化粧師雀庵の住むという長屋に通うこと3日目、どうも縁が無いのか未だ会えずにいる。
羽織も提灯も看板代わりの大事な商売道具と思うと、返すのがあまり遅くなっては申し訳ない。
そう思いながら見上げた空が、薄っすら朱に染まってくる。
今日は座敷に出る必要が無いから、もう少し遅くまで待ってみるか。
長屋の前に小さな子どもが3人居て、泣いたり笑ったりしながら仲良く遊んでおり、それを眺めていれば飽きることなく時間が潰せた。
どうやら、姉、弟、妹という順番らしいなどと見立てをしていると、子どもたちを呼びに来た母親と目が合った。
ここ2、3日の間で幾度か姿を見かけているから、何となく顔見知りのような感じで軽く目礼を返すと、母親も小さく頭を下げ、それで弾みがついたらしく笑顔で口を開いた。
「ご浪人さん、ここンところよくおいでになるけど、長屋のものに何か用ですかい?」
「左様・・・雀庵殿に少々急ぎの用なのだが、」
「おや、雀庵さんに用なのかい?!そンならここより行きつけの飯屋に行った方がいいよ。あの人ァほとんどあっちに住んでるようなモンだからさ」
まあ、あたしゃ毎日いい男が拝めて目の保養になっていいンだけどさ、ずッと待ちぼうけじゃあお気の毒でね、と言いながら店の場所を教えてくれた母親に礼を述べ、手を振る子どもたちに笑顔を返して、右近は長屋を後にした。
教えられた店は、出会った場所からは随分と遠かった。
道理で見つからないわけだ。
<なぁに、俺はどうせその角を曲った店が寝ぐらなんで>
どこがだ。
その言葉を鵜呑みにして次の日には出会った場所の近辺を訪ね歩いていたから、少なくとも1日は損をした勘定になる。その上、探し当てた長屋にはちっとも姿を現さず、おかげで直ぐにでも返せた借り物が未だ返せずじまいであるのが律儀な右近としては少々面白くない。
礼をしに行くのはもちろんだが、文句のひとつも言ってやろうかと思う。
そんな右近の意気込みをはぐらかすように、店にも雀庵はまだ現われていなかった。
雀庵を訪ねて来たことを娘に告げると、慣れた様子で2階の小部屋に案内された。娘の話ではそこは雀庵の寝床兼仕事部屋で、下の店で夜遅くまで飲み食いしている雀庵を泊めてやっていたのが月に何日かだったのがそのうち十日になり二十日になり・・・それにつれて、雀庵がこの店の常連だと知って化粧を頼みに訪ねてくる女たちも増えてきて、そのまま仕事に取りかかれるように部屋に一通りの化粧道具を揃えてしまったのだという。そうこうしているうちに、店では雀庵の留守中に訪ねて来た客があれば用件を聞いておいたり、時間があれば2階に上がって待っていてもらったりするようになったそうで、それでは何かと面倒ではないかと訊ねると、娘は笑顔で首を振った。
「そんなの大した手間じゃァございませんよ。それに、雀庵さんを訪ねて来たお客さんが下でご飯食べてってくれたりするンで、うちも有難いンですよ。お客さんも待ちくたびれてお腹が空いたら言ってくださいな。今日は魚が美味しく煮えてますよ」
可愛い顔をしてなかなか商売上手な娘に感心しながらついていく。
部屋は階段を上って出た廊下の突き当たり。
「今お茶を持って参りますから、どうぞそのへんにお座りになっててくださいまし」
欄間から差し込む夕暮れの光が、6畳ほどの部屋を柔らかく照らしている。
部屋の隅に雑に畳まれた布団、鏡台、文机の上にきちんと並べられた化粧道具。脇に置かれた手桶の中に大小の乳鉢。
