彼が欲しかった。
どうしても、彼でなくてはいけなかった。
喉から手が出るほどに。
そんな、使い古された言い回ししか頭に浮かんでこないほど、意識は彼だけに向かっていて。
もう、飽和状態だった。



「やはり、だめなのか」
ハイネルはStuttgartにあるテストコースのオフィスの一室で、ほっそりとした左手の親指の爪を噛んだ。
ドライバーとしてステアリングを握るハイネルの手には、もちろん握り蛸があるが、指先の皮膚に染み付いた似合わない黒さは、彼がそれだけの人ではないことを物語っている。
第10回のサイバーレースが終わってから、ハイネルはほとんどの時間をここで費やしていた。
実家にも、自身で借り上げたフラットにも、もう何日も戻っていない。
今期、ドライバーズランキングこそ片手で数えられる位置を取得したが、決勝をリタイアした回数は多く、まして経験のない新人ドライバーにあっけなく優勝を持っていかれたとあっては、悔いが残らなかったとは冗談でもいえない。
そして、それだけでは解決できない問題が、今、彼の意識を占めていた。
逸らさない視線の先には、見慣れたパソコンの画面いっぱいに表示されている文字の羅列。
その周りには、ほとんど壁のように積まれた、文字通り山のようなファイルと、それに収まりきらない紙の束。
オフに入ってから、1日の休みもとらずにここに詰め、睡眠時間すら削ってハイネルは眉間に皺を寄せていた。

彼の目の前で淡く光を放っているのは、もうすでに何度もトライし、その都度同じアルファベットを浮き彫りにする、すでに己の体の一部のように動くパソコンのスクリーン。
サイバーの現役レーサーはもちろん、すでに引退したものやテストレーサーから、どんなタイプの車であれ、レースと呼ばれるものに出場しているもの、または出場経験のあるもの、果ては、オン・オフのロードスタイルを問わず、モーターサイクルのドライバーまで。
知る限り、いや、知らなくても調べ上げてまで、国籍、人種、経験の多少に関係なく、各人のデータを叩き込んだ。
それは、出身地や年齢などの表面的なものではなく、レース中の駆け引きの仕方、ゼロコンマ以下のとっさの判断力とそのテクニックなど、メンタルな部分をも含むドライビングのスタイルだ。
その結果として、数千にものぼるリストの中からハイネルの要求する闘いに勝ち得ると、名前が挙がったのはたった1名。
だが、その名前がはじきだされたことに対して、ハイネルは驚愕よりもむしろ、やはりといった感が強かった。
第2候補以降、知った名前もいくつかあったが、残念ながら、己の名前はざっと目を通しただけでも両手で数えられる範囲にはなかった。
それでも、諦めたくはない。
負けるわけにはいかないのだ。
たとえ、どんなことがあっても。
ハイネルの深緑職の瞳の先は、モニターではなくさらにその奥を凝視し―――ひとつ大きなため息をつくと傍らの受話器を取り上げ、迷いなくボタンをプッシュした。



「単刀直入にいう。来期、うちのチームで走らないか」
いきなりすぎて、グーデリアンには一瞬、何のことだか分からなかった。
せっかくのオフ、基礎的なトレーニングこそ欠かさないものの、実家へはほんの数日戻っただけで、その後は両親の別荘があるハワイでゆっくりしていたのに、突然の実家からの『そこでじっとして動くんじゃない!』コールに驚く間すら与えられず、いきなり彼の人が目の前に現れたのである。
…というには多少語弊があり、正確には、グーデリアンの姉妹に案内されてやってきたのだが。
「すまない、ご両親にお聞きしたら、こちらへ来ていると教えてくださって、かたじけなくもお前の姉上と妹君が空港まで迎えに来てくださったのだ」
常夏の地にいながら、相変わらずのきっちりした服装と奇抜な髪型で現れたハイネルに、グーデリアンは思わずため息をついた。
「で、何でおめーらまで一緒んなって来るんだよ?」
とりあえず、グーデリアンとよく似た青い瞳をうきうき、きらきらと輝かせているふたりに視線を向けた。
まあ、自分の兄弟よりもライバルであるハイネルを堂々と応援する、自他ともに認める面食いたちだから、最初から答えなど聞かなくたって分かってはいたが。
「だって、憧れのハイネルさんとお近づきになれるチャンスなのよ!ほんの些細な勝機も見逃すわけにはいかないわ!」
あまりにも『グーデリアンの妹』らしいその言い草に、ハイネルは彼女の背後で苦笑して肩をすくめた。
「まあ、不肖の弟に身分不相応なほどのお客様ですからね。やはりここはあんたの不足を補うためにも私たちが丁重にお相手をして差し上げなくちゃいけないでしょう」
弟を貶しつつ、ついでに妹に牽制の視線を投げかけるあたり、姉も結局はハイネルのファンであるに過ぎない。
しかし、グーデリアンがこちらへきたときには実家にいたふたりが、なぜここまできているのか。
「あら、せっかくかわいい弟のお友達が訊ねてきてくださるっていうのに、あんただけじゃコーヒーひとつ、満足に淹れられないでしょ」
確かにヨーロッパのコーヒーに比べたらアメリカのコーヒーなんて泥水だと、歯に衣を着せぬ物言いをするハイネルに、グーデリアンがどう頑張ったって、彼の気に入る味をサーブすることはできない。
だからって、わざわざコーヒーだけのためにKentuckyからHawaiiまでくるか、フツー?
「ハイネルさんに会えるなら!」
そんな疑問が表情に出たのだろう、声を揃え、ハートを飛ばしつつ言うふたりを、とりあえず、じゃあ言ったことには責任を持て!とまずはコーヒーを淹れるために豆を買いに追い出し、先ほどから黙ってグーデリアン家の漫才を聞いていただけのハイネルに視線を向けた。

