あの時、頭のどこかで警鐘が鳴り響いていた。
従ってはいけない、と。
それでも、父親からの伝言があるといわれれば、万が一それが本当だった時のことを考えると、やはり行かざるをえなくて。
呼び出された場所の辺鄙さに今更ながら眉を顰めてみたものの、結果、こんな事態になってしまったのならば、やはり自分の甘さに歯噛みせずにはいられない。
「やーっぱ、おぼっちゃんはパパには逆らえねぇってことだよなあ」
歯の隙間から空気を漏らすような下稗た笑いに虫唾が走る。
「あーあ、俺にも車をくれるパパが欲しかったよなー」
父親がオーナーであり、息子である自分がそのチームのドライバーでることが、そんなにも気に入らないのか。
金持ちの道楽だの、親の七光りで走っているだのと、陰でも日向でもよく言われていることは知っている。
道楽だけでできるほどサイバーフォーミュラは簡単ではないし、親の七光りだけで走れるほどサイバーカーは生易しいものではない。
時速600kmを越える世界では、甘く見ればそれだけ命を落とす確率は高くなるのだ。
まして、オーナーはドライバーが己の息子であっても、いや、息子であるからこそ、よけいに私情を抜いて接していた。
実力で敵わなければ、いつだってドライバーシートを剥奪される。
だが、そんな焦りを、こんな簡単なことすら分からないくせに口だけは一人前ふうにきく、いっそ憐れみすら覚えるほどに阿呆なこいつらに見せたら、負けだ。
「貴様ら程度のやからに、サイバーカーなんぞ勿体無いにもほどがある。身の程をわきまえろ」
父親の名を騙らねば、その上たったひとりのドライバー相手に2桁の人数を集めねば何も出来ないやつらに、四の五の言われたくはない。
見出した欠点を次のレースまでに補わなくてはいけない今、こんなくだらないことに時間を費やすのは1秒だって惜しいというのに。
「へへえ、ボディウムにも上れねぇくせして、ご高尚だけは立派だよなぁ」
自分では威嚇効果があると思い込んでいるらしい皮肉な笑みを刷きながら、ぐるりと周囲を固めた、ちょうど正面の男が、細い刃振のナイフをちらつかせた。
その真後ろで唇を不快そうに歪めている顔には、見覚えがあった。
サイバーとは違う分野ではあったが、父親のとりまきの中にいたはずだ。
そのかなりの地位についている彼が伝言というのなら、間違いはないだろうと思い、結果として、騙されたのだ。
史上最年少という前書き付きの肩書きをいくつか取得したことに妬む奴も多く、結局彼も、努力せず他人を貶めることしか出来ないだけの男だったのだ。
父親も見る目がない。
いや、見る目がないのは自分の方だったか。
今更そんなことに気づいても、遅いのかもしれないが。
それでも、易々と奴らの思い通りにはさせるつもりは毛頭なく、薄ら笑いを浮かべてかかってくるすべてから身をかわし、拳、肘、肩、足、膝、身体中すべてを武器にして容赦なく急所に叩き込む。
ドライバーとして欠かせない筋力トレーニングだけではなく、家が家だけにその財産を掠め取ろうとする輩から身代金脅迫のネタとしてその身を狙われたことも多々あり、護身法は幼い頃から身につけている。
だが、さすがに今回はきつかった。
シーズンも半ばをすぎ、心身ともに疲労がピークに差し掛かっているところでもって、この暑さだ。
涼しいところで生まれ育った所為か、暑さに弱いことも己の欠点として知っている。
レース中にぶっ倒れるなんて無様なことだけはしないものの、直後の体力は辛うじて意識を繋ぎとめる限界ぎりぎりだ。
だから、テストもあわせて今日の決勝までの、数日間をかけた、わずかなミスも命取りになるコースを走りぬいた疲労も、こいつらのせいで癒される間もなくて。
いつもなら軽く動くはずの己の体が、重かった。
半数ほどをぶちのめしたところで、背後から首と両腕を締め上げられ、息がつまる。
ありえない方向へ腕を捻じ曲げられる痛みに歯を食いしばった直後、顔にも腹にも誰のものかわからない拳がめり込んだ。
顔を隠す眼鏡もいつの間にか吹っ飛んでいた。
「女みたいに綺麗な顔して、なかなかやるじゃないか」
