子どもの頃から耳は良かった。
だからあの時も、夢と現の狭間から洩れ聞こえてくるようなパチパチという小さな音に気づいたのだ。
目を覚ますと、その音が現実のものだと知らせるように半鐘の音が響き渡る。
眠り込んでいる妹をそのまま抱きかかえて表に飛び出す。道をはさんで向かいの長屋の端から火の手が上がっているのが見える。夜空を焦がす火の粉が四方に飛び散り、炎が風を生んでいるのか、風に煽られて炎が育つのか、見る見るうちに火は燃え広がっていく。追いつかれないように、妹を背負って走って走って走り抜ける。
振り向けば、炎に炙られるように闇に赤く照り映える桜の木。
妹のお気に入りだった桜の木。
機嫌が悪くて何をしても泣きやまなかった妹が、この桜の木の下であやすと笑顔になった。
チリチリチリン。
背中でぐずる妹を軽く揺らしながらあやすと、母が妹のお守りにつけた鈴が鳴る。
チリリリリン。
鈴の音に誘われるように桜の花びらがハラハラと舞い降りてくる。
はしゃいだ声をあげて、妹が花びらを捕まえようと手を伸ばす。
チリチリリン、リリリ、チリチリチリ、
どうしても取れなくて妹が泣き出しそうになる頃には花びらの動きに目が慣れていて、いくらでも捕まえてやることが出来た。
小さな手に零れそうなほど溜めた花びらを空いっぱいに撒き、自分で作った花吹雪を浴びてご満悦の妹は大いに笑って、からっぽになった両手を差し出すと、またここに花びらを載せてくれとせがむのだ。そして、何度も何度も繰り返す。
チリンチリンチリン・・・
桜吹雪に響く鈴の音、兄妹の思い出。
幼すぎる妹が生き別れになっても自分のことを忘れないように・・・思い出を目印にしようと桜吹雪の刺青をするなんて、所詮自分もまだ子どもだったのだ。
・・・カラカラコロン。
「っち、ちょ・・・い、いや、半!」
「・・・三一(さんぴん)の丁」
壷を開けると同時に相手・・・今日は米問屋の若旦那とか言っていたか・・・から溜め息が洩れる。
悔しさに震える唇を噛みしめつつ、必死に冷静さを保とうとしている。
負けっぱなしという訳ではない。その証拠に最初は勝っていたのだ。今ちょっと負けが続いているだけで、次こそは勝てるはずだ。そう自分に言い聞かせているのが表情から読み取れる。一発逆転を狙うあまり賭け金が大きくなり、勝てばまた欲をかいて負けを取り戻そうと賭け金を何倍にもしては負けて、金はどんどん右近の手元に溜まっていく。
このまま負け続けたら懲りてもう来なくなるかもしれない。
そろそろ潮時ではないか・・・そう思った時、
「さぁさぁ若旦那、そろそろ桜吹雪とは違う花でも愛でましょうぞ」
今まで縁側に出てひとり煙管で紫煙を燻らせていた名雲屋が、軽く手を打ちながら部屋に戻って来た。
その名雲屋の言葉と手を叩く音に、ハッと我に返る若旦那。
間髪入れず衝立の後ろの襖が開き、色とりどりの衣裳に身を包んだ花魁たちが次々と嬌声をあげながら姿を現す。
「さァさ、若旦那。こちらへおいでなされて」
まだ年若いふたりの花魁がフワリとした動きで若旦那の手を取り衝立の向こう側へと連れて行く。そして、それまでの張り詰めた空気を一変させるように、華やかに鐘や太鼓、三味線の音が鳴り始める。
・・・チリリリリン・・・
ふと耳が捉えた鈴の音に思わず右近が目を向けると、名雲屋が慇懃な笑みを浮かべながら衝立にもたれるように立っていた。その背後では、鐘や太鼓、三味線に歌が入り、それに合わせて舞い踊る花魁たちの衣擦れの音も賑やかに盛り上がっている。
「今宵もようお稼ぎくだされました」
もたれていた衝立を畳み、右近の前に腰を下ろす名雲屋。