化粧に何の関わりがあるのか分からないが、乾いた何かの葉のようなものが笊(ざる)に入れて天井から吊るしてあったりもする。
「化粧師・・・ねぇ・・・」
あの男が鏡台の前に女を座らせ、紅白粉や黛を使って化粧を施している様を思い浮かべてみる・・・が、頑丈そうな体つきや自分の手首を取った武骨な大きな手を考えると、繊細さが求められそうな化粧師を生業(なりわい)としているとはどうにも・・・。
「合点のいかないお顔ですね、お客さん」
胸のうちを見透かされたような言葉に振り向くと、盆に急須と湯呑を載せた娘が戻って来ていた。その顔が笑っているところを見ると、よほど自分は怪訝そうな顔をしていたのかもしれない。
軽く咳払いをして顔を整え、文机の前に腰を下ろす。
笑顔のまま娘も畳に膝をつくと、盆で化粧道具の列を崩し、空いたところに急須と湯呑を並べる。
「確かにまァ雀庵さんなら大工とか火消しとか、他にも似合いの仕事は幾らでもありそうですけどね、」
急須から湯呑に茶をいれて右近に勧めた娘は、膝をついたまま半身を捻るようにして部屋の隅に身体を向けると、暗がりから小さな火鉢を引き寄せて灰の具合を見始める。
「俺は女子(おなご)の笑顔を見るのが一等好きなンだ、なんてよく言ってますよ」
「ああ、なるほど」
それならば合点がいく。ほんの僅かの間会っただけではあるが、あの男が言いそうな台詞だと思った。
そして、目の前の娘はもちろん、名雲屋のお女中を始め、雀庵を訪ね歩いた先で出会った女たちが皆とても楽しげに笑顔で雀庵という男について語っていたのを思い出す。
好きこそ物の上手なれ、とは言うものの、ただの女好きで出来ることでは無いだろう。
お天道様みたいなお人ですよ、そう誰かが言っていた。
確かに、別れ際に見せた人懐っこい笑顔は明るく暖かく、お天道様みたいだった。
居るだけでその場が和むような。
居るだけでその場がピンと張り詰めて、空気も冴え冴えと冷たくなってしまうような自分とは違う。
「・・・と、お客さん、何なら炭持ってきて火ィ入れておきましょうかねえ?まだ日が落ちると冷えるし、雀庵さんはいつ戻るか分かりゃしないし、鉄瓶でもかけておけばお茶のお代わりも出来ますしね」
お気遣いなくと答えようとした右近だったが、娘の言葉の端々から察するに化粧師の帰りは常に遅いようである。
火の気の無い部屋の暗がりに居るのが自分だけでは、何とも寒々しい。
ここはひとつ炭火の力を借りて部屋を暖めておいてやってもいいかと思った。
日が落ちる手前でおりんを家に送り届け、その足で真っ直ぐ店に向かった雀庵を出迎えたのは、いつもの看板娘の笑顔・・・ではなく驚いたように目を丸くしている顔だった。
「あら雀庵さん、今日はお早いお着きで」
「今日はってのはまたごアイサツだねえ。それとも何かい、常からそんなに俺に早く会いたかったのかい?」
おどけながら席につこうとする雀庵の背中を、慌てて娘が押し返す。
「そんな軽口たたくヒマがあったらさっさと2階にお上がりよ、雀庵さん。半時(今の1時間)近くお客人が部屋でお待ちなンだよ」
「客人?」
これから宵に向かうという刻限に訪ねてくるとは、どこぞの姐(ねえ)さんが急ぎの化粧でも頼みに来たのか。
そう思って向かった部屋の障子に、姿勢のいい影が映っている。
長唄か三味線のお師匠さんだろうか。
膝をついて障子を開け、まずは頭を下げる。
「お待たせ致しやした」
「ああ、これは雀庵殿」
「・・・・・・え?!」
