同じ名前なのに、ずるいと思った。
同じ名前で、同じ年で、同じように二親(ふたおや)を亡くして、
どうして、おりんちゃんは左平次さんにもらわれて、我が子のように可愛がってもらえて、
どうして、自分は吉原へ売られなければならないのか。
だから。
思い出くらいもらっても、罰(ばち)は当たらないと思った。
<私、吉原に売られてしまうの>
<おりんちゃんとも、なかなか会えなくなってしまうわね>
<ひとりぼっちは寂しいわ>
泣き腫らした赤い目で見つめれば、おりんも切なそうに目を潤ませてくれていた。
<お嬢さま、私に何か出来ることがあったら何でもお申しつけくださいまし>
その言葉を待っていた。
<ありがとう、おりんちゃん>
おりんの手を取って握り返すと、その弾みで鈴が鳴った。
<いつ聞いても綺麗な音・・・・・・この鈴の音(ね)を聞くと、嫌なことも忘れてしまうわ>
<ねえ、左平次さんに頼んで簪にあつらえてもらえないかしら>
<そうしたら、おりんちゃんといつも一緒にいるみたいで心強いもの>
おりんが袂(たもと)にいつも忍ばせているお守りに、色褪せた五色の糸で結わえられた可愛い鈴。
それが、二親の形見であることは承知している。
そして、自分の申し出におりんが戸惑っているのも分かっている。
だけど。
自分には、何も無いのだ。
火事で焼け出されて天涯孤独の一文無しには、これから先に繋げるものが何も残っていないのだ。
いつか自分を迎えに来て吉原から連れ出してくれる、心優しい生き別れの兄が居る。
嘘でもそう願っていれば、
夢でもそう信じていれば、
先の見えない不安な暮らしにも耐えられるような気がした。
<お願い、おりんちゃん。このまま、何も頼りにするものが無いまんま吉原にやられたら、寂しくて辛くて気が違ってしまいそうなンだよ>
自分で言いながら涙が溢れてきた。
何か大きなものに押し潰されそうになって、握っていたおりんの手を額に当てて、泣いた。
耳元で、鈴が鳴った。
チリリリ・・・・・・リリリリリン
おりんの、もう片方の手が背中を優しく撫でてくれている。
<鈴に・・・何を合わせましょうかねえ、お嬢さま>
<何でもお好きなものをおっしゃってくださいまし。おとっつァんなら、何でもこしらえて見せますから>
おりんの心根の暖かさが身にしみて有り難く。
けれども、ほんの数日前までは・・・大店(おおだな)の娘である自分が、出入りの職人の養女であるおりんの身の上を不憫に思って情けをかけてやっていたのに・・・・・・その相手に慰められる自分が何かどこか許しがたく。
嬉しいような妬ましいような、
悲しいような腹立たしいような、
入り乱れた気持ちに、涙が止まらなかった。
そうして。
そんな自分の苦しみにはまるで気づかないように、おりんは笑顔で簪を持って来た。
花に舞う蝶の細工に、あの鈴が揺れていた。
優雅で可憐な簪が・・・醜い自分の心を綺麗に隠してくれた。
いつ壊れてもおかしくなかった自分を支えてくれたのは、奪った簪と借り物の思い出。
例え騙し取ったようなものであっても、そんなことはどうでもいいくらい、哀れな自分を守るのに必死だった。
桜吹雪の刺青をした壷振りが生き別れの妹を探しているという噂を聞いた時、
それが、おりんの待っているお兄ちゃんではないかと直ぐに思った。
でもそれをおりんに教えてあげる気には、どうしてもなれなかった。
だって、今度、おりんちゃんは祝言まで上げると言う。
一生傍で添い遂げてくれる人が居るならば尚更、
お兄ちゃんくらい、私に頂戴よ。
