女の唇の上を男の指先が滑り、鮮やかな紅色に染めていく。
鏡の中の女が、艶(つや)やかな笑みを浮かべる。
華やかに装われた美しい笑顔を引き立てるのは、身に纏った絢爛たる衣裳。
「雀庵(じゃくあん)さんの化粧(けわい)はいつもお見事でありんすなぁ」
吉原きっての花魁(おいらん)の艶姿(あですがた)に見惚れ、賛嘆の声を上げている女たちもまた、色とりどりの花のように美しく装われている。
化粧師(けわいし)雀庵。
江戸中の女たちを愛し、また彼女たちからも愛されている男。
お天道様みたいに明るいと評判の雀庵の手にかかれば、楼閣の上でも横丁の長屋でも、どこでも女たちは可憐で華やかな自分自身の花を咲かせることになる。木箱を担いだ姿が大工の棟梁のように逞しい、そんな男の武骨な手によって。
そして。
川面を渡ってきた風が、やんわりと柳の枝を揺らす春の宵。
仕事を終えて吉原から出て来た雀庵に、思いもよらぬ花との出会いが待っていた。
春風に誘われて回り道でもして帰ろうかとした雀庵は、夜陰に紛れるように数人の男たちが誰かを取り囲んでいるのに気がついた。
うららかな春の景色に似つかわしくない殺気立った空気を漲(みなぎ)らせている男たちに、雀庵はその輪の中心にいるのが誰であれ加勢するつもりで足を速めた。4、5人殴り飛ばして囲みを破り、相手が悪そうだったら中に居る誰かを連れて逃げればいい。女子どもかお年よりなら担いで走り、男だったら自分で走らせ、いざとなれば足止め役としてひと暴れしてやるってもんだ。化粧師とは言うものの、腕っ節には自信がある。
しかし、そんな雀庵の目論見は大外れに終わった。
雀庵があと一歩のところまで迫った時、男たちが一斉に刀を抜いて輪の中心人物へ襲いかかっていってしまったのだ。
と言っても、手遅れで助けられなかったわけではない。
加勢する間が無かったのだ。
怒号と共に斬りかかっていった男たちが、見る見るうちに呻き声を上げながら次々と折り重なるように地面へ崩れていく。
最後のひとりが刃を受けながらも相手に掴みかかり、着物の片袖を引きちぎるようにして倒れていく。
目の前で起きた一瞬の出来事に呆気にとられていた雀庵は、最後のひとりが地に転がる様をまるで芝居でも見ているような心持で眺めていた。そして・・・自分の持つ提灯の灯りが照らし出す美しい桜吹雪に目を奪われた。引きちぎられた袖の下から現われた白い肌に鮮やかに浮かぶ桜吹雪の刺青。二の腕から肩へ、それから・・・
「・・・すまぬが、提灯に入れる火を貸してもらえぬだろうか」
不躾(ぶしつけ)に顔へ向けられた灯りを気にする風でもなく、その人は言った。
端整な美貌に落ち着いた声。
自分の目で一部始終を見ていたにも関わらず、たった今屈強な男たち数人を一度に倒したのが目の前のこの人物とは信じられない。髷を結わない総髪に葡萄葛(えびかづら)の袷(あわせ)姿、露わになった刺青からして明らかに堅気とは違う雰囲気を漂わせているが、それでも尚どことなく品の良さも感じさせる。
雀庵が返事もせずにいるのを恐怖のため、つまり自分を辻斬りか何かだと思っているせいだと勘違いしたらしいその人は、微笑むように僅かに目を細めて続けた。
「心配致すな、私は無益な殺生はせぬ。この者たちも峰打ちだ。息を吹き返さぬうちに去らねばまた面倒が起こるのでな、すまぬが火を貸してもらえぬか」
「そいつァお安い御用ですが・・・」