すると、衝立の向こう側は襖が1枚分ほど開いたままになっており、名雲屋の肩越しに座敷の様子が見えた。
先ほど捉えた微かな響きの跡をたどるように耳を澄ませる右近。
「これは今日の右近様の取り分にございます」
積んであった小判の山から数枚を掴んで右近に差し出した名雲屋は、右近が自分に差し出された小判にも気づかず花魁たちの動きを目で追っているのを満足げに眺めつつ、じわりと膝を進める。そして、右近の手を取って小判を握らせると軽くその甲を叩き、笑みを滲ませた低い声で囁く。
「・・・可愛い妹御のためにも、これからもお願い致しますよ」
頭の片隅で聞いていた名雲屋の声、その可愛い妹御、という言葉と重なるように、
ひとりの花魁と目が合った。
その視線が、顔から肩へ、そして桜吹雪をたどるように二の腕へと動き、微笑むように頷く。
・・・チリチリチリン
簪(かんざし)の先で、あの鈴が揺れていた。
何だかんだ言って面倒見のいい加賀が、柳川鍋屋のご隠居から名雲屋の桜吹雪の話を聞き出して馴染みの店を訪ねると、のれんをくぐって出て来る雀庵にぶつかった。その膨らんだ懐から察するに、これから名雲屋の賭場にでも行くつもりなのだろう。おっと、ゴメンよ、などと言ってそのまま立ち去ろうとする雀庵の襟首を天秤棒に引っ掛けて、店の中へと連れ戻す。
「何でぇ加賀の、悪いが俺ァ今から出かけるところなンだよ」
「いいからちょいとそこに座ンなって。どうせ名雲屋の賭場に行ってみたところで無駄足無駄金、目当ての桜吹雪は居やしねえンだから」
「居ねえ?」
座らせようとする加賀に逆らって浮いていた雀庵の腰が、ストンと落ちる。
「ってえことは何かい?桜吹雪は壷振りじゃあなかったってのかい?」
出鼻を挫かれた格好になって少々気落ちした顔になった雀庵の向かいに座りながら、加賀は思わせぶりに首を振る。
「いや、壷を振るこたァ振るが、どこの馬の骨とも分からねえ有象無象の集まるむさ苦しい賭場では桜吹雪は壷を振らねえンだとよ」
「は?!賭場で壷振らねえでドコで振るってーンだよ」
気落ちした顔から怪訝そうに眉をひそめる雀庵、一方の加賀はそんな雀庵の様子が思った通りで可笑しくて仕方が無い。
上機嫌の猫のような加賀の笑顔を見て、雀庵は苦笑いしながら店の娘に目配せする。
ふたりの前に、お銚子2本とお猪口がふたつ並ぶ。酒を注ぐ雀庵、加賀は目を細めて杯を受ける。
「桜吹雪が壷を振るのはな、雀庵」
加賀は勿体をつけるように一呼吸入れると、一段声を低くして続けた。
「名雲屋が上客相手にかける花見の座敷の席だけなンだとよ」
「・・・上客相手の花見の座敷??」
加賀に酒を勧める雀庵の手が思わず止まる。その手からお銚子を抜いて手酌をしながら、話を進める加賀。
「柳川鍋屋のご隠居に聞いたンだが、まずは名雲屋に、花見の座敷をかけますのでおいでなされませ、と誘われなくっちゃァ話が始まらねえンだと。で、この花見の座敷で壷を振るのが桜吹雪よ。とは言っても、この時は初めての客にはまだ壷を振るのが桜吹雪たァ分からねえ。葡萄葛(えびかずら)の袷に千鳥格子の帯をキュッと締めた歌舞伎役者かと思うような美丈夫が衝立の向こうから音も無く入って来たかと思うと、小脇に抱えていた朱塗りの盆をすっと目の前の畳に置いて、その上に懐から取り出した見事な波蒔絵の壷と寄木細工みてェな賽をふたつ並べ出す」
柳川鍋屋の隠居の話が上手かったのか、聞いてきた加賀の語り口が達者なのか、座敷の様子が目に浮かぶようである。たかが丁半博打にしては贅沢すぎるほどに趣向が凝らされた道具立てだ。それにしても、