だから。
実は、生き別れの兄を探しているのだという身の上話を流してみた。
兄のことで覚えているのは、桜吹雪だけだと添えて。
何も悪いことをしているとは思わなかった。
後悔なんて、するもんかと思った。
なのに。
心の底から後悔した。
これはもう、罰(ばち)が当たったのだ。
あの笑顔を見た時、耐え切れないくらい胸が痛んだ。
最初は、自分を本当の妹だと信じて疑っていない相手の、その一途で真摯な心を騙している後味の悪さかと思った。
でも直ぐに分かった。
痛んでいるのは、そんな良心なんてところじゃない。
もっと自分勝手なところ、
恋心。
生き別れの兄として現われた稲垣右近に、ひと目で惹かれた。
華やかな座敷に咲く桜吹雪の艶やかさとは、まるで相反するような誠実で澄んだ瞳。
その瞳に見つめられ、嬉しそうに微笑まれ、
名前を呼ばれた。
<おりん>
自分の名前を、右近が愛しそうに呼んだ。
妹として、ずっと傍に居られる幸せ。
でもそれは、
妹としてしか、傍に居られない不幸せ。
幸せと不幸せのさじ加減なんてものは、いつどこでひっくり返るか分からない。
「・・・・・・・何か思うところがあって時間が入用(いりよう)ならば、遠慮することはないよ、鈴音。私は幾らでもお前さんの身請け金を引き上げて、右近様がお前を身請けする期日を延ばしてあげるからね」
「え?!」
自分が好きにすればいいと言ってから、思い詰めた顔で黙りこくってしまった鈴音に、明るく声をかける名雲屋。
冗談とも本気とも取れる口ぶりで、笑顔で煙草を燻らせる。
「嘘をつかずに生きてゆける者は居ないよ、鈴音。肝要なのは、それが自分のためについた嘘か、誰かのためについた嘘か、どちらかということだ」
「だんな・・・」
胸のうちを見透かされたような気がして、思わず名雲屋の顔を見つめ返す鈴音。
名雲屋は唇の端に笑みを浮かべたまま、鈴音から窓の外にかかる月へと視線を送る。
「自分のためについた嘘なんざ脆いもんだ。どんなにてめえ自身が可愛い人間でも、取り繕うのに精一杯でツギハギだらけで穴も空く。それに引き換え、誰かのためについた嘘は強いもんだよ。嘘をついてまで守りてえ相手が傷つくのなんて見たくないからねえ・・・だから芯が通ってビクともしねえ。死ぬまで嘘をつき通すことだって出来るさ」
月を眺める横顔は、何かと阿漕(あこぎ)な噂の絶えない男とは思えないほど穏やかで。
いや、世間のそんな噂を受け止めているからこそ、いっそ潔く迷いが無いのか。
ゆっくりと立ち昇る紫煙が朧な月影に滲んで。
「なア、鈴音。今、お前さんがいちばん大切に想ってンのァ・・・誰だい?」
煙草盆に灰を落とすついでのように、不意にこちらを向いて尋ねられ・・・咄嗟に答えられずに俯くと、
「ま、とっくりお考えよ。その間、私はたっぷり稼がせてもらえばよし、またお前さんが右近様を傷つけようものなら、私が慰めてさしあげてもよし。いずれにしても、私は全然構わないからね」
楽しげにそう言って、名雲屋は軽く手を打った。
衣擦れの音が廊下の奥から聞こえてきて、ゆっくりと襖が開いた。
顔を出したのは、先刻まで名雲屋の相手をしていた花魁。
「・・・お帰りでありんすか」
「ああ、すまないね。今宵は月があんまり綺麗だから、ちょいと夜歩きして帰ることにするよ」
花魁は、鈴音と名雲屋の両方をチラリと見やっただけで何も聞かず、用心棒代わりにガタイのいい下男を提灯持ちに付けると笑顔で名雲屋を送り出した。
鈴音は、誰も居なくなった部屋で、窓から月を見た。
鈴が、小さく鳴った。