自分の提灯から火を分けて、その人の足元にある提灯の芯に点(とも)す。灯りのついた提灯に、透かし模様の雲に名の字が浮かんだ。近頃江戸で何かと評判の廻船問屋、名雲屋京兵衛の提灯だ。羽振りがいい話を聞く一方で、陰で泣いている者も多いと言う。恐らく、ここに倒れている男たちも何らかの恨みつらみがあるに違いない。そして、この先の闇に同じように名雲屋を狙う人間が潜んでいないとも限らない。こんな提灯を下げていては、狙ってくれと言わんばかりだ。
「・・・だんな、この提灯は芯が切れそうだ。代わりに俺の提灯使いねえ」
「しかし、それではおぬしが困るであろう?」
「なぁに、俺はどうせその角を曲った店が寝ぐらなんで」
そうか、それではと受け取ろうとした相手の腕の桜吹雪を見て、雀庵は災難を避けるためにもうひとつやってやらなければならないことに気がついた。提灯を渡さず木箱の横に置き、その手で蓋を開けて中から白粉と刷毛を取り出す。
「ちょいとごめんなすって」
「な、何を・・・?」
不意に手首を掴まれて戸惑う相手に笑顔を返す。
「だんなの御面相に片袖無しの桜吹雪は夜目にも目立つ。やっつけ仕事で申し訳ねえが、これでもやらねえよりはマシでござんしょう」
そう言って白粉を一刷け相手の肩から二の腕へと伸ばした雀庵は、その白さもやっぱり夜目には目立つことに気がついた。あまりにも桜吹雪が鮮やかに目に焼き付いてそれさえ隠せば闇に紛れるだろうと思ってしまったが、考えてみれば着物の片袖が無い時点で既に目立つのだ。
「・・・ってことは・・・、だんな、こいつでも羽織ってお行きなさいまし」
通りすがりの風変わりな町人が脱いで自分に掛けてきた羽織は、紗で出来ていた。
薄紫の着物に藍色の紗の模様が影を落とす。
紋付の紋代わりに飛ぶ雀。
提灯には笹の絵。
木箱の中から出てきたのは白粉に刷毛。
持ち主は、大工の棟梁のような逞しい男。
一体、何者なのか。
「あら珍しい、稲垣様が紅白粉の匂いをさせてお帰りとは」
裏木戸を開け、縁側から自分の部屋へ戻ろうとした稲垣右近は、声のする方に提灯を向けた。厠にでも起きたのか、下働きの娘が笑いながら立っている。
「お帰りが遅いって旦那様が心配なすっていたけど、吉原にでもお出かけだったの?」
「い、いや、これは」
あらぬ疑いをかけられたもとと思われる羽織を脱ごうとして、右近は手にしていた提灯を縁側に置いた。娘は、羽織を脱ぐのを手伝おうと右近の後ろに回り・・・提灯に照らされた羽織の模様が透けて見えた途端、思わず吹き出すように笑い出した。
「あらやだ、なぁンだ、これなら匂うはずでございますよ稲垣様」
「・・・どういうことだ?」
全てを諒解したような娘の口ぶりだが、右近は合点がいかない。そんな右近の様子がまた娘の笑いを誘う。
「まあ、稲垣様がご存知無いのは無理もありませんがね、」
肩から外した羽織を右近の前に広げて持たせ、提灯をその下に置く娘。藍色の紗に灯りが透けて、提灯の笹の葉に雀の影が止まる。
「笹提灯に雀の羽織って言ったら、今、江戸の女子(おなご)で知らぬものはいないと評判の化粧師、雀庵さんのことですよ」
「けわいし?あの男が??」
正体を聞けば意外でもあり、しかしまた、あの振る舞いも化粧を生業としているのならば納得がいく。
「人は見かけによらぬものだな」
「あら、稲垣様だって、お見かけからはこんな見事な桜吹雪を背負ってらっしゃるとは思えませんよ」
そう言って笑いながら、右近から袖が無くなった経緯を聞いた娘は取られた袖を持って帰ってくれば付け直したのにと残念がった。
月も朧な春の宵、棚引く雲に雀が遊ぶ。
馴染みの飯屋ののれんをくぐると、えくぼの可愛い看板娘が口を尖らせながら出迎えてくれた。
「あら雀庵さん、今頃来てもロクなおかずが残ってやいませんよ。いったい今時分まで何やってたんです?」
「ん?ああ、ちょいと回り道して夜桜見物さ」
