月の光が雫となって舞い散るように風に舞う桜の花びらの下、何かに挑むような顔の右近が自分を待って
いるのを見つけた名雲屋は思わず頬を緩ませた。
右近の瞳に、あの勝負師に似た光が宿っている。
同じと思わなかったのは―――――僅かに冷静さを欠いている今の眼差しに漂う昂揚感のせい。
胸のうちに隠し切れない心の揺れが何に対する苛立ちや憤りなのかは知らないが、本人は気づいていな
いらしいその熱っぽさは陶磁器人形(ビスクドォル)のような右近が確かに血の通った人間であることを露(あ
ら)わにし。
名雲屋は微笑を瞳と唇の端にのせて、右近に向けて穏やかに声をかけた。
「いかがなされました、右近様」
「願わくは一日も早く鈴音を身受け致したく、次の座敷を直ぐにでもかけて頂きたいのだが如何(いかが)で
あろう」
言葉の上では都合を聞く形になっているが、右近の顔は如何(いかが)も何も無い。
直ぐさま大物のカモを連れて来い、そう言っている。
煌(きらめ)く瞳に自分が映ってはいるが、右近が見ているのは違う何かだ。
いい顔をしている。
「右近様の頼みとあれば、この名雲屋に否(いな)やはありませぬ。お任せくださいませ」
慇懃にそう答えれば、右近はそれでも礼儀正しく頭を下げ。
「かたじけない」
ひとこと礼を述べると、屋敷の中へと戻って行った。
その後ろ姿を愉快そうに笑いながら見送った名雲屋は風に舞う桜の花びらを2、3枚つかまえると、かねて
より目をつけていた材木問屋へ誘いの文(ふみ)を書くべく自室へ向かった。
「名雲屋の花見の座敷に?呼ばれたンですかい??」
「あア、今朝方、雲井にかかる月もめでたけれ、散らぬ桜の花見に参りませんか、って文が来てな」
煙管を咥えた材木問屋・桂屋の旦那が縁側に広げてくれた文を、身を乗り出して覗き込む雀庵。
流れるような見事な筆運びと、そこにフワリと載った桜の花びら。
ほのかな香りが麗(うら)らかな春の光に漂うようで―――粋な遊び心をくすぐる。
敵ながら天晴れと感心する雀庵だが、当の旦那は口を尖らせるように煙を吹かす。
「雲井は名雲屋、月は桂屋。めでたけれってのア掛詞ってえのかい?商売繁盛の桂屋を褒めてンのと、月を
愛でるで、名雲屋に呼んでもてなしてえとか何とか言うンだろうが、生憎(あいにく)俺ァ山育ちの田舎モンで
なア。どうもこういうのァ・・・・・まだるっこいってえか、このへんがむず痒くなるってえか。パアっと派手に遊び
てえとは思ってンだが、そこに粋だのなんだの言われると普段使わねえ気ィ張って肩が凝る」
おどけたふうに片目をつぶって笑う旦那は、自分で言うほど無粋な男とは思えない。
本当に無粋な男なら、いくら金をうなるほど持っていたところで名雲屋は誘ったりしないだろう。
逆に、いくら粋な男でも金を持っていなければ誘ってもらえないのだから、誘われて困っているなんて今の
雀庵にしてみれば羨ましい話だ。
右近の居る座敷に堂々と乗り込めるのだから。
そしたら、
右近の目の前で名雲屋の嘘を暴いて。
名雲屋に騙されて壷を振るなんてこと、やめさせてやるのに。
右近のためにも、おりんのためにも―――そして、鈴音のためにも。
この嘘は見逃せねえ。
「そこでだ。物は相談なンだがなア雀庵」
旦那が煙管をポンと煙草盆に伏せた音で我に返る雀庵。
「は?」
「お前さん、一緒に行っちゃアくれねえかい?」
「はあア?!一緒にですかい??」
願っても無い申し出に耳を疑う。
素っ頓狂な声を上げて目を丸くしている雀庵に、少々面食らいながら頷く旦那。
「ああ。江戸いちばんの化粧師が一緒なら、俺の野暮も愛嬌に見えるンじゃねえかと思ってな。粋なところァ
お前さんに任せて、俺ア気楽に遊ばせてもらおうって寸法なんだが―――どうだい?頼まれちゃアくれねえ
かい」
「あああああそいつァ願ってもねえ有難(ありがて)えお話なンですがね、」
俺、座敷をぶち壊しに行くのが目的だから。
「なんだい、何か不都合かい?」
「いや、その、行きてえのは山々なンですが、俺ァきっと大人しくはしちゃアいられねえと思うンで―――――
粋も何も無くなっちまうンじゃねえかと」
せっかく遊びに行く気になっている旦那に悪いと思ったンだけども。
それを聞いた旦那は軽く笑い飛ばして言ってくれた。
「構わねえよ雀庵。もとより俺ァその粋ってヤツが苦手なンだからよゥ。存分にやンねえ」
花見の座敷は明後日。
月は満月、大安吉日。
大安吉日?!
