何も知らぬくせに。



 そう唇が動いた。声に出さなくても、雀庵の耳にははっきりと聞こえた。

 

 何も知らぬとは心外だ。

 そう言い返そうとして、思わず息を呑む。

 

 何も知らぬくせに勝手なことを言うなと、自分を睨みつけた瞳が訴えている。

 その、光を放つ翠玉のような瞳の美しさに見惚れる。



 ゆらり、と行灯の炎が揺れた。



 自分を睨む右近の両眼が星のように瞬(またた)いたのを見た時、雀庵は揺れる火影を映したせいだと思った。



 だから、



 次の瞬間、右近の頬を零れ落ちる涙に気づいて大いにうろたえた。







 うろたえたのは、右近も同じだった。



 何を。



 何を自分はそんなに傷ついているのか。

 少しばかり昔語りをしたところで、一度や二度会っただけの人間に自分の全てを分かってもらえるなどと、甘いことを考えていたわけではあるまい。



 そうだ。

 そんなことを期待して今宵やって来たのではない。



 ただ。



 ただ、やっと念願叶って巡り会えた妹のことを共に喜んでくれれば。

 

 そうだ。



 ただ、それだけを望んで自分はやって来たのだ。



 それを。



 よもや偽者だなどと簡単に言い捨てられるとは夢にも思わなかった。



 きっと、この男ならば我がことのように喜んでくれるに違いない。

 勝手にそう信じて疑っていなかった。



 そうだ。



 勝手に信じて。



 勝手に傷ついて。



 こんなところで泣いてる場合か。



 誰に何と言われようと、自分さえ妹を信じてやっていればいいではないか。





「・・・・・・失礼、つかまつる」



「ちょ!ちょいとお待ちを、だんな!!」



 いっそ、泣き顔ならば、そのまま見送ったかもしれない。

 それならば、自分の言った言葉の意味が右近にちゃんと通じたということになるからだ。

 

 でも。



 穏やかに、低い声で暇(いとま)を告げた右近の唇には礼儀正しい微笑みが浮かんでいた。

 引き止める自分を見る瞳から、涙は消えていた。

 

 闇を滲ませるように揺らめく行灯の灯りに照らされたのは、作られた笑顔。

 自分の語る言葉に耳を貸そうとしない、事実を知ることを拒むための笑顔。



 このまま、



 そんな顔をさせたまま帰すわけにはいかない。



「俺の話も聞いておくんなさいよ」



 あの涙を見た瞬間は、思いがけず相手を傷つけてしまったことにうろたえ、嘘でも調子を合わせてやるべきかと思った。

 自分の胸に浮かんだ疑念には目をつぶり、今は妹が見つかったことを一緒に喜んでやりたい。

 そして、それを右近が何よりも望んでいることは痛いほど伝わってきた。



 しかし。

 それでいいのか。



 通りすがりに、うわべだけの安らぎを求めるのならば、右近はここまで来なかったはずだ。

 飲み屋でも蕎麦屋でも、それこそ、この飯屋ででも、生き別れの妹が見つかったと聞けば「そいつァめでてえ、飲みねえ、食いねえ」と喜んで酒や肴を勧めてくれる気のいい江戸っ子はどこにでもいる。それなのに、いくら律義者で借り物を返すためとは言え、広いお江戸で名前も告げずに去った自分を探しあて、いつ帰るかも知れぬのに待っていてくれたとなると、



 何故かは分からないが、自分は右近に選ばれたとしか思えない。

 そして、選ばれたからには、他の誰でもない、雀庵として応えてやるべきだ。



 だから、



「名雲屋の話は聞けて、俺の話は聞けねえって法はねえでしょう?」



 このまま帰すわけにはいかない。

 



 席を立とうと膝を浮かせた右近に雀庵が手を伸ばした時、



 カチリ、と右近の刀の鍔が鳴った。







「うっうわっっ!!ったったたったったー!!!だーーーーーッ!!!!」

 

 抜き足、差し足、忍び足。猫のように音もなく気配もなく、夜陰に紛れて障子に隅に穴を開けようとしていた加賀は、突然開け放たれた障子と目の前に閃(ひらめ)いた抜き身の刀に腰を抜かして悲鳴を上げた。こんな時のために持って来たであろう天秤棒も放り投げ、尻餅をついた姿勢のまま凄まじい勢いで後ずさっていった加賀にとって廊下はあまりにも短く・・・あっとゆーまに突き当たって一気に階段を転げ落ちた。