「とりあえず、座れよ」
別荘は面積こそ広いものの、バチェラー造りなので、入口に立てばすべてが見渡せてしまう。
正面には青い海が陽光を煌かせて広がり、その展望を眺めるべくつけられたバルコニーへ続くドアと壁面の半分以上の面積を占める大きな窓。
右手には簡易キッチンがあり、カウンター式テーブルを挟んで窓までの空間は、かなりの大画面スクリーンのTVがでんと置いてあり、その他はカントリー調にまとめられたリビング。
左手にはバスルームであろうドアがある。
その奥にロフトへと続く階段があり、そこがベッドルームのようだ。
それだけをざっと見渡し、ハイネルは勧められるままにグーデリアンの正面のソファへ腰を落とした。
そのまま膝の上に肘を置き、組んだ両手に顎を乗せるハイネル顔は、グーデリアンの感覚にすると、最後に会ったFICCYのパーティの時よりもいくぶん白い肌が蒼ざめて見え、もともと肉付きの薄い頬がさらに鋭角的になったような気がした。
そのままの姿勢で動かないハイネルに、しばらくはグーデリアンも黙って付き合っていたが、もともとそれほど『待つ』ことは得意でない彼は、数分のちにハイネルに声をかけた。
「で、こんなとこまでわざわざ何しに来たんだ?」
あの一件以来、グーデリアンはまともにハイネルと会話をしていない。
グーデリアンの服を借りて帰ったハイネルは、そのまま次の開催地へ移動し、そのあとは名物と化しつつある喧嘩もしないまま、ほとんど顔すら合わせることもなくシーズンが終わってしまったのだ。
直後のレースでは多少辛そうだったハイネルも、残りのレースはそれまでどおりだったし、グーデリアンとしても、普段どおりではわざとらしいし、かといってハイネルが労わりの言葉など欲していないことは明白で、もともと語彙がさほど多い方ではないのでなんと声をかけてよいのか躊躇いもあり、見た目は普段どおりと変わらないハイネルに、わざわざ自分と顔を付き合わせ、忘れたいだろう記憶を穿り返すこともないだろうと思ったのだ。
そんなこんなで、来シーズンまで会うこともないだろうと思っていたし、ドライバーとしてだけではなくレースに参戦しているハイネルは多忙だろうことは分かっていたから、まさか自分に会いにこんなところまで来るということは、本当に予想外だった。
だが、シーズン中の休息時に、たまたま一緒に飲みに行くことはあっても私的な付き合いはなく、グーデリアンが抱いているような感情をハイネルが持っているとも思えず、かといってオフシーズンはライバル同士であっても交友がないわけではないにせよ、グーデリアンとハイネルではそれは望むべくもなく、ハイネルが『秒単位』と揶揄されるほどの忙しいスケジュールをぬってまで来る理由が思い当たらず、グーデリアンは内心で首をかしげた。
「あ、と、まずは、これを返そうと思ってな」
ハイネルは突然静寂を破ったグーデリアンの声に、思い出したように、持っていた大きくはない紙袋をグーデリアンの方へ差し出した。
「クリーニングには、出しておいた、から。その…」
英語は母国語と同様にあやつれるはずなのに、まるで文法を考えながら言っているようなハイネルにグーデリアンはいつもの笑みを作った。
「別に洗濯なんてよかったのに。でも、わざわざサンキュ」
「いや、たいしたことはない、し……あの…」
なるべく軽い口調で言ったグーデリアンの努力も空しく、それでもハイネルはまだ視線を足元に彷徨わせ、その姿がいつになく幼く見え、グーデリアンは知らずに頬をゆるませていた。
「…あの時は、すまなかった…」
窓から入ってくる海風にすらかき消されそうなほどの声で言ったハイネルの言葉は、一瞬のうちにグーデリアンの脳裏にハイネルの負った屈辱の痕をよみがえらせた。
ついでにその肢体の細部にわたる部分までを思い出し、うっかり下半身に熱が集中しそうになって、必死に頭をふって、記憶の中から追い出した。
グーデリアンの好みの女性ではない、まして陵辱された跡というのは、普通は見たくもないものだろう。
だから、そんなものの処理をさせてしまってすまなかったと、ハイネルはそう言うのだ。
グーデリアンにしてみれば、律儀なハイネルのことだから、グーデリアンが好意で助けたことすらも重荷に感じて、別に欲しいわけではないが、お礼のひとつでも言うだろうことは考えても、謝られることなど思いもよらなかったから、ハイネルのその思考についてゆけずにぽかんと口を開けた。
「あー…」
「それに、マスメディアにも、漏らさないでくれたし…」
確かに、心無いものにとっては、精神的にダメージを与える格好のネタだったかもしれないが、グーデリアンにしてみれば、正々堂々と戦ってこその勝利だと思っているから、ハイネルを売ることは考えもしなかった。
「まあ、俺としちゃ、ハイネルが元気じゃないと走り甲斐がないからな。もう、その話はいいじゃないか」
ちょうど女性陣が騒がしく戻ってきたのをタイミングに、グーデリアンは話を打ち切った。
昼時だからと、幾種類ものサンドウィッチと、ホットとアイス2種のコーヒーを手際よく仕上げる。
4人分にしては少々大目のランチも、グーデリアンにかかるとあっという間に減り、食が細いハイネルは時差の所為もあってかほとんど手をつけず、『ハイネルさんのために作ったのに』と盛大に嘆かせた。
その間もずっと、TVの中で見るハイネルよりも精彩がないことに気づいていた女性陣は、『お話が終わったらいつでも来てくださいね』と言い置いて席をはずし、泳ぎに出て行った。