冷たい刃先で服といっしょに皮膚が裂かれる感覚に全身があわ立ち、だが、すでに動きが取れない四肢は抵抗する術も無い。
下手に強い抵抗は、暴力に訴える奴らには逆に煽ることにしかならなかった。
過去に経験を強いられた、思い出したくもない脳天へ突き抜けるほどの痛みが背後から湧き上がる。
それでも。
男に屈辱をあわせたいのなら、男に犯させればいい。
そんなセオリーを信じるバカどもに、負けるものか。
「泣いてみなよ」
くつくつと笑いながらいう奴を、思い切り睨みつける。
「いや、啼いて、かな」
多勢に無勢でいたぶる奴らになど、絶対に屈服するものか。
悔しさと痛みからあふれそうになる涙を必死で堪え、喘ぎすらも喉の奥で飲み込む。
その態度すらも、煽ることになってしまうのか、身体中を這う気持ち悪さがひどくなる。
貴様らの薄汚い手で、私に触るな。
何人目なのか、何度目なのか、もはや数えることも放棄し、いつの間にか噛み切った唇から流れる血の味は苦さだけを増し、朦朧とした意識は、現実に留まろうとする努力の甲斐なく、白濁した暗闇に落ちていった。
何かに包まれるような柔らかい感覚に、ぼんやりと意識が浮上する。
暖かな声で名前を呼ばれたような気がして、その正体を突き止めようとゆるゆると視線を彷徨わせれば、はっきりしない視覚に入ってきたのは、淡いオレンジ色の光と切り取られた青空だった。
そのまま浮遊するようなおぼつかない感覚の中にいたが、突然下腹部に覚えのない感触を施され、一気に五感がよみがえった。
咄嗟に見下ろした身体は何も纏ってはおらず、まだあの悪夢の最中なのかと、出来得る限りの力を振絞って身体を避けた。
硬いものが背中にあたり、進退窮まった自分の目の前にいたのは、見知った顔だった。
しきりに鈍痛が襲ってくる身体が感じたのは、それでも土やコンクリートではなく、スプリングのきいたマットレスにかけられた清潔な布地で。
まるでホールド・アップをするような格好で、名を呼ぶその男を、間違えようもなく。
「グー……デリ、アン…?」
濃い蜂蜜色の髪と、蒼穹の瞳。
さっき、目にしたのはこれだったのかと納得した。
こいつと戦っていたのはほんの数時間前のことなのに、もうずっと長い時間が経っているような気がする。
ひりつく喉に無理をさせた所為か、出てきた声は自分のものとは信じられなかった。
なぜ、この男がいるのか。
手に触れたシーツを手繰り寄せ、あたりをうかがう。
それはどこかのホテルのようだった。
「草叢に寝っころがってんの見つけたんだけど、呼んでも起きねぇから、ここへ連れてきちまったんだが」
まるで落ちてたものを拾ってきましたとでも言うような軽い口調に、私は物扱いかと、腹が立つ。
いつもどおりに返そうと口を開きかけたところで喉の奥の引っ掛かりを思い出し、だから次の声を音にしたのはグーデリアンの方が少し早かった。
「まだ、完全にはきちんと拭いてないから、これ、使え。歩けそうなら、風呂に入った方がいいんだが」
そう差し出されたタオルを見て、やっと思考が働き始め、状況が理解できた。
あいつらがいたのかいなかったのかは定かではないにせよ、自分を助けてくれたのだと。
わざとらしい軽口は、自分の心情を慮った彼なりの優しさなのだと。
血と泥に汚れた見覚えのある布の塊をベッド脇に見つけ、タオルの意味を知る。
「…できれば、バスルームを使わせてくれ」
何とか、意味のある言葉を言えたのは、奇跡かもしれなかった。
力の入らない足を無理やり立たせ、這いずった方が早かったかと思うほどのろのろとバスルームへ入る。
広めのバスタブへ身を移し、コックを捻ればすぐに熱い湯が出てきた。
ナイフで切り裂かれ、殴られ、抵抗した時に石や草で擦り剥いたもろもろの痕にかなりしみたが、シャワーで聞こえないだろうとは思うのに、こんなところですら捨てきれないプライドで声を押し殺す。
おそらく、あのタオルでグーデリアンが綺麗にしてくれたのだろう、流れたはずの血の跡も、まみれたはずの泥もなく、だがそれがよけいに情けなくした。
よりにもよって、あの男に救われたとは。