「・・・・・・なァにやってんでえ、加賀の」

「すまぬ、怪我は無いか?斯様(かよう)に脅かすつもりはなかったのだが」



 あまりの騒ぎに、さすがに心配になって2階から降りて来る雀庵と右近。



 幸い身軽な加賀は怪我をするでもなく器用に転がって、最後には何故か正座をしていたが、派手な悲鳴と騒々しい物音を立てている間に懐に入れておいた今日の稼ぎが宙を舞い、どこにどう散らばったものやらクルクル回っていた加賀には見当もつかず、今は半泣きになって銭を拾い集めているところだった。

 何事かと慌てた店の娘も客たちも、そんな加賀の様子に安心したように笑っている。



「・・・階段に18文、板の間に7文、土間に2朱と15文」

「へ?」



 階段を降りながら、階下で右往左往している加賀に向かって自分の肩越しに声をかける右近。その内容に驚いて足を止めて振り向けば、右近は屈んで暗がりから何かを拾っている。その動きにつられて自分の足元を見ると、1文銭が2、3枚重なるように落ちている。

 声をかけられた加賀も、ポカンとした顔で右近を見上げ・・・半信半疑で土間へ目をやると、その猫のような瞳を大いに丸くした。



 自分も夜目が利く方ではあるが、それほど明るいとは思えない店の奥にあって、よく見えたものだ。

 客の足の陰などになって見落としていた7、8文を拾い上げ、先に拾っていた分と合わせて机に並べる。

「ほらよ、階段に残ってた分の13文」

 右近から受け取った10文と自分が拾った3文を、加賀の前に置く雀庵。右近は、机に積まれた銭を数える加賀の手元を注意深げに見守っている。

「・・・・・・・1文足りねえ」

「何言ってンだ。2朱と40文、稲垣のだんなが仰(おっしゃ)った通りに、そこに揃ってるじゃねえか」

 加賀の言葉に怪訝そうな顔を見せた右近に代わって雀庵が言い返すと、加賀は右近に向かってまずは笑いかけ、それから少し困ったように頭を掻いた。

「あ、あぁ、ええ、その、仰(おお)せの額は確かに揃ってンですが、1文銭で41文あったはずなんで・・・」

「・・・左様か」

 加賀の答えに右近は納得がいったように頷き、きっとまだ土間かどっかに落ちてンだと思いやす、ちょいと見てみやすと言って椅子を降りようとした加賀の肩を軽く押し留めた。

「いや、それには及ばぬ。どこにも落ちてはなかろう」

「え?」

 妙に自信ありげな右近の声に促されるように加賀が腰を下ろすと、何もかもを映し出す水晶玉のように澄んだ瞳が直ぐそばに近づいて来た。

 そして、

 すらりとした指が、加賀の襟首にかかる。

 その指先の動きを目で追っていた雀庵が、あんぐりと口を開ける。



 右近は、そんな雀庵に見せつけるようにゆっくりと、襦袢と着物の襟の間から1文銭をつまみ出す。

 1文銭を受け取って、加賀の瞳がもう一度大きく丸くなった。

「こいつァ魂消(たまげ)た。だんなはもしや、千里眼の持ち主で??」



 落ちた金の数と在り処(ありか)を正確に言い当てられただけでも十分驚いていたのだが、どこに消えたとも分からない(万が一加賀が数え間違えていたら、この場に存在さえしない)1文銭を一発で見つけ出したとなると、これはもう千里眼で全てお見通しとでも言ってもらわなければ納得がいかない。



 しかし右近は、静かに首を振った。



「千里眼とは、また大袈裟にござるな。そんな大層なものではござらぬ。もう1文落ちたようには聞こえなかったゆえ、その身を改めて見ただけにござる」



 ・・・・・もう1文落ちたようには聞こえなかった?



