきりとあらわれ、顔だけでなく、続く首筋から薄い胸板までが処女雪のように白いのがはっきりと見て取れた。
「んー、でもやっぱり名前は呼んでやりたいじゃないか」
素直にそう思ったのに、相手はやっぱり眉間をコイル巻きにしたまま首をかしげた。
整髪料をすっかり洗い落とした、耳の下あたりで揃えられた髪は思ったよりもふんわりとやわらかそうで、そうしているとかなり幼く見え、まるで性別不肖の中世画のようだ。
「適当に、好きなように呼べばいい」
そう突き放したように言うから、なんだかわけのわからない楽しさがこみ上げてきて、男は嬉しくなった。
こんなこと、サンタクロースを信じていた子どものころに以来、感じたことはないくらいだ。
「んじゃあ、そうだな、ロクサーヌ、なんてどお?」
まだ少し湿ったままの髪を梳きながら言えば、とたんに彼はきりきりと柳眉を釣り上げた。
「なに!それは女の名前ではないか!」
髪を下ろしたら性格までも変わってしまったようで、いちいち男の言うことに突っかかってくるから面白い。
「だって、好きなように呼べって…」
思ったとおりの反応が楽しくて、胸をどつくこぶしをそのまま受け止めながらかなり細い体をぎゅうと抱いてみた。
「だが!しかし!」
「なんだよ、教えてくれないほうが悪いんじゃないか」
「うるさい!そういうのなら、まずは自分の名前を先にいうべきではないのか!?」
「あ、そうか」
迂闊にも、相手のことばかりが気にかかっていて、自分のほうを名乗るのを忘れていたのだ。
ハナから相手は自分の名前など興味がないと思い込んでいた所為でもあるだろうが。
「グーデリアン。ジャッキー・グーデリアンだ」
あんまりにもあっさりと名乗る男に、相手は白く細長い指をこめかみに当てた。
「…ハイネルだ」
「ハイネル?それ、ファーストネーム?」
「フランツ・ハイネルだ」
律儀にもちゃんと言い直してくれるあたり、本当はとても素直なのかもしれない。
「ハイネル」
「なんだ」
どうしても、こみ上げてくる嬉しさが隠し切れなくて、グーデリアンは名前を呼んだ。
「ハイネル」
「だから、なんだと言っている」
「ハイネル…」
いきなり前触れもなしに唇をふさがれ、ハイネルはもがいた。
口内をまさぐる舌に噛み付こうとして失敗し、逆にいいようにかき回されてしまう。
グーデリアンがやっとハイネルに新鮮な空気を与えた時には、すっかりハイネルの息はあがってしまっていた。
「け、契約違反だ!」
「ごめん、だけど、どうしても止められなかったんだ」
意志の強そうな緑色の瞳が潤み、だがそれが悔しさからなのかキスの余韻からなのかは、グーデリアンには判断がつかなかった。
「キスだけはしないでくれと、そう言ったのに…」
「だから、ごめん、て」
「ごめんで済むか!私は死病に侵されているんだぞ!」
ハイネルが悲痛なほどの声で叫び、その瞬間、部屋の空気が帯電したかのような錯覚に陥った。
「死、病…?」
こんなに綺麗なのに。
こんなにも、まだ瞳は精気に満ちているのに?
「冗談…」
出会ってまだ1時間もたっていない、名乗りあってからは数分しかすぎていない相手に、これほどのショックを受けるとは思っていなかった。
これまで出会ってきた人の顔が、もう誰も思い出せないくらい、ハイネルだけでいっぱいになっている。
それなのに。
「冗談で、こんなことは言わない」
かえってその淡々とした声に、グーデリアンは悲痛さを感じた。
「助かる見込みは?」
「そうだな、唾液感染なら、おそらく75%だろう。だが、24時間以内に処方を受ければ、その確率は15%にさげることができる」
「誰が俺の見込みなんて聞いてるよ!?」
声を荒げたグーデリアンに、ハイネルははじめて驚いた顔をした。
「なぜ?おまえのことではないのか?」
「俺が聞きたいのは!」
骨ばって尖った肩を壁に乱暴にたたきつけ、だがまともに視線を合わせられずに唇を噛んだ。
「ハイネルが助かるのかどうかってことだ…」
「グーデリアン…」

「私は、身よりも何もない。いつ、この病に侵されたのかも知らない。あるとき突然意識を失って、気がついたら、医者がそう言っていた」
ぽつぽつと話し始めたハイネルの瞳を、グーデリアンは見ることができなかった。
ひと目で魂を奪われてしまったほどに綺麗なその双玉の奥にあったのは、誰にも救えない哀しみだったのだ。
「現在の医学では、手の施しようがないそうだ。いつ、症状が悪化するかもわからない。ひょっとしたら、老衰するまで生き長らえるかもしれないし、今この瞬間に心臓が停止するかもしれない」
あまりにも淡々とした口調がかえってグーデリアンには重く感じられ、抱きしめたいのに、口付けたいのに、身体が己の意思に反して動こうとはしなかった。
「それは感染した相手も同じで、あとは神に幸運を祈るしか、道は残されていないんだ」
そんなグーデリアンを、ハイネルはどう思ったのか、真っ直ぐに見つめてきた。
「今なら、まだ間に合うかもしれない」
驚くほどしなやかで、無駄ないなめらかな動きで立ち上がると、ハイネルはグーデリアンに腕を差し伸べた。
「私の面倒を見てくれている医者がいる。望みのあるうちに、紹介しよう」





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