「祝言ってのアいつだい?おりんちゃん」
「なぁに雀庵さん、藪から棒に」
通りすがりに突然袖を引かれて、いったい何事かと睨みつけながら振り向いたおりんは、そこにいつになく
真剣な雀庵の顔を見つけて驚いた。
どこから駆けて来たのか肩で息をして、大事な道具箱も持たず、羽織さえ着ていない。
「いいから教えてくんねえ。まさか次の大安吉日じゃアあるめえな?」
「え?そうだけど、それがどうかしたの??」
自分の両肩を掴んで迫る雀庵の勢いに気圧(けお)されながら、怪訝そうに答えるおりん。
その返事を聞いた雀庵は「しまった」という顔で目を閉じて―――思い切り眉間に皺を寄せてから、パッと
瞼を開いた。
「なア、おりんちゃん。この雀庵一生に一度のお願いだ。その祝言、次の日とか、その次の大安吉日とかに
するこたァ出来ねえかい?」
間近で見る雀庵の瞳は迷いが無く明るくて爽やかだけど、
言ってる意味はさっぱり分からない。
「何言ってンの?雀庵さん。一生に一度のお願いだなんて。なんで雀庵さんが私の祝言の日取りをそこまで
して変えたいの??」
熱でもあるんじゃないかと思わず心配になる。
「だっておりんちゃん言ってたじゃねえか。生き別れた兄さんに、出来れば祝言に出て欲しいって」
「そりゃ言ってたけど、」
それは、あくまでも「出来れば」の話であって。
いつ会えるか分からない兄を待って祝言を日延べにするわけにもいかないから。
夢は夢として、自分は自分で今ここにある生活を送らなければいけないから。
通りすがりに急にその歩みを止めろと言われても、
祝言の日取りを変えろと言われても、
聞くわけにはいかない。
「おりんちゃんだって、まだ諦めたわけじゃねえだろ?明後日の祝言までに会えなかったらって、兄さんを祠
で待つのを止めちまうわけじゃねえだろ??」
「それは止めないわよ。会えるまで続けるつもりよ」
そう。
祝言を上げるのと兄を待つのは別の話だ。
兄を待つあいだの出来事として祝言があるだけで、祝言が兄を待つ期限なわけではない。
「だったら、どうせ待つンだったら、いっそ祝言の日取りも少しばかり延ばしてもらえねえかなあ」
「だからってなんでそうなるの?!」
だから、おりんには雀庵の拘(こだわ)りが分からなくて。
ついその手を振り払ってしまった。
だって、ちゃんと訳を話してくれないから。
どうして、そんなに一生懸命なのか。
真っ直ぐ見つめ返した雀庵の瞳が、
その口元が、
ふっと和らいだ。
「会わせてえンだよ」
晴れやかな瞳には自分が映ってはいるが、雀庵が見ているのは違う誰かだ。
「ずっと探してた可愛い妹の、一生に一度の晴れの祝言じゃねえか。兄さんに出させてやりてえンだよ」
そして、
「だから――――」
お願い。
頭を下げる雀庵に、おりんが微笑む。
「――――いいわよ。雀庵さんが花嫁衣裳の化粧(けわい)をしてくれるって言うなら、祝言を待ってくれるよ
う話してみるわ」
「そんなことくらいお安い御用だぜ、おりんちゃん。三国一の花嫁御寮(ごりょう)のお披露目になること間違
いなしと伝えてくんねえ」
おりんの申し出に弾かれたように顔を上げた雀庵は満面の笑顔で、自信満々に胸をたたく。
「じゃア、日取りが決まったら教えておくんなさいまし」
嬉しそうにまたどこかへ駆けて行く雀庵を見送って、おりんはちょっと肩をすくめ――――もう一度笑った。