 ちょっと待て。

 大したこと無いように、当たり前のように言われたが、それってもしかして千里眼より凄くないか。



 思いは同じだったらしく、どちらからともなく顔を見合わせる雀庵と加賀。



「って、あの、もしかして、だんなはあの騒ぎの中、加賀屋の懐から落ちる金の音を全部聞き分けなすったってことですかい?」



 果たしてそんなことが出来るものなのか。

 目の前で起きたこととは言え半信半疑で雀庵が問いかけると、右近はそんな雀庵をじっと見据えながら頷いた。



「幼い頃より、耳が良くてな」



 どこか挑むような口調でそう言って雀庵から一旦視線を外した右近は、少し遠い目をして、ゆっくりと語りだした。





「ある時、表から帰ってくると聞き慣れぬ鈴の音がうちの中で鳴っていた。何かと思って戸を開けてみると、赤ん坊だった妹がご機嫌で根付職人の父の傍で鈴を掴んで振り回して遊んでいるところだった。根付の細工が終わって仕上げに鈴を付けようとした父が、妹の手から鈴を取ろうとしたら喉も張り裂けんばかりに泣き出して・・・細工物にあつらえてあったゆえ、その鈴はいくら泣いても妹のものにはならなかったが、次の日には小さな鈴が綺麗な五色の糸で編まれた紐に通されて妹の手に結わえてあったよ。目を覚ました妹は、手を動かせば鳴る鈴の音に大はしゃぎだ」



 人形のように小さな妹の手に似合う、小ぶりの鈴。

 その鈴を手首に飾るのは、綺麗な五色の糸。

 柔らかい赤ん坊の肌を痛めないように、緩く編まれた組み紐。

 職人気質で無口だった父の、娘に対する愛情の表れ。



「父が妹のために作った鈴は、他の鈴よりも小ぶりで音が高く・・・それこそ、鈴虫のような音を響かせていた」



 チリリ・・・リリリリリン



「しばらくして、何かの弾みで妹が鈴を飲み込んではいけないと母が心配してお守りに付け替えたが、肌身離さず身につけていたことに変わりはなく・・・鈴の音(ね)さえ聞けば妹がどこにいるのか分かるくらいだった」



 そして、



「鈴音は、その鈴を持っていた」



 右近の瞳が、真っ直ぐ雀庵を捕らえる。



「この耳で、確かめた。いつも聞いていた鈴の音(ね)だ。間違えようもない」



 今、ここで起きたことを見れば、この耳の確かさを疑うことは出来まい。



「それがしとて、名雲屋殿の話をただ鵜呑みにしているわけではない。信じるに足る証があるのだ」



 だから、



「これにて失礼つかまつる」



 何も知らぬくせに、人違いなどと勝手なことを言ってくれるな。







 やっと念願叶った妹との再会に積もる話もあるだろうと、名雲屋は気を利かせて今日は吉原に泊まることにしたのだが、肝心の右近は明日の朝に名雲屋を迎えに来ると言い残して帰ってしまったという。



「それで落ち込んでいなさるのかい?まァ、これから座敷をかける時は必ずお前さんを呼ぶことに決めたから、そんなにガッカリすることはないよ・・・ああ、そう決めてしまったから、右近様は帰られてしまったのかもしれないねぇ、これは私が気の利かぬことをしてしまった。すまないね、鈴音」



 名雲屋の相手をしていた花魁が、何か思い詰めた様子の鈴音に気づいて席を外す。

 煙草盆から煙管を取った名雲屋は、ゆっくりと煙を燻らせながら、俯いている鈴音を見つめる。

 

 チリリリリリン・・・



 意を決したように鈴音が顔を上げた時、簪の鈴が鳴った。



「あの、名雲屋のだんな。実は、私は、」

「あんなに嬉しそうな右近様は見たことが無かったよ、鈴音」



 ハッと胸を衝(つ)かれたように、言葉を失う鈴音に、名雲屋は寧ろ労(いた)わるように微笑みかける。



「私はねえ、有体(ありてい)に申せば、お前さんがどこの誰だろうと知ったことでは無いのだよ」



 思いもよらない名雲屋の言葉の真意をつかもうと、鈴音はじっと瞳を凝らす。

 名雲屋の眼差しに、鈴音を責める色は無い。



「私は、右近様が信じる生き別れの妹御が見つかれば、それでいいと思っている・・・だから、お前さんの好きにするがいい」



続きに進む
元のページに戻る
HOMEに戻る