「寄木細工みてェな賽ってなァ、何だい?聞いたことがねえが」
「鹿や何か色んな骨で出来てるンじゃねえかってご隠居は言ってなすったが、六つの面の色が全部違うンだそうな。
黒、茶、飴色、薄い茶に黄色、それから白。わざわざそんな細工がしてありゃあ、何か仕掛けでも、と疑いたくもならァな。そこでお改めを、と言われて盆の上を転がしてみるンだが、何べん転がしても目の出方はバラバラで別段怪しい出目はねえ。賽はもちろん、盆にも壷にも細工はねえと客が承知したところで、いよいよ勝負の始まりだ。ようございますね、と聞かれて客が頷くってーと、すゥッと両の手を袖口から引っ込めもろ肌脱ぎにさらして見せるは桜吹雪!・・・初めての客はたいていここで桜吹雪に目が行って、いつ賽が壷に入って盆に伏せられたかなんざァ知ったこっちゃねえって感じなんだとよ」
その気持ちは雀庵にはよく分かる。
いきなりあれを見たら、誰だってびっくり仰天して目が釘付けになるはずだ。いや、例え知っていてもやはり目を奪われてしまうに違いない。
「それで、客は桜吹雪に見惚れているうちに丸裸か」
「イヤイヤイヤイヤ、それがそうでもねえンだな。回り筒(どう)で互いに壷振って、客が勝ったり負けたり負けたり負けたりして有り金全部つぎ込みそうになるってーと上手い具合に名雲屋が止めに入って、あとは吉原の綺麗どころの舞い踊りに、飲めや歌えやの大騒ぎ。帰る頃には客は自分が博打に大負けしたことを忘れてるって寸法だ。だからまた次も誘われれば行っちまう・・・が、誘ってもらえねえヤツはどう頑張ったって行けねえのさ。分かるか?雀庵」
加賀としては、自分の話を聞けば、雀庵が名雲屋の博打に手を出すことが如何に無理な相談であるかを察して諦めるだろうと踏んでいたのだが、笑顔で答える雀庵の返事は加賀の読みを大きく外すものだった。
「ああ、ありがとうよ加賀の。おかげさんでどうやったら桜吹雪が拝めるのか、よゥく分かったぜ。ちょうど明日呉服屋のお内儀の化粧に行くンでな、ついでに旦那に声かけて名雲屋に花見に誘われてねえか聞いてみるとするよ」
「・・・・・・・・・」
却って妙な知恵を授けることになってしまったが、ただ酒が飲めるからまあいいか、と開き直る加賀。友人がイカサマ博打に引っ掛かって(ご隠居の話を聞く限り道具にイカサマは無さそうではあるが、桜吹雪が負けないというのには何か仕掛けがあるに違いないと加賀は信じて疑わない)大損するのを何とか止めてやろうと思っていたものの、当の本人に諦める気がこれっぽっちも無いのだから、これはもう致し方が無い。
「運良く花見の座敷にあがれることになったら、舟出して待っててやるから日にちを俺に知らせな雀庵。簀巻きにされて隅田川に浮かんだら、俺が釣り上げてやらァな」
歌舞伎見物に行くという呉服屋のお内儀の化粧は、衣裳選びから始まった。
障子が開け放たれ春の麗らかな光が差し込む奥座敷を、着物や帯、帯締め、帯揚げの数々が埋め尽くす。派手好みのお内儀の意見を聞きつつ、春爛漫の装いを華美ではなく上品に仕上げ、化粧の色を整えていく雀庵。
縁側近くに鏡台を置き、調合の済んだ紅白粉を並べる。
そして着替えの済んだお内儀を鏡台の前に座らせて化粧を始めた雀庵は、その鏡の中に映る人影に気がついた。
「あれ?おりんちゃん、どうしたの」
雀庵に声をかけられ、庭先で慌てて頭を下げたその人影は笑顔も可憐な少女。飾り職人の娘、おりん。
「おとっつァんに頼まれて、お内儀様の簪をお届けに」
縁側に来て小さな包みを雀庵に渡しながら、化粧されているお内儀にうっとりと見惚れるおりん。そんなおりんの様子に、化粧をする雀庵も、化粧されているお内儀も思わず微笑を浮かべる。