「それで、わざわざ服を返しに来ただけ、ってわけじゃあ、ないんだろ?」
食器類を洗い、ハイネルのコーヒーマグをテーブルに置いて、グーデリアンは切り出した。
濃い目に淹れた、香りだけでもいい豆を買ってきたなと分かるほどに芳香を放つマグカップをしばらく見つめていたが、2、3度口を開きかけては閉じ、ということを繰り返してから、吹っ切ったようにグーデリアンと視線をあわせた。
「単刀直入にいう。来期、うちのチームで走らないか」
「はい?」
そりゃ単刀直入すぎるだろ、という台詞すら、グーデリアンには出てこなかった。
「ここに、移籍に関する書類と契約の書類、その他必要事項をまとめたものと、すべてが揃っている」
グーデリアンの呆けた顔に構わず、小さくはない、だがどこにでもあるような封筒から厚い紙の束を取り出すハイネルに、グーデリアンは慌てた。
「ちょ、ちょっと待って、ハイネル」
大袈裟に両手をぶんぶん振ってハイネルの注意をひくことに成功したグーデリアンは、あー、とも、うー、ともつかぬ唸り声を上げて高い天井に視線を彷徨わせてから、ハイネルの咎めるような視線に位置を戻した。
「なんだ」
話を折られるのが嫌いだということは分かっているが、今はそんなことにかまってはいられない。
「エート、どうして俺がおまえんとこへ移籍しなきゃなんないんだよ?」
「走れないからだ」
とりあえずはそこから、と思って聞いた質問に、にべもなく帰ってくる返答。
「わーるかっ…」
思わず貶されたと思って悪態をつきかけ、だがグーデリアンはハイネルを見てその言葉を途中で止めた。
「…走れないって、誰が」
一見、いつもの毅然とした態度のハイネルの、その眼鏡に遮られた瞳の奥が、わずかに揺れたような気がしたのだ。
それは、あの時、グーデリアンの庇護欲を掻きたてた時のような、寂しげな色だった。
「私が、だ…」
「ハイネル…」
わずか数秒の静寂がグーデリアンには重かった。
「ハイネルが走れないって、どういうことだよ」
ひょっとしてあの件が原因かとも思ったが、あの後もちゃんと走っていたし、初めこそグーデリアンの力業が効いていたものの、その後はクラッシュの多いグーデリアンよりも、派手さこそないものの地味で堅実な走りをするハイネルのほうがドライバーズランキングは上だった。
「それに、たとえハイネルが、どんな理由かは知らないけど、走れないとして、他にもレーサーはたくさんいるだろうに何で俺なんだよ?」
滅多にないグーデリアンの真面目な瞳に、ハイネルは大きく息を吐き出した。
「詳細は、この中にある」
ぽん、と今取り出した書類の束を左手でたたき、その上にハイネルは視線を落とした。
「だがまあ、どうせお前のことだ、こんな文字ばかりのものは数行も読まないうちに寝てしまうだろうから、私が説明してやろう」
しなやかな仕草でめくりつつ、いつもどおりの口調に戻ったハイネルを、グーデリアンは蒼穹色の双瞳で見つめた。
「まず、お前が移籍を承諾したとして、移るのはSGMではない。シュトロゼック・プロジェクトだ」
「しゅと……何?」
「シュトロゼック・プロジェクト。監督は私になる」
「はいーっ?」
裏返った声で叫んでも、ハイネルはちら、とグーデリアンを見ただけで、また書類に目を戻してしまった。
「そして、お前が駆るのはシュティールHG-161、私のデザインした最速のマシンだ」
そしてハイネルは、分かりやすい言葉を選んで新チーム発足までの経緯やマシンの詳細、契約事項などを事務的な口調で続けた。
シュティールの説明をするときだけは、わずかに白い頬に桜色を刷いたが、語調は変わらず静かなままだった。