思わぬところで思いがけない人の声が自分の名を呼ぶ。
いや、今聞こえたのがその人の声なのかどうか。
自分の耳を疑いながら顔を上げる。
宵闇の淡い青に、赤く滲んでいるのは火鉢の炭だ。
そして、その火鉢の脇に座っているのは・・・
千鳥格子の銀糸がほのかに黄昏の残光を照り返し、畳についた両の手や、会釈をして俯き加減の端整な顔と首筋は白く。
それはまるで夜桜が白い燐を湛えて咲いているようで。
「・・・先日は世話になり申した。それがし、稲垣右近と申す」
派手な葡萄葛(えびかずら)の袷(あわせ)ではなく、地味な藍の袷に千鳥格子の帯をキュッと締めた、あの人だった。
まさかここで会えるとは夢にも思っていなかった。
自分が乗り込んで行かなければ会えない相手だと頭から決めつけていた。
だから、一体自分の何が相手をここまで来させることになったのか見当がつかない。
あの時はお互いに名前すら名乗らずに別れたはずだ。
自分の目に焼きついた桜吹雪ほどの何かを、あのほんの僅かの間に自分は相手に見せることが出来たのだろうか。
驚きと疑問が入り混じって咄嗟に言葉が浮かばず、呆けたように目の前の相手を見つめる。
やっと現われた化粧師は自分が誰なのか分からないらしく、障子を開けたまま腰でも抜けたように廊下に座り込んでいる。
部屋の主を客である自分が部屋に入るように促すのもおかしな話だが、だからと言って自分まで部屋から出て行って廊下に並ぶのもいかがなものかと思う。
静まり返った部屋に、鉄瓶の沸く音だけがシュンシュンと響く。
ふと思いついて鉄瓶から沸かしたての湯を急須に注ぎ、茶をいれた湯呑を雀庵に差し出す右近。
「あの晩は月も朧にてそれがしの顔などはお見忘れかもしれぬが、」
そして、その自分の動きを雀庵が目で追っているのを確かめてから、湯呑を置いた手の袖をすっと引き上げる。
「この桜吹雪に見覚えはござらぬか」
闇というにはまだ青く明るい宵闇に、浮かぶ桜の花1輪。
袖の下の白い肘からこぼれるように見えている、その花の鮮やかさ。
忘れもしない、あの桜吹雪がその袖の奥にある。
「・・・・・・見忘れるなんざァ滅相もねえ」
自分の様子を窺うように、半ば挑むように見つめている相手に笑いかける雀庵。
「ハナからだんなだってことは分かっちゃいたンですがね、」
それを聞いた相手の両目が疑うように細められる。
嘘ではないことを信じてもらうため、雀庵は相手の鋭い視線を柔らかく受け止めた瞳に力をこめる。
「ただ、その、だんながこんなむさ苦しいところにおいでなんて思ってもみねえことでビックリしちまって」
そして照れたように頭をかきながら湯呑を手にとって膝を進め、障子を閉めて体の向きを変えると、ふたりで火鉢を囲むような形になった。
湯呑を一旦畳に戻し、姿勢を正して頭を下げる。
「ロクに挨拶もしねえで失礼致しやした。改めまして、手前は雀庵と申しやす・・・ええ、化粧師をしておりやす」
「いや、こちらこそ留守中邪魔をして驚かせてしまい申し訳ない。面(おもて)を上げてくだされ。それがし、稲垣右近と申す浪人者にござる」
落ち着いた声に促されて顔を上げると、疑いも晴れたらしく自分を見る眼差しは穏やかで、口元には品のよい微笑みが浮かんでいる。
桜吹雪の艶っぽさに気を取られて自分とは年が随分離れているかと思ったが、意外と年は近いのかもしれない。
傍らの風呂敷包みを差し出す所作も丁寧で、浪人から身を持ち崩して壷振りをしているとも思えない。
・・・風呂敷包み?