「桜ぁ??そいつァまだちィとばかし早ぇンじゃねーの?!」
雀庵の言葉に店の奥から声をかけてきたのは魚屋の加賀屋。魚を売りに来てそのまま飲んでいるらしい。
酔っていても目端の利く加賀は、雀庵が常とは違ういでたちなのに直ぐさま気がついた。
「あれ?どーした雀庵、羽織も着ねーで名雲屋の提灯なんざ下げて。いくらあそこのおかみさんの化粧が長いったって、まさか昼から宵のうちまでかかるってことはねぇだろう?それに、もしもそんな手間隙かけての化粧があの出来だったら、お江戸で評判の化粧師雀庵の名が泣くぜ」
「あの出来って、加賀の、お前さん今日名雲屋に出向いたのかい?」
「ああ、夕餉の支度前に呼ばれてな」
「そうかい、それで名雲屋には別段変わりはなかったかい?何か揉め事みてえな騒ぎとか・・・」
「さぁて、揉め事ねぇ・・・」
空になったお銚子をくるくる転がしながら首をひねる加賀。その向かいに腰を下ろした雀庵は目配せで娘に追加のお銚子を持って来させ、加賀のお猪口に酌をする。
「まぁまぁ、ひとつ飲みながらゆっくり思い出してくんな。揉め事たァ言っても、派手な喧嘩とは限らねえ。誰か屋敷の周りをうろついてたとか、ヤクザもんみてえなのが何人か文句を言いに来たとか」
「そうさなぁ・・・でもなぁ、何かあったとしても、あんまり騒ぎにはならねえと思うがな」
「そいつァどういうことだい?」
「名雲屋の用心棒ってのが、滅法強いって噂でな。あんまり面と向かって名雲屋に文句を言いに来るヤツは
いねえみたいだぜ」
面と向かって文句が言えない代わりの闇討ちか。先刻の桜吹雪の腕前から察するに、彼が用心棒とも考えられる。
「名雲屋の用心棒って、ひょっとして桜吹雪の刺青のある色男じゃねえかい?」
加賀の手がお猪口を置くか置かないかのうちに酒を注ぐ。
確信を持って尋ねた雀庵だったが、加賀は猫のような瞳を細めて考え込んだ。
「桜吹雪の刺青ねぇ・・・名雲屋の裏稼業の賭場に稲垣何某って刺青もんの壷振りが居るらしいけど、用心棒かどうかは分からねえなぁ」
「壷振り?用心棒じゃねえのか」
あの見事な太刀さばきから用心棒ではないかと思ったのだが、壷を振ってもそれはそれで似合いそうな気もする。
「まぁ、主の名雲屋京兵衛に表と裏の顔があンだから、その桜吹雪も表稼業は用心棒で裏稼業が壷振りかもしれねえな。何だ?雀庵、お前さんが提灯を取り換えた相手が桜吹雪なのかい?」
雀庵の手からお銚子を取った加賀が、自分のお猪口に酒を注いで雀庵へ差し出す。それを受けて軽くあおった雀庵は、瞼の裏に面影を探すように目を閉じた。相手が礼を言って向きを変えようとしたその時、下げた提灯の灯りの加減か、紗の羽織に白い肌と桜吹雪がほんのり透けて・・・
「・・・桜吹雪は間違いねえンだが、そればっかりしか思い出せねえのが今となっては癪に障らァ」
歌舞伎役者も顔負けな美丈夫だったという印象は残っているが、その目鼻立ちとなると桜吹雪ほどには自信が持てない。
「いっちょ名雲屋の賭場に潜り込んで、その稲垣何某って壷振りの顔を拝んでくるか」
独り言のように呟いた雀庵からお猪口を取り返しながら、加賀は大げさに手を振った。
「そいつァやめといた方が身のためだぜ雀庵。表稼業でさえ弱いものを食い物にしてるって陰口の出る名雲
屋の賭場なんざァ、ロクなもんじゃねえ」
「そうよ、やめときなさいよ雀庵さん。身包み剥がれて簀巻きにされるのがオチよ」
加賀の手にお代わりのお銚子を渡しながら、店の娘も断言する。ふたりともイカサマ博打のカモにされて雀庵が負けると頭から決めつけている。
そんなふたりを笑顔で見返す雀庵。
「何言ってやがる、稲穂を食うのは雀の方だぜ」