「ありがとう、おりんちゃん。ちょいと雀庵さん、せっかくだから、おりんちゃんの前で合わせてみておくれな」
お内儀の言葉に嬉しそうに頭を下げ、雀庵の隣に腰をかけるおりん。雀庵が大きな手のひらの上で小さな包みを解くのを少し緊張した顔つきで見守っている。注文主のお内儀に気に入られるのはもちろん、父親の仕事を江戸いちばんの化粧師がどう見るのかも心配なのだろう。
包みの中から現われたのは、まるで今日の装いにあつらえたかのような優美な銀細工の簪。化粧師雀庵の目が輝く。
「こいつァ見事だ。相変わらず左平次さんは腕がいいなァ」
それを聞いた途端、おりんの顔がパッとほころぶ。
鏡越しにその笑顔を見ながら、お内儀の髷にそっと手を添えて簪を挿す雀庵。
「左平次さんの腕がいいのは、ただ細工が綺麗ってだけじゃねえよ、おりんちゃん。簪は髷に挿した時の風情が肝心だ。そのへんのことをちゃあンと心得ていなさるから、ほら見てごらん。髷に挿すと簪もお内儀のお顔も一層映えるだろ。大きさといい形といい、お内儀の化粧の仕上げには申し分ねえ」
鏡を覗くお内儀からも満足の溜め息がこぼれる。
「ホント、雀庵さんの言う通りだねえ。これからもよろしく頼むわね、おりんちゃん」
「こちらこそ、いつもご贔屓下さってありがとう存じます。これからもよろしくお頼み申します」
腰掛けていた縁側から立ち上がって深々と頭を下げるおりんに、笑顔で続けるお内儀。
「お代は店の方へ回ってもらって行ってちょうだいね」
「はい、ありがとうございます」
父親の仕事が褒められた時に見せた笑顔とはまた違う、控えめだけれども華やぐような笑みがおりんに浮かぶ。
「・・・おりんちゃん、誰かいい人でも出来たかな」
おりんの後ろ姿を暖かい眼差しで見送っていたお内儀が、独り言のように呟く雀庵の言葉に答える。
「おや、相変わらず女を見る眼はさすがだねえ雀庵さん。おりんちゃん、もうすぐうちの手代の佐吉と祝言をあげるのよ」
「そうなんですかい?そいつァめでてえ、さぞや綺麗な花嫁さんになるだろうなァ」
ここはひとつ化粧師としての腕を揮(ふる)ってやりたいところだが、花嫁が雀庵に化粧をしてもらっているうちに心が揺らぎ祝言をあげたくない連れて逃げておくれと泣いて騒ぎになることが一度や二度ではなかったので、雀庵の花嫁の化粧はやむなく封じ手とされることになったのだった。それがまた雀庵の化粧師としての腕と男っぷりを上げることにもなっていた。
いつもならば見過ごすような小さな祠の前を通りかかった雀庵は、その陰に隠れるようにして腰を下ろしているおりんの姿に気がついて足を止めた。
「あれ?こんなところで何してンだい、おりんちゃん」
そんなに大きな声を出したつもりはなかったのだが、華奢な体を跳ね起こすようにして振り向くおりん。驚きの中に笑顔が生まれそうになって、雀庵と目が合った途端落胆に変わる。
「なンだ、雀庵さんか」
「なんだはないだろ、おりんちゃん。・・・あ、ああ、待ち人は佐吉っつァんかい、」
こいつァ邪魔にならねえうちに退散退散と立ち去ろうとした雀庵の袖を引くように、おりんが呟く。
「ううん、違う人・・・」
「違う人?」
おりんの言い方にどこか聞き流せない響きを感じて立ち止まる雀庵。
振り向いて見ると、おりんは雀庵ではなく空を見上げている。それは先ほど雀庵がおりんを見つけた時と同じ格好だった。
おりんの傍らの草むらに腰を下ろし同じ目線になってみるが、雀庵には何の変哲も無い麗らかな春の空が見えるだけだ。
話の続きはおりんの気の向くのに任せ、しばし春風に吹かれて雲の流れるのを眺める雀庵。