「・・・これは・・・??」
「先日拝借致した羽織と提灯にござる」
包みを解いて、綺麗に畳んだ羽織と提灯を取り出す右近。
「笹提灯に雀の羽織と申さば、今、江戸の女子(おなご)で知らぬものはいないと評判の化粧師、雀庵殿と聞きましてござる。店の看板のごとき大切なるものをお貸しいただき、まことにかたじけない」
ああ、そうか。
分かってみれば何の事は無い。
名前と同じくらいの目印を自分は相手に渡していたのだ。
残念ながら、我が身の何かを以って訪ねて来てくれた訳ではなかったが、それでもこうして会えたことは嬉しい。
「そんな、かたじけないなんておっしゃってもらえるほど大したモンじゃあねえンですがね・・・えェと、稲垣様、こうしてまたお会い出来たのも何かのご縁、よろしかったら下で一献いかがですかい?」
盃をキュっとひっかける手振りをして誘ってみると、心なしか困ったように目を伏せる右近。断られる前に「酒がダメなら飯でも一杯」と言い直そうとした雀庵だったが、目を伏せた右近の視線の先にあるものに気がついてその言葉を飲み込んだ。
右近の袖に隠れるように、信楽焼きの狸が下げているような徳利が見える。
どうやら、この律儀なご浪人は、土産に酒を持って来てくれたものの、それを言い出す前に下で酒を呑もうと誘われてしまったので、その申し出を受けるか、それとも敢えて逆に自分の土産の酒を勧めるか、どちらが義理人情に適(かな)っているかで迷っているらしい。
雀庵としては別にどちらでも右近と酒が呑めれば構わないので、困った顔は自分より年下に見えるなァなどとのん気に眺めながら、相手の出方を待つことにした。
土産に酒を持って来た右近ではあったが、どうやって話を切り出そうかと雀庵を待っている間も頭を悩ませていた。
最初に酒を買った時は徳利をそのまま置いて帰るつもりでいたのだが、生き別れとなっていた妹を昨夜目の当たりに見てからは、出来れば一献酌み交わしてから帰りたい気分に変わっていた。江戸に戻って来てまだ間もない上に親しい友人なども作らずに過ごしてきたから、妹が見つかった喜びを分かち合って共に祝杯をあげるような相手は誰もいない。そのことが少し寂しく感じた時に思い出したのが、あの、お天道様のようなと賞される笑顔だった。あの男なら、ただの通りすがりに出会っただけの浪人者の自分とも屈託無く酒を酌み交わしてくれるような気がした。
そしてその読みは当たり、屈託の無い笑顔でその男は自分が言い出せなかった言葉をサラリと言ってのけた。思わず我が意を得たりと喜んでその申し出を受けようとしたものの、それではこの徳利はどうしたものかと思案を始めてしまい・・・そもそも土産として持って来たものだから渡してしまえば済むということに思い至りながら、いざ渡そうとするとこの酒が口に合うかどうかが急に心配になったりもする。そうすると、雀庵の申し出を受け入れ、普段雀庵が呑み慣れている店の酒を奢るのがいちばん相手のためにもいいことなのではないか。しかしその場合、この徳利はどうしたものか。ここまで来て持って帰るのもおかしな話だ・・・
なんていつまで考えていても埒があかない。
ふと気がつくと、火鉢を挟んで向かい側に居たはずの雀庵がすぐ目の前に座っていた。
「雀庵殿?」
「ああ、こいつァご無礼を」
右近の考え事が長引きそうなのでこっそり袖の影から徳利を頂戴して味見でもしていようと思ったのだが、さすが屈強な男数人を一瞬のうちに倒した凄腕の持ち主、隙があるようで隙が無い。
右近と目が合い、いたずらが見つかった子どものように首をすくめて伸ばしていた手を引っ込める雀庵。
「だんながしきりに後ろを気になすって動けずに居られるようなンで、猫の子でも隠しておいでなのかと思いましてね」
などと軽い調子で笑って誤魔化すと、そんな軽口を真に受けてきちんと答えてくれる右近。
「あ、いや、これは猫の子ではござらぬ。実は、礼に一献酌み交わそうと思うて持って参った酒にござる」
その素直さ、見れば見るほど清潔感のある笑顔、とても名雲屋とつるんでイカサマ博打をしている怪しい壷振りには見えない。
大体、そんな清濁併せ呑むような融通の利く男であれば、たかだか徳利ひとつでこんなに真剣に悩んだりしないだろう。
ひょっとして、名雲屋に騙されているんじゃないのか。