インディの最年少覇者と、鳴り物入りでサイバーへ来た。
たった1年だけ早くこの正解へ足を踏み入れた自分とは、些細なことまで正反対で、唯一同じだったのは年齢だけ。
それの何が面白いのか、はじめから、周囲によってライバルに仕立て上げられていた。
アメリカ中の期待を背負いながらそれを気負う風もなく、おおらかで愛嬌のある笑。
どんな時でも両手(いや背中と両足にもか)に女性という花を携え、それが嫌味にもならない男臭さを醸し出す、理想の筋肉に被われた肢体。
傍から見れば無謀としか言いようのない、まったく計算されない野生の獣のような、大胆且つしなやかな走り。
緻密に計算して走る自分は最良のラインを取っており、マシンの性能だって自分の方が優れているはずなのに、力でねじ伏せるようなこいつに、なぜか勝てない。
自分にはどう足掻いても手の届かないものを、すべて持っている男。
欲しいものを素直に欲しいと言える彼が羨ましくて、妬ましくて、いつも突っかかってばかりいた。
家柄だの肩書きだのに捕われず、純粋に彼が自分をライバルとして見てくれたから。
だからこそよけいに、こんな暗くどろどろした部分は、他の誰よりも彼にだけは知られたくなかった。
正々堂々と、正面から向き合っていたかった。
「うっ…」
痛みからあふれる涙は、シャンプーが目に入った所為だと思いたかった。
頭から足先まで、できる限りで肌に残るいやな感触とともに汚れを落とし、備え付けられていたバスローブを羽織る。
着ていたものは、不本意ながらボロボロにされてしまったし、どうしようかと迷う。
まさかこんなもので外に出てモーターホームまで帰るわけにもいかない。
しかし、それはバスルームで考えることではなく、仕方なく顔を合わせづらいが部屋へ戻る。
空調の効いた部屋は、熱い湯で火照った身体にひんやりと心地よかった。
先ほどまで自分がいたベッドの脇にはいつの間にかワゴンが置いてあり、野菜やフルーツを中心とした重過ぎない食事が乗っていた。
正直言って腹など気持ち悪さこそ感じ、まったくといっていいほど空いてはいなかったが、グーデリアンが遊んでもらえない大型犬のような目で見るので仕方なく口をつける。
おそらく、これは女性にご馳走するはずだったものだろう。
せっかくで申し訳ないと思いつつ、口の中も切っていたらしく、ほんの少しの刺激が痛覚に過重労働を強くので大した量は減らなかったが。
「ごめんな、眼鏡、拾い忘れてきちまった」
食器の触れ合う音以外、何の音もない空気を気遣ってか、グーデリアンが話し掛けてくる。
いつもかけてはいるが、視力は実は悪くはなく、あれは男らしさのない顔を隠すためだから安いものだ。
こういうことも以前からあったから、替えはあるといえば、彼はちょっと驚いたような顔をした。
そんな顔は、初めて見た。
女に見せるでれでれとしまりのない顔か、喧嘩を吹っかけてくる時の人をこばかにしたような顔、レース前の真剣な顔。
出会ってから3年ちかくも経つのに、それくらいしか、見たことがなかったからだ。
「大丈夫か」
もう何度目になるのか、問うてくる。
そんなに私は大丈夫ではなさそうなのだろうか。
こんなことは、よくあることなのに。
ため息をつきつつぼそりと言えば、グーデリアンのたれ気味の目が見開かれ、そのまま固まった。
何か、へんなことを言っただろうか。
結構ごつい、絶対に本人には言ってやらないが精悍な造りの顔だと思っていたのに、そういう表情をするとまるで子供のようになるのだな。
なんとなく、がちがちに凍えきっていた心がほぐれる気がした。
あんまりにもびっくりしているままだから、もう一度、よくあることだ、とゆっくり繰り返して言った。
なんせこの顔は幼い頃から女に間違われたことが一切ではなく、クラスメイトから付き合ってくれと言われることもしょっちゅうだったし。
ギムナジウムでは男ばかりだったから、いわゆるそういうカップルも普通にいることは不思議ではなかったにせよ、自分がそれに巻き込まれるのはごめんだと何度も言ったのに、気を抜くと物陰に連れ込まれたりなんかもしたし。