どこからか、鶯の声が聞こえてくる。
「・・・・・・雀庵さん、ここに昔、桜の木があったの知ってる?」
「え?!桜??」
まるで覚えが無い。
この祠のことさえ今日気がついたような有様では、今ここに無い桜の木のことなど思い出せようはずも無い。
おりんは空を見上げたまま・・・・・・いや、おりんの瞳には空さえも映っていないかのように、じっと何かを見つめている。
「ここの桜が満開になるとそりゃァ綺麗で、その花びらをこう手のひらにいっぱい溜めて空に撒くと、パアッと風花が舞い散るみたいに花びらが降って来てねぇ、それがまた綺麗で・・・何度見ても飽きないくらいでしたよ」
青く晴れ渡った空から降る思い出の桜吹雪を見ているのか、微笑むように目を細めるおりん。
その横顔が、桜の美しさを何よりも強く伝えてくる。
「そんなに綺麗な桜なら、見覚えがあってもおかしかないはずなンだがなあ・・・」
「雀庵さん、生まれはこの辺?」
「いや、俺ァ日本橋の方だけど・・・そいつが何か?」
「いえね、雀庵さんがこの辺の生まれじゃなかったら見ることは無かったろうなって思って・・・この桜が切られちまったのが12、3年前なンですよ」
「12、3年前?!その時分のおりんちゃんはまだ五つくらいじゃねえのかい?桜の木なんて他に幾らでもあるってーのに、よっぽど気に入ってたンだなァ・・・そんな無くなっちまった桜の木をずーっと覚えてるなんて」
感心すること頻りの雀庵、自分が五つの頃に見たものでそこまで鮮やかに心に残っている光景なんて、ちょっと思い浮かばない。
「・・・約束、したンですよ」
「約束?」
聞き返す雀庵に、細めていた両眼をゆっくりと閉じて頷くおりん。
「・・・・・・私、生き別れになった兄さんが居るンです。明日は江戸を離れるって日も兄さんがここに連れて来てくれて、これから大きくなって兄さんの顔を忘れても、この桜吹雪だけは忘れるな、って。これを覚えていれば、いつか必ずまた会えるから、って。私はまだ小さくて桜吹雪なんて急に言われても何のことか分からなかったし、大好きな兄さんの顔を自分が忘れるわけがないと思ったけど、兄さんがあんまり神妙だったから言い返せなくて頷いた。そしたら兄さんは安堵したみたいに嬉しそうに笑って私を抱き上げると、この満開の桜の舞い散る中でいつものように花びらを私に捕まえてくれたんです・・・気がつくと大きな満月が枝の向こうに出ていて桜が白くほんのり光るようで、その下で私の撒いた花びらを浴びた兄さんが笑ってて・・・今でも目に浮かぶンですよ・・・あの時の桜が一等綺麗だった」
どういう経緯があったかは知らないが、幼い妹を江戸に残して旅立たなければならなくなった兄は、いつか迎えに来る時のために何か証を立てておこうと子どもながらに考えたのだろう。妹が絶対忘れないようなもの、それは妹がいちばん好きなもの。何度も何度も繰り返し遊んだ、桜の木の下での花吹雪。
「ここで待ってろって、兄さんは言いたかったンだと思うから・・・桜の頃にはいつもここに来てみるンです」
例え桜の木が切られて無くなってしまっても、桜吹雪の思い出はここにしか無いから。
自分に会いに来てくれるなら。
きっと兄はここに来てくれるはずだ。
来て欲しい。
「・・・私ね、もうすぐ佐吉さんと祝言をあげるんです。だから、出来れば兄さんにも祝言に出て欲しいなって・・・」
別れてから15年ほどが過ぎ、果たして生きているのか、生きているとしても、一体どこに居るのか、何も分からないけど。
でも、
この世でたったひとり血の繋がった兄さんだから。
会いたい。