今を盛りと咲き誇る桜に、月も冴える。



 青い闇に白く輝く満月と。

 凛と舞い散る桜吹雪。





 月見酒、花見酒。いずれも酒が旨い春の宵。





「今宵は右近様の存分になされませ。この名雲屋止め立ては致しませぬ」



 そう、何も自分が止めに入らなくても、今日の桂屋には化粧師の雀庵がついてくるそうだから、いよいよとなったら雀庵が止めるだろう。お得意様が博打で大負けして店が傾くようなことにでもなったら、とてもお内儀の化粧などには金は回るまい。化粧師の商売は上がったりだ。桂屋が自ら連れて来たのか、お内儀が目付け番につけて寄越したのかは分からないが、いずれにしてもこの場の雀庵の役どころとしては頃合いを見計らって勝負を止めることのほかは無いだろう。



 そんな自分の読みを、改めるべきかと思ったのは。



 衝立の隙間から座敷の様子を窺った右近の、雀庵を見る眼が。

 明らかにあの勝負師の光を宿していて。

 これまでの、若旦那やご隠居を相手に稼いでいた、ある意味職人仕事のように冷静に淡々とこなしていた時とは別人のようで。



 その瞬間、右近にとって今日の勝負の相手は桂屋ではないのだと諒解した。



 勝負師として目覚めた右近の血が、 



 研ぎ澄まされた鋭い勘となって賽の目を右近の頭に閃かせるのか、

 勝負に拘る熱となって右近の頭を曇らせ賽の目を読めなくしてしまうのか、



 いずれにせよ見ものであることに間違いは無い。



 端整な磁器人形(ビスクドォル)ではなく、生身の右近がそこにいる。

 この先どんな表情を浮かべるのか分からないからこそ、面白い。



 稼げるならば稼げばよし、負けるならば負ければよし。

 儲けだの損だのと、今宵の勝負で語るのは野暮というものだろう。

 



「では、参る」

「どうぞお心残りなきよう存分になされませ」





 葡萄葛の袷に千鳥格子の帯をキュッと締めた右近が衝立の陰から音も無く座敷へ入って行くと、顔を上げた雀庵が小さく息を呑んだのが見えた。



 場の空気をものにした右近の邪魔にならないように、廊下を通って濡れ縁へ回る。



 役者のそろった座敷を舞台とすれば、濡れ縁は絶好の客席だ。



 右近が手にした燭台に灯る蝋燭の炎が、月明かりで青く染まっていた座敷を柔らかく照らしている。

 桂屋も右近が自分を相手にしていないと悟ったらしく、その背中は寛いだ感じで。

 逆に雀庵は座り直して正座して。羽織の背に飛ぶ雀がきちんと羽根を広げている。



 ふたりの前の畳に、燭台と朱塗りの盆が並んで置かれ。

 燭台から離れた右近の手が懐へ入り、見事な波蒔絵の壷を取り出して盆に伏せ。

 

 そして、壷の隣に賽をふたつ並べる。



「お改めを」



 そう言った右近の、翡翠に耀く瞳が射るようで。

 呆けたように睨まれっぱなしでいる雀庵の横から、煙管を咥えた桂屋が手を伸ばす。



「ほウ、こりゃまた綺麗な賽だねえ・・・・・寄木細工みてえだが、木じゃねえな。こいつァ何かの骨か・・・・・」

「え?!木じゃねえンですかい??」



 桂屋の言葉が耳に入って我に返ったのか、素っ頓狂な声を上げる雀庵。

 慌てて盆の上に残ったもうひとつの賽を手のひらに載せ、じっと目を凝らし。



「・・・・・ここなんか木目みてえなのに???」

「オイコラ雀庵、俺を誰だと思ってンだい。仮にも材木問屋の旦那だぜ。賽の目は読めねえでも木目は読めらアな。これァ・・・そうさな、こっちなんか鹿の骨じゃねえか」

「へえじゃあコッチの色の違うのァ馬とか牛とか??」

「かもしれねえが、まあいいじゃねえか雀庵。俺たちゃここに、賽が何で出来てるかじゃなくッて賽の目当てに来たンだからよ。壷振って転がさねえことには始まらねえだろ」

「あ、あああ、そいつァ、その通りで」



 屈託の無い笑顔で賽を盆に戻す桂屋に倣うように、雀庵も賽を盆に載せる。



 と、



「では、どちらさんもようござンすね」



 今まで聞いたことのない、挑発的な右近の声が艶っぽく響き。

 すゥッと両の手が袖の中へ引かれたかと思うと。



 諸肌脱ぎの、風に舞う桜吹雪も鮮やかに。



 軽やかな賽の転がる音と共に、

 すらりと伸びた腕が目の前を横切り。



 朱塗りの盆に波蒔絵の壷が伏せられる。

 その壷にかかる指先、手の甲、肘から二の腕に咲く桜。



 磁器のような滑らかな肌が、淡い燐を放って咲く夜桜の白さに似て。

 相変わらず右近に目を奪われたままの雀庵の隣で、桂屋がポンと煙管を叩いた。



「・・・・・丁」



 静かに壷を持ち上げる右近。

 形の良い唇が、ほんのり微笑む。



「二六の丁。お見事」

「すげえ・・・・・」

「って賽の目見ねえでドコ見てンだよ」



 楽しそうに笑いながら、雀庵の横っ腹を小突く桂屋。 

 商売柄江戸中の綺麗どころという綺麗どころは飽きるほど見慣れているであろう化粧師が、

 まるで今日田舎から出て来た小僧のように純朴な顔をして目の前の美丈夫に見惚れているのが可笑しくてしかたがない。

 

