青い空の下を霞ませて、薄紅色の満開の桜が続く。
みずみずしい若い柳が、ふわりと甘い春風に柔らかな緑の枝を揺らす。
藍の袷に千鳥格子の帯を締めた右近が、颯爽と歩いているのを向こう岸からでも見つける。
川を挟んで進む方向は同じで。
鈴音のところへ行くつもりなのだと分かる。
きっと、同じことを考えている。
明後日の花見の座敷に出るように、鈴音を誘いに行くに違いない。
右近は、鈴音を妹として迎えるために。
自分は。
鈴音を妹として迎えさせないために。
それが、鈴音にとってどういうことなのかは。
右近の妹となることが嬉しいのか。
右近の妹になれないことは辛いのか。
分からないけれど。
嘘をついて手に入れたもので、
本当に幸せになれるとは思えないから。
幸せになって欲しい人が、
幸せになれないかもしれないから。
だから。
「・・・・・・・・・あれ?」
考え事をしながら右近を目で追っていた雀庵は、不意にその姿を見失って立ち止まった。
人ごみに紛れたのか、路地を曲ったのか。
それとも、どこか飯屋にでも入ってしまったのか。
まあ。行き先の見当はついているから。
とりあえず、橋を渡って向こう側に行こう。
そう思って軽く駆け出そうとした鼻先に。
スラリと抜き身の刀(峰)。
「おわ!?!」
「邪魔だてすると容赦せぬぞ」
明るい日差しに立つ右近の、瞳がきらめく翡翠のようで。
刀を突きつけられて脅されているのに、呑気に見惚れた。
「聞いているのか?」
顔が緩んでいたのか、呆けていたのか、いずれにしても右近の不興をかったのは間違いなく。
睨まれて、刀の鍔が鳴って向きを変えて。
鋭い白刃が目の前に迫った。
「へえ、聞こえてまさァね」
笑って頷けば、周りの様子も慮ってか刀を鞘に収める右近。
しかし眉間に寄った皺は刻まれたままで。
明らかに、自分は右近にとって敵らしい。
敵に回って守れるものなら、それはそれで構わない。
「でも俺ァ諦めるつもりはねえンで」
「何?」
「おっと、早まンねえでおくんなさいよ。ここは大人しく引きやすから」
鞘に収めた刀の柄を握り直す右近を、両手を振りながら制する。
険しい顔もまた凛々しいなァ、なんて思いつつ。
「勝負は明後日の花見の座敷でつけやしょう」
そう言うと。
自分が花見の座敷に出てくるとは夢にも思っていなかったのだろう。
意表をつかれたらしく、右近は一瞬目を見張って。
直ぐにまた挑むような眼差しで、余裕さえ見せるような微笑を唇に浮かべると。
「望むところだ」
ひとこと、よく通る声で言い放ち、晴れやかな光に匂う桜並木の向こう側へ。
風に舞う花びらの中を進む右近の後ろ姿を、見えなくなるまで見送った。
鶯が綺麗な声で鳴いている。
半月ほど前までは、なかなか上手に鳴けなかったのに。
それはそれで微笑ましいものがあったけれど、やはり流暢な澄んだ響きを聞くのは清清しい。
青い空、白い雲。
鶯の緑、襦袢の赤。
紅白粉に、濡れる睫の黒。
籠の中の鶯は、誇らしげに胸を張って鳴いているのに。
鏡に映る顔は、泣き笑い。
右近に会えて嬉しければ嬉しいだけ、
騙している苦しさに胸が塞がる。
その苦しさを晴らそうと思えば思うほど、
失うであろう右近の笑顔が愛しくて。
何も言えず。
ただ、言われるがまま。
頷くだけで精一杯だった。
「オヤ、鶯だねえ。こいつァまた上手に鳴いてござンすねえ」
障子越しに感心したように声をかけられて、鈴音はふと我に返った。
声の主の影が、薄っすらと障子に映っている。
座っていても分かるくらい背が高くて、何か四角いものを小脇に抱えて。
「雀庵さん?」
障子を開けると、そこに人懐っこい笑顔の雀庵が居て。
その笑顔にホッとして。
思わず。
思わず涙が溢れた。
縋って泣く胸など自分には無いと思っていたけれど。
雀庵は当たり前のように両手を広げて。
突然泣き出した自分を暖かく抱きとめてくれた。
何も聞かず、
何も言わず、
大きな手が、
優しく頭を撫でてくれる。
それだけで、今の自分は救われる。
なぜなら、
どうしたらいいのか、
何をすべきなのか、
そんなことは、とっくに分かっていて。
そうすることで傷つくだろう右近と、
右近を傷つけることで胸を抉られるような痛みを味わう自分の心を、
どうやって癒せばいいのか分からなくて。
それが恐くて迷っていただけなのだから。
いつまでも雀庵に縋って泣いているわけにはいかないけれど、
少しでもこうして泣けたことで、随分楽になった。
大丈夫。
大丈夫だ、きっと。
傷ついても、胸にぽっかり穴があいてしまっても、
それは僅かずつでも、何かで必ず癒される。
そう、例えば。
「・・・・・・こんな時にナンですがね、ちょいとお願いがあって参りやした」
おもむろに口を開いた雀庵の言葉に、何か悪い予感がして。
覚悟を決めて顔を上げたら。
真顔の雀庵が、
「そこの鶯の落としモンを分けちゃァもらえませんかね?この雀庵秘伝の技で、また一段と皆様方のお肌をツ
ルツルに磨き上げて差し上げてえンで」
なんて言ってから破顔一笑したのを見て。
つられて噴出す。
「ええ?まさか鶯のフンで??」
「騙されたと思って待ってておくンなさいよ。まずはこの雀庵のツラが見違えるようにツルツルのモチモチのピ
カピカになってきやすから」
「ええ?!モチ肌の雀庵さん??」
なんだか可笑しくて可笑しくて声を上げて笑う。
そう。
例えばこうやって笑うだけで、
ひびの入った心の傷が消えていく。
砕けて刺さったと思ったカケラも溶けていく。
そんな、気がする。
だから。
だからきっと大丈夫。
「・・・・・ありがとう、雀庵さん。こんなモンで良かったら、好きなだけ取ってってくださいな」
「じゃア、遠慮無く」
雀庵が本当に嬉しそうに鶯の籠を開けるところを見ると、ただの冗談ではなかったようで。
鶯を逃がさないように手際よく小鉢か何かに入れている横顔は、すっかり化粧師の顔になっていて。
「今は菊千代姐さんのところからの帰り?」
「ええ、姐さんに呼ばれて、後で小梅ちゃんのところへ回ってくれって頼まれましてね。そこへいい声が聞こ
えて来たンで、つい」
誘われるように足を運ぶと。
妙に静まり返った部屋に、張り詰めた気配を感じて。
もしや、と声をかけた。
現われた鈴音の、
泣き崩れる姿に。
その切ない胸のうちが察せられて。
決して生半可な出来心でついた嘘ではないことが、
指先にこめられた力から、
とめどなく溢れる涙から、
言葉にならない痛みが伝わってくる。
そして。
その痛みが大きいだけ、
笑顔の明るさに決心の強さを知る。
ああ。
これなら大丈夫だ。
「ねえ、雀庵さん。明後日、化粧を頼めやしないかい?ちょいと気合を入れたいお座敷があるンだ」
涙の乾いた瞳は真っ直ぐ。
自分の行く末を見据えていて。
別人のような表情を見せる鈴音に、きっと今までの化粧は似合わない。
「合点承知。とっておきの紅を用意して参りますよ」
強く明るく華やかに、新しい門出を祝うために。