ひととおりハイネルが説明を終え、グーデリアンも大まかなところは理解した。
だが。
「だけどさ、ハイネル。どうしても腑に落ちないんだけど」
行儀悪くストローの先をかじりながら、干してしまったグラスに残る氷の溶けた水をずーずーとすすりながらグーデリアンは尋ねた。
「それだけいいチームとマシンが揃ってて、何でハイネルが走らないんだ?」
だが、それは、ハイネルのこり固めた表面の殻を突き破ってしまった。
「おまえに私の気持ちが分かってたまるか!」
ハイネルは、一般的なイメージとして定着している冷静な仮面を一瞬でかなぐり捨てて叫んだ。
「走れるものなら、私だって走りたいさ!」
白い指先が、さらに色をなくすほどに握り締めた拳が細かく震えている。
「そうだ、シュティールは最高のマシンだ、私が心血を注いで生み出した、最速のマシンなんだ!」
「じゃあ!」
同じように声を荒げるグーデリアンに、ハイネルは自嘲気味の笑みを浮かべた。
「走りたいのに走れない者の悔しさなんて、おまえなんかにわかるか!」
「わかるさ」
すとん、と力を抜いて、グーデリアンは言った。
その声の弱さに、ハイネルがはっと視線を上げる。
「俺だって、走りたい。誰よりも速く、速く。なのにマシンの所為で走れないんだ」
自嘲気味に言うグーデリアンに、だがハイネルは今度は穏やかに言葉を繋いだ。
「違うな」
その深緑色の瞳は、グーデリアンを通してどこか遠いところを見ている。
「それでもおまえは、マシンを駆ることができるんだ」
グーデリアンは、ハイネルの瞳の奥がはっきりと分かるほどに揺れているのを、ただ見つめていた。
「わかるか。最先端の技術と、最高の素材と、最良の設計。誰より、何より速く走れるマシンを造ったというのに、その己の手で生み出した最速のマシンにドライバーとして拒否された私の気持ちが、分かるか」
形のよい柳眉がわずかに顰められ、ハイネルは両手に視線を落とし、唇の端を歪めた。
「何度も、トライした。最速を手にするのだ、それなりのリスクも承知の上だった。だが、私の体では無理だったのだ」
最速でありながら安全面をも同時に備え得るマシンは、その特殊な形状からかなりの筋力を必要とした。
どれほど鍛えようとも、うっすらとしかつかない己の筋肉。
それは、鍛錬の度合いではなく、生まれもったもので、変えられるものではないと分かっていても、仕方がないと、簡単に割り切れるはずはなかった。
無理に無理を重ね、何度も吐き、意識を失いながらも乗り続け、そして。
「お前になど、分かるものか。自らの手で、自分では最速のレーサーになれないと引導を渡したそのショックが、わかるものか…」
爪が手の平に食い込むほど強く握っていた拳を、ハイネルはゆっくりと押し広げた。
「怨んださ、私にないものを、当り前のように持っている者たち、全員をな」
パソコンの画面に並んだ、『勝ち得るもの』たちの名前。
当然のようにその筆頭にあった、グーデリアンの名前。
「それでも、私は勝ちたいんだ」
ハイネルは、ゆっくりと、艶やかなほどの笑みを刷いて、綺麗に言い切った。
「お前だって、まさか、あの結果に満足しているわけではあるまい」
片手でも余るほどの回数しかボディウムにのぼれず、それも一番下で。
「だが、残念ながら、技術者としての私に言わせれば、あのマシンであの結果が残せた方が奇跡だ」
なぜなら。
「お前は、もっと速く走れる男なのだ」
近づいてくる賑やかな笑い声を聞きつつ、グーデリアンはハイネルの秀麗な口元から視線を外せないでいた。

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