 桂屋にはそつのない笑顔を見せている右近が、

 雀庵に視線を移した時には瞳に力をこめていて。



 真面目にやれと睨みつけるように。



 からかわれているのにも気づかず自分を見ている雀庵の鼻先に、壷を突き出す。



「へ?」

「何が『へ?』だ。貴殿、ここに何をしに参った」

「頼むぜ雀庵、俺ァちょいと手が離せねえ」



 眦(まなじり)に笑い皺を刻んだまま、おもむろに煙管へ新しい煙草を詰め始める桂屋。



「え?あ、あァああ俺ァ、ここに」



 右近に睨まれ桂屋に笑われ、ふたりに促されるがまま壷を受け取る雀庵。

 夢見心地のような口ぶりで答えながら、武骨な手で華奢な賽を無造作に壷に放り込み。

 

 ガツンと音を立てて、

 盆に壷を伏せると同時に。



「大事な話をしに来たンで」



 何気なく告げられた言葉に、

 右近の眉間に不快の色が刻まれる。



 その険しい視線を真っ向から受け止める雀庵は、

 蕩けるような表情を頬のあたりに残しつつ、



 真面目な声で。



「どうしても聞いてもらわなくっちゃァならねえンです」



 そう言った後、



「今宵は逃がしゃしませんぜ」



 明るく大胆に笑った。

 落ちない女子はいないとまで言われる雀庵の面目躍如といった笑顔も、

 右近には喜ばれるどころか迷惑なだけらしく。

 形の良い額の柳眉がキリリと上がる。



「勝手なことを申すな。今宵は桂屋殿を招いての花見の座敷、貴殿のくだらぬ話など聞いている暇はない。賽の目は先と同じ二六の丁だ。とっとと壷を開けぬか」

「へえエ?!だんなァ賽の目まで分かるンですかい??」

「分かるも何もあるものか。貴殿、芸無くそのまま入れてそのまま伏せただけではないか。賽が回らねば目が変わるわけがなかろうが!」

「なるほど合点」



 思わずカッとなったように声を荒げる右近と、それでも嬉しそうな雀庵の間を、 

 ゆったりと紫煙が横切り。



「おオ、ホントに二六の丁だ。壷は振れねえでも、次ァせめて賽くらい転がせよ雀庵」



 煙管をくわえ直した桂屋が、何とも上手い頃合いで話に入って来て壷を開け。

 感心したように呟きながら賽に壷を被せて、盆の上を右近の方に滑らせると。



「そちらさんも、どうだい、金の尽きるまでの間くらい話ィ聞いてやっちゃあくんねえかい?」



 思いがけない桂屋の助け舟に、目を輝かせる雀庵と戸惑う右近。



「されど今宵は、」

「今宵は財布を女房が雀庵に預けちまってンだ。それならいっそ俺ァ隣でとっとと旨い酒でも呑んで騒ぎてえのさ」



 そして、



「なア、名雲屋の。構やしねえだろ?」



 くるりとこちらを向いて、軽く片目をつぶって見せる桂屋は。

 邪魔者は消えたほうがいいンじゃねえのかい?と言っているようで。



 主賓が座を譲るというのを無理に留めるわけにはいかぬ。



 仕方が無い。



「では、こちらに」

「おウ。花より団子で我がまま言ってすまねえな」



 濡れ縁に出て来た桂屋が、そう言って後ろ手に障子を閉めるのを見計らったように、

 隣の座敷から菊千代が顔を出した。



「ちょいと聞こえましたよゥ桂屋の旦那。こっちは皆団子ですかイ?」

「あア、食えるもんなら食っちまいたいねエ」



 拗ねた口ぶりの菊千代に桂屋がおどけて答えた途端、座敷に華やいだ嬌声が沸き起こり。



 宴が始まった。





 隣の座敷と境を為すのは、襖一枚。





 今、いったい何が起きているのか。

 雀庵は右近に何の話をしに来たのか。



 桂屋は何か知っているのか。



「いや別に俺ァなンにも知らねえよ。なンにも知らねえが、あの雀庵の面ァ見て大事な話があると言われちゃァ、そのまま居座るなァ野暮ってモンだろ」



 馬に蹴られちまったら大変だ、と続けて笑う桂屋の言葉は、冗談半分本気半分といったところで。

 確かに今までにも右近の桜吹雪の艶やかさに心を奪われて、丁も半も無く見惚れてボロ儲けさせてくれた者は居る。

 先ほどの様子を見ても、雀庵もそんな連中のひとりだと思えなくもない。



 しかし今回は。



 何かが違う。

 とりあえず右近の対応が違う。



 ・・・・・・と言うことは。



 そうか。

 妹か。



 江戸の女子で知らぬものはないという化粧師ともなれば、

 生き別れの兄を探している娘の話など、何か掴んでいてもおかしくはない。



 仮に何も掴んでいなくても、

 右近が妹と信じている鈴音の素性は知っているかもしれない。

 

 それを明かしに来たのか。

 もしそうなら、

 鈴音は。



 鈴音は、今ここに雀庵が来ていることを知っておくべきではないだろうか。



「すまないが、鈴音を呼んでもらえるかね」



 酌をしてもらいながら小梅にそう耳打ちをすると、つぶらな瞳を丸くして。

 ぷっと吹き出して。



「鈴音ちゃんなら、旦那の目の前で踊ってますよゥ」

「何?」



 目配せされた先に見たのは、

 三味線が明るく響き、鐘や太鼓が軽快に弾む中、

 踊る菊千代と。



「鈴音??」



 見違えた。



 どこか甘えるような可憐さが消え、

 毅然とした美しさが。



 鮮やかに。

 晴れやかに。



 その身を凛と輝かせていた。







 何かが、変わったのだと分かった。

 何も言わなくてもいいと思った。




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