上下関係が厳しかったのをかさにきて、上級生に言うことを聞けと強姦まがいの目に合わされたこともあったし。
それだけなら己の外見の所為かも知れないと諦めもしたが、望んだわけでもない由緒のある家にはつきものの財産目当てで、誘拐されたこともあって、なぜかその経過で慰み者にされかかったことだってあったし。
今ではそれに加えて、他人曰く、親の七光りでおとなしく走っていれば良かったのかもしれないが、趣味の範疇を超えてやりたいデザインだの設計だのに手を出せば、生意気だのとやはり良い顔はされなくて。
それは、ほとんど趣味がこうじていらないのに押し付けられた賞や肩書きを気にする奴らから見れば、邪魔以外のなにものでもないのだろう。
そういう人間に対し、己に自身の持てない奴や権力に逆らえない奴らは、なぜか気に入らない相手を侮辱すると言う手段にでる。
だから。
嫌いだった。
『他人』が。
同じチームのクルーでも、人当たりの良いドライバーとよく話すようになっても、できれば半径1m以内には近寄って欲しくない。
頑張れよ、なんて簡単な挨拶とともにたたかれる肩にすら、嫌悪感がわきおこる。
そんな中で、なぜかグーデリアンだけは平気だった。
理由なんてわからない。
すっかり恒例だなんていわれるようになった喧嘩でも、グーデリアンになら真っ直ぐに向き合える。
戸惑うことなく、己の拳や膝を彼に触れさせることができる。
胸ぐらを捕まれても、顔を背けることなく睨みつけられる。
勝手に人のことを調べ上げてあることないことを書き連ねる雑誌のライターやマスコミは吐き気がするほどに苦手だが、それでもグーデリアンをライバルとして近しい存在にしてくれたことだけは、素直に感謝しても言いとすら思うほどには、きっと嫌いではないのだろう。
埒もない考えから意識を現実に戻すと、グーデリアンはその気配を感じたのか、いつものいたずらを仕掛ける子供のような顔をした。
「ハイネル、着替えどうする?俺のだと、ハイネルほっそいから余っちゃうだろう?」
………!
うるさい、うるさい、うるさい!
どんなに頑張ってもつかない筋肉を、まるで当然のように持ち合わせているおまえには言われたくはない!
それとも何か、それは嫌味か?
それなら受けてたつが?
一瞬のうちに戻った日常に、だが、着替えが必要なのは紛れもなく事実で。
「………私のベルトがまだ使えそうなら、非常に癪だが、貸してもらえるだろうか?」
自分でも、しかめっ面になっているのがわかる。
グーデリアンは、喉の奥でくくくと笑いを堪えている。
「ハイネル、バスローブ1枚で凄んだって、意味ねぇよ」
言われて己の姿を思い出す。
確かに。
「ま、今のおまえなら、誰もフランツ・ハイネルだって気づかないだろうし、とりあえず今日はここで寝なよ。明日んなったら代わりの俺の服持ってきてやるからさ」
ナイトテーブルに置かれたデジタルの時計はすでに日付を変えていた。
今日のところは、助けてもらったんだし、仕方がないからその申し出を受けてやろう。
ふん、と尊大に笑ってやれば、グーデリアンもにやりと笑い返してきた。
「いつものハイネルだな」
そんな言葉に、素直でない彼の親切が感じられ、だから、意思に関係なく頬に血が上るのをとめられなかった。
そんな顔を見られたくなくて、わざわざ使っていなかった方のきれいなベッドを占領し、さっさと布団に潜る。
明日になったら、グーデリアンの服を奪って、モーターホームへ戻らなくては。
今シーズンのレースはまだ終わっちゃいないし、やらなくてはいけないことは山積だ。
今年から走っている風見は、脅威だ。
こんなところでおちおち時間を無駄にしているわけにはいかない。
だけど。
今、計画していることにこいつを巻き込めたら、どんなにいいだろう。
こいつなら、きっと私では不可能なことでも可能にすることができるかもしれない。
そんなことを考えながら、身体中の痛みを極力意識外に追い出し、睡魔の尻尾を捕まえる。
だから、そのときグーデリアンがどんな顔をしていたのか、気づかなかった。